第2話 その名は

 ――――誓って言うが、草也の貞操は無事である。


「さて……改めて、先程は失礼致しました」


 毒気は抜けたようだから、と女は草也を解放したのである。

 乱入にも関わらず行為を続けようとしたのは、洒落の類らしい。笑えない。

 ……毒気、というのは草也を包んでいた途方もない全能感のことだろう。

 確かにあれを放っておいては、草也自身どんな行動に出ていたかわからない。組み敷くことで全能感を奪うというのは、正解であったと思う。


「いや……その、こちらこそ、迷惑かけたって言うか……」


 それはそれとして、彼女いない歴=年齢の草也にとっていささか刺激の強すぎる経験であったことは言うまでもない。

 しずしずと頭を下げる彼女と視線を合わせることもできず、それを見透かされてくつくつと笑われている。顔が赤い。いっそ殺せ。


 ともあれあの後、草也は女に導かれるまま、町はずれの廃ビルまでやってきていた。

 彼女が現在の拠点にしている隠れ家のひとつ……とのことだった。

 ひとつ、というからには他にも隠れ家はあるのだろうが、それについてはどうでもいいことだろう。

 廃ビルと言っても廃棄されたのが比較的最近なのか、内部は比較的小ぎれいである。無論、物らしい物はなく、電気も通っていないので酷く殺風景ではあったが。不思議と暗闇の中でも問題なくものを見ることはできた。忍者になった影響だろうか。

 案内されたのは、元は会議室か何かであったであろう場所で、持ち込みと思しきソファがいくつか配置されていた。

 ……こういうところには、だいたいホームレスなんかが住みついてるものなのではないか……と問うてみれば、曖昧な笑みを返されたので追及はしないことにした。


「ふふ。では、謝罪ではなく礼を言わせていただきましょう。先ほどは助けていただき、ありがとうございました……申し遅れましたが、私のことは船守ふなもりとお呼びください」


