不凍の聖女は氷の精霊王に溶かされる

和泉鷹央

第1話

 あまりにも感情を出さず、不凍と令嬢と呼ばれたメイルージェ。

 彼女が氷の精霊王ホルトの聖女になって二か月ほど経った、ある日のこと。

 ホルトは守護しているロンデム王国の王都シェクティの案内をメイルージェに命じた。


 氷の精霊王が、ロンデム王国の守護を始めて約千年。

 百年ほどの間をあけて、彼は王国の各地を密やかに訪れては人々の様子を見て回っていた。

 飢餓があれば心を痛めたし、戦争があれば死んだ者が安らかに眠れるように魂を導いたこと幾度もある。


 守護者は魔の気配から王国を守ってきたのだが。

 今回はとても私的な理由で王都をお忍びで訪れていた。

 


 *


 ホルトが王都に行きたいと呟き、それを耳にした聖女は表情を変化させず静かに問い返す。


「神が現世に出ていき、それでどうなされるのですか」

「見ておきたいものがあってな」

「ご興味がおありなのですね。不思議なことです」

「興味があってはいけないのか?」

「いえ……別に」

 

 氷の聖女はその名のごとくとても淡々とした返事をする。 

 ホルトはそれを受けるたびに、少なからず心を痛めていた。

 彼女がそうなのか。それとも、いまの王国の民すべてがそうなのか。

 メイルージェは自分の周りで起こるできごとにまるで関心を示さない。

 もし、王国の民の多くがいまのメイルージェのようならば、それは仕方ない。

 文化がそうなったのだろうから、そのまま受け入れるしかない。

 逆にメイルージェが特別なら、それもそのまま受け入れるしかない。

 しかし、聖女に指名し、異世界にあるホルトの城に呼びつけたことで、感情を無くしてしまったのだとしたら。

 そう思うと、氷の精霊王は罪悪感を抱えすらした。

 今回、王国の民の現実をその目で見たいとホルトが考えた理由はそこにあった。


「どのようなところをご覧になられますか」

「民の感情がよく分かるところがいい」

「……」


 そんな注文を出すと、メイルージェはまた感情のない瞳でこちらを見、天井を見上げて思案する。

 二度ほど宙をさまよった彼女の視線は、やがてなにかを思いついたらしく下へとおりてきた。


「では、歌劇場などは?」

「劇場があるのか? 旅芸人が幕を張って短い期間で劇をするようなあれか」

「いいえ、主。それははるかな過去の話です。いまは歌劇というものがありまして」

「吟遊詩人がリュートを弾き、歌うなかを踊るようなものか?」

「それはあまりにも古典かと……」


 呆れたような声にも相変わらず、抑揚はなく。

 それでいて神様なのに何も知らないの? と責めるような雰囲気が生まれたのは気のせいか。

 メイルージェは「うーん……」とここ二か月の間で、初めて困ったような声を上がる。

 聖女の素顔が垣間見れたような気がして、氷の精霊王はほんのすこしだけ安堵を覚えた。


「行けばわかるかと、思います。もっと華やかで、もっと……」

「どうした」

「何でもありません。とにかく、行きましょう」

 

 二度目に見えた少女の素顔は、ホルトがもっとそれを見たいと思う前に、さっとその姿を隠してしまう。

 メイルージェは彼との心の距離をいつも通りに戻し、翌日に二人は王都の中央にちかい場所で、歌劇を楽しむことになった。


 *


 訪れた歌劇場でホルトが一段下に座る聖女の素顔をこっそり覗くと、その横顔はたしかに氷で作られた彫刻のようだった。

 舞台の上では真っ赤な幕布が下がり、劇と劇の合間の休憩を挟もうとしていた。

 これから演目はクライマックスに向けて盛り上がるところのようで。

 それを見るメイルージェの顔には……やはり、楽しさや嬉しさといったものが見えないでいた。


「ふうむ」


 肩で切り揃えられた均質な栗色の髪、なめらかな白い肌、菫色の透明感のある瞳。

 見る者すべてに、氷のような冷たさを感じさせる。

 まるで、陶磁器で作られた人形。いや、氷で作られた不凍の人形か。

 ……溶けることはないのだろうか?

