白い部屋の暮れ

えりぞ

白い部屋の暮れ

 陽当たりのよい病室でユウコはベッドに横たわっている。白い壁紙の部屋。白いカーテンに白いシーツ。2年前に倒れて手術をして、いくつも病院を転院して、いまここ。山あいのダム湖のほとりに建つ病院で横たわっている。


 自分の力で、体を起こすことはできない。気管は切開されチューブが入っているから、声を出すことはできない。口から食事を取ることもできない。胃に穴をあけて通したチューブから流し込む。痰が絡むと自力では吐くことができないから、震える手でプラスチック製のナースコールのボタンを押す。少しするとナースがやってきて、細く透明なビニールの管を喉に開けられた穴に入れる。それからモーターを起動させると、ガガーという音を立てて気管の痰は管に吸われていく。いつもユウコはひどくむせた。

 声を出せないから、目と声の出ない口で「ありがとう」とナースに伝える。はいはいとナースは言うが、忙しいときあまり頻繁に呼ぶとイライラさせてしまう。とはいえ、喉にたまる吐き出せない痰はひどく苦しいもので、何度もナースコールを呼ぶことはあった。


 69歳になっていた。折り合いは良くないが夫がいて、遠方に娘が1人、息子が2人いた。もう1人娘がいたが、2歳で亡くした。赤痢だった。「あの子のそばに行きたい」と29歳で日記に書いてから、40年が経つ。枕元には2歳のままの姿でいる、白黒の次女の写真が置いてある。倒れるまで、毎日欠かさず朝と夕に手を合わせていた。


 病室から湖は見えないが、病院の建つ湖畔には来たことがあった。昭和20年。12歳で疎開してきた夏には、まだ湖はこれ程大きくなかった。ダムは戦前からあるが、戦後何度か拡張を繰り返して大きくなり、湖畔に桜を植え、公園もあるはずだ。昭和20年の8月6日、まだ小さな湖、今はもう水の下に沈んだ湖畔の道で、学校に向かう彼女は南からの閃光と、大きなキノコ雲を見たのだった。


 ユウコは同じ県にある軍港の町で生まれた。兄が1人。母親はユウコを産んですぐに死んだ。母の顔は、写真でしか見たことがない。もの心ついたときには大陸で戦争が始まっていたが、まだ遠い国の話でしかなかった。真珠湾もマレー沖も、遠い話だった。空襲が始まるまでは。

 軍港だったから、来るのは単発機が多かった。大人には「羽が伸びてるのがグラマン、曲がってるのがシコルスキー」と聞いた。学校帰りに歩いていると、どちらかわからないが雲の上から2機降りてきて撃たれた。音が消えたような気がして、周囲に土煙が上がった。飛び去る戦闘機に、乗る人の顔が見えたように思った。


 その日のことはもう覚えていない。それどころかその日から数日、記憶が定かではないのだが、同じ日、別のところで同じように機銃掃射された同級生が死んだと聞き、話すことができなくなった。


 数日して、この湖畔に住む親族の家に預けられたのだった。昭和20年7月だった。


 湖畔で閃光とキノコ雲を見た日からほどなく戦争が終わって、秋に軍港の街に帰った。家に戻ると、海軍に志願したと聞いた遠縁の若い男がいた。代用の三種軍装がまだ幼い顔に似合わない。17歳だったはずだ。9年後に結婚することになるが、顔が大きい男という印象しかなかった。食糧に事欠き、翌年まで苦労した。


 鳥のエサ、配合飼料を丸めて「農協団子」と呼んで食べるなどもしていたが、少しずつ食糧が家にも届くようになった。もう軍はないから軍港ではないが、元軍艦が復員船となって元軍人が復員するようになった。喜んでいたが、治安も悪くなりヤクザ者が目につくようになった。