 どこか妖艶な笑みを浮かべつつ、彼女――――船守は自らの名を名乗った。

 ……改めて見るに、美しい女性である。

 切れ長の瞳、陶磁器のように白く美しい肌、厚みのある唇、艶やかな黒髪。

 整った顔立ちは言うまでもなく、すらりと伸びた肢体も、指の先まで余すことなく美しい。妖艶さを携えたしなやかさ。

 それらは露出した肩口から、あるいは太ももから、美しさという概念が先端まで流れるかのように完成された美を体現している。

 そういえば草也の衣服はいつの間にか忍者装束ではなく普段の私服に戻っていたが、彼女の方は素肌を大胆に晒す忍者装束のままである。正直に言えば、目のやりどころに困る。

 なだらかな胸すらも、芸術彫刻を思わせる完成美の演出として蠱惑的に映えた。

 先刻押し倒された時の媚態がフラッシュバックし、ごくりと生唾を飲み込む……


「…………そう熱心に見つめられては、穴が開いてしまいますわ?」

「あ゛っ、そのっ、す、スミマセン……」

「ふふ、冗談です。お気になさらず」


 ……遊ばれている。

 完全に両者の間で格付けが済んでしまった感があった。殺してくれ。

 いたたまれずにそっと視線を逸らせば、自然と他の人影が目に映る。

 先刻途中で乱入してきて勢いよく逃走した、草也の貞操の救世主とも呼べる女子高生である。その肢体は豊満であった。

 目が合う。少女は頬を朱に染め、おずおずとおじぎをした。


「あっ、そ、その……あ、あたしは紅葉もみじです。船守さんとはお友達で……あのぅ……先ほどはお取込み中大変失礼を……」

「違う。違うんだ。違うからね。いや違くないんだけど違うんですよお嬢さん」

「うふふ」

「笑ってないで弁護してくれませんかねぇ船守さん! いや七割ぐらいは誤解じゃない気がするんだけどさぁ!」


 よくない。

 完全に草也と船守がくんずほぐれつしたと思われている。いやくんずほぐれつはしたが。したが最後までは行ってない。未遂に終わっているのだ。その辺りは重要だ。


「いや! その……男と女! そういうこともある! 祖父も言っていましたし……大丈夫です! うん!」

「大丈夫じゃないんだよ! 違うからね! 未遂だから!」


 紅葉は顔を真っ赤にして、グッと拳を握り固めて叫んだ。

 彼女の中でなんらかの納得があったらしい。グッと握る時に豊満な乳房がちょっと揺れて、視線の置き所に困った。

 ……彼女も、相当な美少女である。

 膝の辺りまではあろうかという艶やかな黒髪を垂らし、日に焼けているのか、肌は褐色に彩られている。

 装束自体は一般的なセーラー服なのだが、彼女の容貌を非一般的たらしめているのは、なによりその豊満な肢体であろう。

 デカい。

 いやもう、デカい。

 何がとか言う必要があるだろうか。デカいのである。

 そのあまりに豊満な核弾頭に押し上げられたセーラー服が、褐色のへそを僅かに晒す不覚に甘んじているほどの規格外。マジでデカい。

 もう改行の代わりに“デカい”を使ってしまってるぐらいにデカい。

 あまつさえ体格自体は小柄な部類というのが倒錯的な魅力を醸しだしており危険だ。

 男子としてこれを視界の外に追いやるのは困難に違いないが、直視は紳士としてあるまじき非礼となろう。

 草也は……断腸の思いで視線を切った。

 視界の端で、船守の瞳が細くこちらを睨んでいる気がした。自分をそういう目で見るのはいいが、友人はアウト、ということなのだろうか。正直申し訳なさで死にたいぐらいである。


「アー……つまりオマエ、船守サンを抱いたのか? ヒューッ!」

「誤解が誤解を呼んでる!! 抱いてないよ!!! 」

「ほーん。つまり……抱いたのは紅葉サンか! やっぱ乳がデケェ方がいいよな!! ダハハ!!」

「えっ!?」

「それも違う!!! 未遂なんですぅーっ!!」


 そして最後に視界に入るのは、この廃ビルで留守を預かっていた大柄な女である。

 ……彼女は、純粋に大きかった。

 肢体が、とかではない。背丈がである。それはそれとして豊満でもあったが。

 草也が見上げるその巨体は、明らかに2m超はある。

 真紅のウルフカットに、いかにも粗暴そうな顔つき。

 鋭い眼光が、ドミノマスクの奥から覗いて見えた。

 鍛え上げられた巨体をワインレッドの忍者装束に包み、ニィと笑えば鋭い牙が覗く。巨大な肉食獣を思わせる女である。

 あるいは獣の美とでも言おうか、これはこれで壮絶な魅力を持つ女性と言えた。


「ダハハハ!! ジョーダン、ジョーダン。いかにも童貞くせーしな、オマエ」

「そ、そこまで言わんでも……」

「私がゲニンバチに追われているところを助けていただいたのです。少し酔って・・・いらしたので、口吸いで毒を抜きましたが……」

「なるほどね……んじゃま、ドーモ、ドーモ。アタイはヒールターンってんだ。よろしくな、色男!」

「……悪役転向ヒールターン? なんか、コードネームみたいだな」


 ヒールターン……プロレス用語で、善玉レスラーが悪役に転向することを意味する言葉である。

 人名としては、いささか奇妙と言わざるを得まい。草也はいぶかしんだ。


「まぁいいや。僕は風間「お待ちを」……うん?」


 草也も続けて名乗ろうとしたところで、船守から待った・・・がかかる。


「アー……マジに素人か、コイツ」

「みょ、名字だけならセーフ! セーフですよ! 大丈夫!」

「先に説明しておくべきでしたね。すみません」

「いや、すみませんって言われても、なにに謝られてるのかもわからないんだけど……」


 なにがなにやらである。

 業界特有の符丁とかがあるのだろうか。


「ええ。なので、ひとつひとつ説明しましょう。まず、この世界では実名を名乗ってはいけません・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「……気になる単語出てきたけど一旦置いとくね。偽名使えってこと?」

