第45話   吾輩には、わからない

 封印から目覚めて以来、じわじわと、記憶が戻ってきた。今では、完全に戻ってきていると自負できる。


 吾輩には、仲間、というものがわからん。

 男、子供、というものも、全くわからん。


 吾輩という存在が、小部屋で少女と一対一で、会話してきたせいだろうか。吾輩を大切に扱う人間は、皆、年端もいかぬ少女ばかりだった。


 だからだろうか、この屋敷で家族と一緒に住み始めたあの男には、警戒した。生まれた双子も男だったから、どうしてよいか戸惑った。


 男性相手の話し方や、機嫌の取り方が、わからない。どのような分身を、どのような声で、どのような性格にして作り出せばよいのか、わからなかった。絵画の中でじっと様子をうかがっているうちに、分身を上手く作れないまま、声も出せなくなっていった。


 昔から、何かに迷うと上手くいかなくなるタチだった。そういうときは、じっと絵画にこもって、自我のないふりをしてやり過ごしてきた。



 ラザフィールに起きた悲劇を目の当たりにしたとき、居ても立っても居られずに、飛び出していた。誰もいない薄暗い屋敷の中で、一人呆然とたたずむ彼を、そのままにしておくには、あまりに忍びなかったからだ。

 それは道具として――いつも手入れをしてくれる真面目な管理人を失いたくない、朽ちて壊れたくないという、道具吾輩の生存本能からくる行動だったのかもしれない。

 こんなに恐ろしい状況下に置かれた人間の話し相手になるのは、初めてだったが、どうしても、彼の涙を拭いてあげたかった。


 どんな姿になっても、どんなことがあってもラザフィールは優しい男だった。どんな言葉をかけてやれば喜ぶのか戸惑う吾輩に対し、ただ居てくれればいい、と言ってくれたのは助かった。


 そして、こんなに良い男が辿ってよい運命ではないと、心の底から腹が立ってきた。話し相手に合わせた顔ではなく、吾輩は彼の運命に対して、よく怒るようになっていった。


 いつも腹立たしい顔をしていてはいけないと、ラザフィールから日記を書くことを提案された。蓄積された負の感情は、発散させたほうが心身に良いからと。どうにも解決できないことは、紙の上に書いて置き去りにしてしまえばよいと。


 吾輩は怒りの原因になった悲劇を、日記に何冊も書き記した。それは双子たちが大変に不仲で、ラザフィールが傷ついてきた日々にまで日付がさかのぼっていった。吾輩は、ずいぶん前からこの一家に対して、腹を立てていたのだと思い知った。


 吾輩の今の性格が完成したのは、きっとあの一家のせいなのだろう。吾輩を描いた最初の画家は、用済みとなった吾輩を「廃棄」することを条件としていた。あの画家は、後世にまで残った吾輩が何をしでかすのかを、見通していたのかもしれない。


 ラザフィールは、ただの絵画だった吾輩がここまでやるとは思わなかったのだろう。怒りのあまりに屋敷を変化させ、侵入者をことごとく肉塊にし、ラザフィールに贈呈する吾輩を、痛ましく思ったかもしれない。


 当時の吾輩は、ラザフィールの気持ちよりも、容赦なく送られてくる刺客に腹が立っていたから、彼の話に聞く耳を持たなかった。


 そうして何十年と経ち、ラザフィールが人を襲って生きる生活を受け入れると、我輩に告げた。自立の時だった。彼はたっぷり血肉を吸収して強くなり、侵入者相手にも戦えるようになっていた。人間だった頃よりも、ずいぶんと体格が良くなり、これならば大の男相手でも引き倒せそうだった。


 彼は吾輩に、屋敷の主人の座を譲ると言った。そして、自由に生きてほしいとも告げた。彼はずっと、吾輩を己に縛り付けているのではと思っていたようだ。吾輩は好きでやっていたのだがな、彼は思い出深い屋敷が変形していくのが、少々嫌だったみたいだ。


 しかし今更、変形してしまったものは戻らない。


 特殊な日焼け止めを開発するなり去っていく彼を、ぼう然と見送るしかできなかった。手紙は送り会う約束はしたのだが、誰かと文通などしたことがなく、うまく書けるか自信がなかった。



 その後も、侵入者は後を絶たず、人肉を独り占めするようになっていた吾輩は、屋敷の外まで影響力を広げられるようになっていた。いつか少女たちから見せてもらった花を、屋敷の周りにたくさん創った。いつでも色の良い緑が生い茂る森を創った。たまに分身を増やして、屋敷を掃除した。


 興味がわいたものは、屋敷の中に取り込むこともできるようになった。おかげで、たまにラザフィールが戻ってきても、茶菓子が振る舞えるようになった。ラザフィールは苦笑していたがな。


 その後も交流が続き、ラザフィールはヴァンパイアたち相手に、骨董の商売を始め、吾輩もよく倉庫になってやった。ヴァンパイアでも姿が映り込む鏡ローゼン・シュピーゲルを彼に渡したのも、そんなやりとりの最中だった気がする。