 家の前でも拳銃で撃ち合いを見た。それでもすこしずつ、軍港の街は焼け跡から復興していった。父は再婚し、新たな母との間に戦後、妹が3人できた。憲法も変わり、女も男と同じ権利を持つのだと聞いた。十代の半ばから、「美人である」と言われることが増えた。


 十代の終わり、街で初めての「ミスコンテスト」なるものが行われると聞いて、応募した。水着にもなり、人前に出た。父親には「勘当する」と言われたが、出た。親に反抗をしたのは、後にも先にも、この時だけだった。ミスにも準ミスでもなかったが、半世紀前のこの日を忘れたことはない。翌年、終戦後家に居た、遠縁の男の家に嫁いだ。同じ県だが、遥か山を越えてきたそこは江戸時代のようだった。電気は来ていることになっていたが、電灯はすぐに消える。井戸水と川の水で暮らす。


 初めて子どもを妊娠したとき、「家で産婆が取り上げる」と聞いて断固として拒否し、山を越えた街の医院へ入院した。長女は村で初めて「病院で産まれた子」となった。次女は2番目の「病院で産まれた子」だった。肉付きの良い長女と比べ、どこか細く、可愛らしい子であった。いま思えば、はかなげであったように思う。


 昔のことを考えて、少し寝てしまった。もう夕暮れで、娘が来ていた。まだ生きている長女。40代になった長女。息子が2人いる長女。次女も生きていたらこれくらいだろう。次女にも、子どもがいただろうか。長女は勝ち気で骨が太く、夫似だった。夫とは馬が合わないことが多かったが、夫に似た部分の多い長女とは仲が良かった。生きていたとしたら、次女とは、どうだったろうか。


「やっと、もうすぐ次女に会えるのだ」倒れてから、ユウコはそう思っていたし、長女には出ない声と震える手での筆談でそう伝えていた。長女はそのたび泣くのだった。長女の長男はもう何年も学校には行っていない。それで長女は悩んでいたが、力になれないまま、倒れてしまった。


 長女の長男はユウコにとり初孫だった。生まれる前から手伝うため関東の長女の家にひと月泊まり込んだ。長女の長男は内気なところと、騒がしいところがあり、妙に敏感な子だった。「本が好きだ」と聞いたときは、賢い子かと思ったものだが。


 まだ元気だったころ、長女の長男が1人、ユウコら祖父母の家で年末を過ごしたことがある。中学生にはなったが、中学には行っていないと長女からは聞いていた。夫である祖父には言っていないから、わざわざ冬休みになってから来た。何十冊も本をリュックに詰めて。ドサリと部屋に置かれた本には筒井康隆や小松左京といった知っている名前に混じって、外人の本もあった。「S・キング」なんとなしに翌日、新聞のTV欄を観ていると、その名前があった。部屋でずっと本を読んでいる孫に、「夜、面白そうなドラマがあるから、一緒に観ない?」と声をかけた。


「ランゴリアーズ」というドラマはユウコにはあまり面白くはなかった。だが、13歳の孫は楽しかったようで、「スティーヴン・キング、知ってるの?」と聞いてきた。「知らないけど、面白そうだったから」と答えた。孫は、あの夜を覚えているだろうか。あの作家を、今も好きだろうか。


 また少し寝て、もう病室は暗かった。このところすぐ寝てしまう。長女はユウコの手を握ったまま、座って寝ている。長女の手は昔からあたたかく、母であるユウコの手を「冷たい」と言ってからかっていたのを覚えている。「手が冷たい人は、心があたたかいの」と返したのは、もう何年前だろうか。自分が次女のそばに行っても、40年前と違って、長女は大人だから大丈夫だ。子育ての力になれなかったのは心残りだが。


 ユウコは中年になった長女の手を握って、それから震える手で、さするようにした。できる限り。まだ長女が幼かったころのように。嘘でも「大丈夫よ」と言ってやりたかった。窓にはカーテンが閉められている。ユウコには開けることができない。たとえ開けても湖はみえない。


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