「真の名で相手を縛る忍び、というものもいるのです。故に、忍者は真の名を秘して偽りの名を用います。これを忍名しのびなと呼びます」

「じゃあ、君らのもその忍名ってやつなんだな。自分で考えるの?」

「そのヘンは個人差あるなァ。アタイの忍名ニンジャネームは自分で決めたが、師匠メンターに決めてもらうこともある」

「……あれっ、この人忍名しのびなって呼んでないよ!?」

「個人差があります」

「個人差があるなァ」

「色々理由があるんですよ」


 色々理由があるらしい。


「その辺りの説明も、順を追ってしていきますが……その前に、そうですね。風間様。貴方はおそらく、つい先日まで忍者ではありませんでしたね?」

「……まぁね。というか、今でも忍者になったって実感はあんまりない。なにがなにやらだ」

「ははァん……オマエ、死んだ拍子に忍者と会話する夢見て、起きたら忍者だったクチか?」

「ああ、そうだよ。……結構一般的なことなのか? これ」

「そうとも言えますが、そうでないとも言えます」


 煮え切らない答え。

 ……個人差がある、とか。

 色々理由がある、とか。

 なんだかどうにも、はぐらかされている感がぬぐえない。

 その感情も理解しているのか、船守は困ったように苦笑した。


「申し訳ありません。本当に……複雑なんです。この世界は少し、ね」

「……さっきも言ったよな。この世界・・・・って。業界って意味かとも思ったけど、そうじゃないね?」

「ええ、はい。では、端的に言いましょう」


 船守は一度言葉を切った。

 切れ長の瞳が、真っ直ぐに草也を見つめる。



「――――――――この世界は、貴方がいた世界ではありません」



 …………予想は、していた答えだった。

 なんとなく。彼女の言い方や、あまりに非現実的な出来事の数々からして。


「……そして、この世界にいる多くの忍者にとっても、そうです」

「…………なに?」

「異世界なのです。ここは。忍者を呼び寄せて捕らえる、鳥籠の如き世界」


 船守の視線が、窓の外に滑る。

 ビルの窓からは、なんてことのない夜空が見えた。

 どこにでもある、草也がいつも見ていたものと変わりのない夜空が。


「ニンジャイーター、という忍者がいます。この世界を統べる、神のような忍者です」

「……すごい名前だね」

「詳しいことはなーんもわかってねぇけどな。でもわかってることもある」

「この世界は……ニンジャイーターが張った結界によって、異世界から忍者を召喚して閉じ込める性質があるらしいんですよ。あたしたちもそれでここにいるんです」


 忍者を喰らう者ニンジャイーター

 ……冗談のような名前だ。

 しかし当然、語る船守たちの表情は真剣そのものである。

 皮肉屋のヒールターンですら、シニカルな笑みを潜めている。その事実が、ニンジャイーターなる愉快な名前が持つ意味の重さを感じ取らせた。


「……その名の通り、忍者の魂を喰らい取り込む、恐ろしい忍者なのです」

「アタイたちはアイツの張った網にかかったコイってワケだ。エサなんだよ、エサ!」

「で、もちろん抵抗してるから……今こうしてるみたいに、廃ビルに潜んでたりするんだ?」

「ええ、その通りです。多くの忍者がそうしています」


 廃ビル等の隠れ家を転々としている、と先ほど言っていたが。

 それは忍者としての習性や性質と言うよりも、なにかから逃げて暮らしているものの行動パターンであろう。

 その狩人こそが、ニンジャイーター。

 忍者を喰らう忍者。


「異世界から呼んでるせいで、忍者ってひとくちに言っても色々いるんです! 武術家みたいな人もいれば、ほとんど魔法使いみたいな人もいるし、中にはそもそも人間じゃないのもいますし……」