 こうして吾輩は、商売仲間としても彼と手を組み、屋敷は物珍しいもので溢れ、それを管理するのも楽しかった。


 だが、やはりラザフィールが人外となって苦労して生きてきた歴史を知っている吾輩にとっては、彼が人としての幸せを得ることができなかったこの運命が、呪わしく感じた。その不平不満は、やがて運命を司る女神へと向いた。そして、どういうわけだか吾輩とラザフィールの間に無遠慮に顔を突っ込んでくる、当時の聖女にも向いた。


 以前の吾輩ならば、女性の機嫌を迷わず取っていただろう。そういう意図で作られた道具だったから。しかし今の吾輩は違う。事前の知らせもなく遊びに来るうえに、道具を荒らして片付けない聖女とよく口論になり、聖女が帰った後も、吾輩はラザフィールに愚痴っていた。


 彼は「あまり彼女たちの悪口を言わないほうがいい」と忠告していたが、腹が立っていた吾輩は聞く耳を持たなかった。


 そしてある日、壁に飾った覚えのない聖女の肖像画が設置されているのを発見し、取り外そうと額縁に触れたら……記憶ごと自我が封印され、その間はどうやらラザフィールとその使用人たちで管理してもらっていたようだった。



 封印されている間、屋敷を管理してくれた者、道具を掃除してくれていた者、屋敷を守ってくれていた者、多くの者の手を借りたようだ。これは、道具の分際で主人や人間たちに対等な立場を築こうとしていた吾輩への、罰なのだろうかと思った。無論、考えすぎなのはわかっているが……少し立場をわきまえた方が良いかと、落ち込んだ。


 だから、ラズたちが屋敷をうろちょろしている間は、あまり話さなかった。距離がある方が良いだろうかと思ったからだ。


 そうしているうちに気づいたことがあった。


 ラズがわからない。まず、奴の生い立ちが特殊すぎる。そこから他者との差が大きかった。その他、独特な価値観、意味不明に聞こえるが真意を突いた会話の流れ、観察眼の鋭さ、そのくせ暴力的な言動。ラズほど扱いに困る人間は、今まで見たことがなかった。


 しかも、最近なぜか吾輩に懐かない。なぜなんだ? 食い物に執着していたようだから、食い物をくれてやった。ロゼを大事にしていたようだから、吾輩もロゼには友好的に接していた。聖女に擬態したミミックのことも大事にしていたようだから、それに関しては近づかないでおいた。それなのに。


 ラズの真似をしたら少しは親近感を覚えてもらえるかと思い、格好を模したら、それも変だと指摘された。


 さらにラズは、何でも話してほしいと言ってきた。道具として距離を置こうとしていた吾輩に。さらにさらに、戸惑うあまりに何も語れぬ吾輩に、ラズは強い不信感を抱き始めた。不安と怒りの入り混じった、あの青い目で見上げられると、どうしていいかわからなくなる。


 気持ちに迷いが生じると、うまく分身が作れん……。またしばらく、様子見と称して絵画の中に引っ込んでいることにした。



 あの偽聖女は、毎日同じような繰り返しに安心するようだから、食事関連のままごと遊びには付き合っておいた。あとは、あまり干渉しなくても勝手にチビだちの面倒を見たがるので、そのままにしておいた。


 ロゼは他者に長く使われてきた道具らしく、相手に合わせながらも、こちらの懐を探ろうとしてくるが、そこに悪意はなく、吾輩を屋敷の主人と定めているからこその敬意のこもった態度で接してくる。吾輩と同じ道具のせいか、相手に合わせがちなところと、自我を持て余し気味な部分に共通点を見出せる。


 ……見い出せて、いたのだが、不審者相手に、ロゼまでが前線に立ったのは大変驚いた。もっと臆病で繊細な性分だと思っていたから、てっきり逃げ回るような発言をしたり、吾輩の絵画を迷わず何枚も盾にして生き延びるものかと思っていた。


 だから、ロゼ自身が粉々になって散らばったとき、柄にもなく悲鳴を上げた。魔物にとって、割れるだの粉々になるだの、最も避けたく思うはず、それなのに。敵前で分身を失い、予備も用意できない状態で、何を考えているのか。


 そこまでして守りたい存在を……以前の吾輩も、持っていた。しかし、やはりロゼのやり方は無計画すぎる。自我が目覚めて日が浅いのだろうか。


 今回の屋敷の侵入者は、ラズの親族のようだった。いったい、どのようにけじめをつけるのかと思ったら、まだまだ先は長そうで、吾輩の脳裏に、あの不仲だった双子の喧騒が蘇り、心がざわついた。



 ……ラズが、嫌いだ。苦手と言ったほうがいいかもしれない。おそらくラズも、吾輩を嫌っている。その原因がわからない。嫌われたことがないからわからない。聖女は別として、吾輩を不快に思い破棄しようとした人間は、この世に誰一人いなかったせいだろうか。


 長く生きているくせに、己が筋金入りの箱入りであることに、今更、気づかされている。その事実にも、戸惑った。


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