「例えば私は、風間様のように超能力じみた技は使えません。特殊な糸を操るすべは心得ておりますが」

「待ってくれよ。僕は……忍者じゃなかった。そりゃ今は忍者だけど……なんで僕が呼ばれたんだ?」

「忍者になったから、だよ」


 草也の疑問に答えを返したのは、ヒールターンだった。

 肩を竦め、シニカルな笑みでおどけながら。


「オマエは死んで、その時に忍者のソウルが憑依して忍者になっちまったのさ。そういう仕組みなんだ。オマエの世界じゃな。で、忍者になったからこっちに呼び出された。定員制らしいぜ? 誰かがくたばると、次の忍者が補充される仕組みなんだと。ま、運が無かったな」

「…………そう、か」


 ではやはり、あの記憶は。

 ……あの、記憶は。

 脳裏を過るのは家族の記憶。

 団欒。幸せな時間だった。空間だった。関係だった。

 それが全て壊れた。

 壊されたのだ。

 突如現れた忍者の襲撃によって、全て。

 父が、母が、祖父が、祖母が、そして草也自身が。

 あの記憶は、やはり――――


「……大丈夫ですか?」


 草也の記憶が現実に引き戻される。

 見れば、船守が心配げにこちらを見つめていた。苦笑する。


「――。ああ、大丈夫。続けてくれ」

「……わかりました。では、話を続けます」


 ありがたかった。

 声をかけてくれたのも、深く追求をしなかったことも。

 何があったのか、およそ予想はついているのだろうか。

 どこにでもいる青年が死ぬというのなら、悔いのひとつも無い方がおかしいか。そう思われたか。

 いずれにせよ、今は深く考えたくはなかった。

 というより、考えられないのかもしれない。

 死んだ家族のことを想えば、昏く淀んだ感情が胸を焼く感覚があった。


「なぜ私が追われていたか、の話をしましょうか」

「ああ……ゲニンバチ、とか言ってたっけ?」

「はい。私もそこまで詳しいわけではないのですが……なんでも宇宙からやってきた邪悪な忍者軍団の下っ端なのだとか」

「露骨に特撮怪人の設定だな……」

「そーなんですよ。特撮怪人なんですあれ。なんか本当に特撮の世界からやってきたっぽくて……頭目は処刑忍アシュラ・リッキー! カブトムシの怪人忍者で、これがもー強いんですほんとに!」


 処刑忍アシュラ・リッキー。

 ……ニンジャイーターに負けず劣らず、すごい名前である。


「いるんだぁ特撮怪人……それに追われてたってことは、そのニンジャイーターってやつの手先なの?」

「はい。あえて部下になることで捕食されることを免れている忍者も幾人かいるようで……」

「いつ気まぐれに食われるかわかったもんじゃあねーし、真似したいとは思わねーけどなアタイは」

「ともあれ私と紅葉様の二人でアシュラ・リッキーと刃を交えることになったのですが、流石に手ごわく逃げざるを得なくなり……そうして追われているところで、風間様が助けてくださったというわけです。改めまして、助かりました。もう幾度目かのお礼になってしまいますが」

「いや、まぁその……いいよ。僕も咄嗟だったしね」

「ハ! 色男め!」

「ヒールターン様。恩人への非礼は、度を越すと見過ごせませんよ」

「おーこわ。悪ィ悪ィ」


 特に悪びれた風でもなく、ヒールターンが手をひらひらとさせる。 

 キッと睨みをきかせた船守の方も、呆れ半分ため息を吐いてそれきりだ。慣れたやり取りなのかもしれない。

 ゆっくりとかぶりを振ってから、船守はやや視線を泳がせ、言葉を選ぶ様子を見せた。見せてから、静かに口を開いた。


「……実を言えば。私は……ニンジャイーターの秘密をひとつ、握っています」

「秘密?」

「はい。誰にも……紅葉様にもヒールターン様にも詳細は話していませんが、秘密を。その口を封じるために、私は彼らに狙われているのです。ですから――」


 船守が言葉を切る。

 言葉を選んでいる。探している。また。

 心苦しさを滲ませ、諦念と恥辱をないまぜにしたような声色で。


「……ですから。申し訳ございません、風間様。貴方はもう、私に関わってしまいました」


 悔いるように唇を噛み、彼女は頭を下げた。


「こうなれば貴方に選べる道は三つであり、けれど事実上ひとつだけ……“このままひとりでニンジャイーターから逃げ続けるか”、“私たちを売ってニンジャイーターに媚びるか”、“私たちと共にニンジャイーターと戦うか”」

「……………」

「ひとりで逃げるというのは、現実的ではないでしょう。貴方は忍者になったばかりの、右も左もわからない状態なのですから」


 それは、事実だ。

 忍者のことも、この世界のことも、草也は何も知らない。

 そんな状態でこの世界の支配者から逃げようとしても、逃げ切れるはずはない。

 すぐに見つかって……何をされるのかはわからないが、ロクでもない目に逢うのだけは確かだろう。

 彼女の持つ秘密とやらを知る知らぬに関わらず、草也は既に忍者である。

 そしてこの世界の神は、忍者を喰らう忍者なのだ。彼女たちの話が本当なら、だが。

 まぁ、草也を担いでいるにしては壮大すぎる話だ。そしてこの世界に忍者が存在するのは間違いなく事実で、草也がこの世界のことを何も知らないというのも確かな事実。ひとりで生きていくのは困難だろう。


「となれば後は、私たちにつくか、それとも売るか……いずれにせよ、貴方は我々と共に行動する他ありません」

「……そうだね。裏切るにしたって、今ここで戦って君たち三人に勝てるとは思わない。一緒に行動して、決定的な好機・・・・・・を待つ必要がある」

「私としましても、共に戦う仲間は切実に必要です。偶然出会った“ある程度善良そうに思える忍者”を仲間にできるなら、これほど嬉しいことはございませんわ。裏切りそうであれば始末はつけますが、今は猫の手でも借りたいほどなのですから」


 ……明け透けだ。

 彼女は明確に、草也が裏切るメリットを提示している。

 草也が命惜しさに自分を売る可能性を口にして――――そうして、草也を牽制している。

 わかっているぞ、と。

 こちらも裏切りを織り込んで、十分に警戒するぞ、と。

 彼女はそれをあえて、口にしているのだ。


 ――――そしてそれは、彼女なりの誠意でもあるのだろう。

 何も知らない草也を騙して味方に引き入れることなど、決して難しいことではあるまい。

 けれどあえて、誠実に草也を警戒している。警戒していることを教えてくれる。

 無知な命の恩人に対し、選択の自由を与えている。

 無論、今までの説明が虚偽でない保証はどこにも無いのだが……否。それならもっと、わかりやすい・・・・・・説明をするだろう。


 誠実な女性だ、と草也は思った。

 果たして器用なのか不器用なのか。いずれにせよ、好感が持てた。


「……僕が最初からニンジャイーターの手先で、君らを騙している可能性は?」

「それなら、あの場で私を助ける理由がありませんもの。あの時私は本当に弱っていて、簡単に捕らえることができたはずですから」


 最低限、彼女の方が草也を信用する理由はある、ということだ。

 人格面までは判断できずとも、経歴的には疑う余地がない。


「もちろん、私の方でも風間様が裏切らぬよう引き留める努力はしましょう。衣食住の提供は当然として……他のお二人についてはともかく、私の貧相な体でよろしければいくらでも好きにしていただいても……」

「えっ!?」

「いいから。そういうのはいいから! また紅葉ちゃんがビックリしてるでしょ!」


 ヒールターンは我関せずと言わんばかりにゲラゲラと笑っている。

 勘弁してほしい。そりゃあ船守は魅力的な女性だが、なんというかこう、勘弁してほしい。

 今時婚前交渉がどうとか言うほど真面目な人間ではないが、性欲に従って味方を選ぶ人間だと思われるのは流石に嫌だった。露骨過ぎるハニートラップは、あるいはこれはこれで誠実な交渉の形なのかもしれないが。


「あら、本気ですのに……それともやはり、胸の平たい女はお嫌いですか?」

「わかってて聞いてるよね!?」


 こうしてくつくつと笑われると、なんとも背筋がこそばゆい。勘弁してほしい。

 草也はがしがしと頭を掻いて、しばし思案した。


「あー…………なんて言うかな」

「…………」

「いやまぁ、結局選択肢は僕には無い……ってのは、さっき君が言った通りだし僕もそう思う。僕が選択するのはもう少し先、決定的なチャンスが来た時だ。わかるよ」


 そう。

 今この時、草也に選択する権利はない。

 恐らく今後来るであろう裏切りのチャンスに際し、裏切るかどうかの選択をするだけだ。

 その時までは保留の現状維持以外にできることはない。

 ……あるいは裏切りの目が大きいと船守たちが判断すれば先んじて始末される可能性はあるが、それはそれだ。いずれにせよ、今ではない。現実を拒絶し、駄々をこねてわめく意味もない。受け入れるしかない。


 けれど先送りにするべきでないことも、あるのだ。


「……正直、全然現実感が無い。なにがなにやらさっぱりだよ。忍者とか急に言われても……さっきの戦いは無我夢中だったし、自分が忍者になったってのもあんまりピンと来てないし……」


 自分の両手を見つめる。

 握っても、開いても、自分の手だ。草也の手だ。

 先ほどは真空波を飛ばし、ゲニンバチを倒した、殺戮者の手だ。

 そう、殺戮者の手だ。殺戮者の手なのだ。

 考えないようにはしているし、していたし、そうさせてもらってはいるけれど。


「……家族がさ。僕と一緒に殺されてるんだ。あれは多分、忍者の仕業だった」

「…………」

「昨日までみんな元気だったんだ。爺ちゃんは傘寿の誕生日だったんだぜ? みんなで笑ってたよ。ちょっと奮発していいご飯食べてさ」


 胸の中で、何かが燻っている。

 昏く淀んだ、ちりちりとした何かが胸を焼いている。

 絶望か、憤怒か、それとも別の何かか。

 ……わかっているのは、認めたくない・・・・・・ということだけ。

 家族の死を。

 幸福の簒奪を。

 心が拒絶していることだけは、確かで。


「理由なんて無いのかもしれない。偶然の事故だったのかもしれない。意味なんて無かったのかもしれない。でも――――」


 でも。

 あるいは、そうだというのなら。


「……僕は、忍者について知りたい。知らなくちゃならない。僕の家族を殺し、僕自身が成った、忍者というものがなんなのか。まずはそこから始めていくべきだと、僕は思うんだ」


 なにもわからないからこそ――わかる・・・べきなのだ。

 わかるように、進んでいくべきなのだ。

 今の草也に選択の権利が無くとも、いつか選択を下すために。


「だから、僕に忍者のことを教えてくれ。協力の条件……って言えるほど偉い立場じゃないけど、それが僕からのお願いだ」


 真っすぐに船守を見つめる。

 真っすぐに、右手を差し出す。

 船守はその視線を、言葉を、正面から受け止めていた。

 そして真っすぐに、草也の手を取った。


「忍びの私に誓えるようなものなどありませんが――――貴方様の心に敬意を。よろしくお願いします、風間様」

「こちらこそ。よろしく、船守先生」


 少しおどけた呼び方をすれば、船守はくすりと笑った。

 紅葉は嬉しそうに何度もうなずいて、ヒールターンはシニカルな笑みを浮かべている。

 ここから始まるのだ。

 右も左もわからないこの世界での、恐らく楽な道ではない物語が。

 船守は握った手を離すと、窓から覗く月夜を背にし、両手を広げた。草也を歓迎するように。


「――――改めまして、ようこそ風間様! ここは六道輪廻の落とし穴。大口を開けた奈落の底。忍びをこそ法として定めた外道の末席……」


 ……ああ、そうか。

 この世界、とか。

 そういう呼び方ばかりをしてしまうけれど。

 ここが人為的に作られた結界で成立する空間である以上、名はあるはずで。

 であればまずはこの言葉こそが、彼女が草也へ教授する第一の概念。

 故に高らかに、妖艶なるくのいちはその名を告げた。




「人呼んで――――――――――――――――奈落忍法道、でございます」




 この名こそ、草也の……奈落忍法道を往く、第一歩である。

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