 氷の精霊王はふと、そんなことを考えてしまう。

 そんなことを思っていると、彼女もこちらの視線に気付いたらしい。

 後ろの席に座る視線の主をふと見返してくるから、ホルトは内心慌ててしまう。

 

「どうかなさいましたか、我が主?」

「……」

「あの。精霊王様?」

「何でもない」

「そうですか」


 そっけなく言い返すとメイルージェはどこか寂しそうな顔をして、前の方に向き直る。

 彼女の瞳は漂わせている雰囲気とはまるで違っていて、何かに対する熱意。興味や関心といったものを失っているように見えた。 

 まるで、鏡のようだ。

 氷の精霊王は、聖女の瞳を見てそう感じる。

 周囲の景色をただただ映し込むだけの鏡のようだった。

 どうすればその心を溶かしてやれるのか。

 二か月という時間では、お互いに信頼を築けていないのかもしれない。

 神とはいえその力を行使してメイルージェの心を知ることは何か間違っている気がして。

 関係をよくするきっかけがつかめないまま、歌劇は再び幕を上げていた。


 演目は旅物語だった。

 というよりは復讐劇というべきか。

 領主に妻を奪われ殺された騎士が国を追われ、旅すがら仲間を見つけて復讐するという話。

 所々に都合よく騎士を導いたり、素晴らしい能力や武器や知恵を授けて彼を助ける神や天使が出てくる。

 そんなに都合よく神が救いの手をあたえるものか、と心で苦笑いをし、困惑しつつ、ホルトは劇としての物語を楽しんでいた。

 彼の周りにいる王都の市民たちは、ホルト以上に劇を楽しみときには涙をながして悲しみを露わにしている。

 と、いうことはメイルージェがとても不器用なのか。

 それとも聖女という役割が彼女のこころを閉じ込めてしまったのか。

 もしかしたら、病期かもしれない。 

 劇は盛り上がり、その中で騎士はとうとう領主を倒してしまい、観客は拍手喝采でそれを歓迎する。

 舞台は大成功だろうが、こっちの心は晴れないままだ。

 そうこうしているうちに歌劇は終了してしまった。

 感動して泣いたりする夫人たちがいるなかで、やはりメイルージェだけは鉄面皮のままだった。


 帰路。

 お忍びで訪れているホルトは現世では裕福な商人を演じていた。

 自分の神殿の信者になりきり、莫大な寄付をして見返りにたまたま現世に戻っていた聖女の案内で歌劇を訪れる。

 そんな筋書きだったから、彼はこれから聖女を貸し切った六頭立ての馬車で神殿まで送っていくことになる。

 神が乗るから馬たちが妙に嬉々としていることに御者は不思議そうな顔をしていた。

 そんな箱馬車のなかで氷の精霊王は、正直、緊張していた。

 聖女は困った様子で声をかけてくる。


「……お気に召しませんでしたか」

「いやそうではない」

「主が望まれたように多くの人々の感情が集まる場所にご案内したのですが」

「そう、だな。演目も音楽も役者の演技も素晴らしいものだった」

「ではどうしてそのように怖いお顔のままでいらっしゃるのですか」

「なに……?」


 そんなに怖い顔をかと、不安に思い馬車の窓ガラスに自分の顔をうつして見る。

 緊張感がそうさせているのだろう。

 どうして緊張しているかを話すわけにもいかず、考えたら眉の間にしわを寄せているのに気づいた。

 メイルージェはそれを見て、それです。と一言小さく声にする。


「それとは、何のことだ?」

「ですから。主はいつもそのように眉根に皺を寄せて怒ったような顔をなさっているのです」

「そんな顔を私はしていたのか」

「はい。ですから今日はとても良い日でした。主が劇を観て楽しんだり悲しんだり喜んだりなさっているのを見れて。とても良い日でした」


 二度、同じ言葉を続けて聖女は初めて嬉しそうな顔をしてみせる。

 不凍と呼ばれ鉄面皮のように不快なことがあっても眉一つ動かさない。そんなメイルージェしか見知らぬ氷の精霊王は、なんとなく心温かくなるのを感じた。

 でも、とメイルージェは続ける。


「でも劇が終わった後はいつものようになってしまわれて、やはり私に何か至らない点があるのかと。そう思ってしまいました」

「そんなこと思っていたのか?」

「そうです。それに苦手……なのです。これまで神殿の中でずっと女性ばかり。主は神ですが、やっぱり男性とはどう接していいかがわからず」


 ホルトはメイルージェを随分と見誤っていたのだと理解する。

 これまでは彼女がどんな人柄かもわかったつもりでいた。

 冷たくて、言葉数も少なく、周囲に対する愛想というものもほとんどない。

 そんな感じに思っていたからだ。

 多くのことに対して興味を示さない女。不凍のメイルージェ。噂をそのまま受け入れてしまっていた。

 彼女は人間嫌いでも、感情がないのでもなく。ただ考えすぎて歩けなくなってしまっただけなのだ。

 ついでに聖女という地位もメイルージェの感情が自由になる足止めをしていたのかもしれない。

 幼くして優秀な才能は、周囲に恐れられながらも崇められる。周りの期待が高まれば高まるほど、その気持ちに応えなければならない。

 メイルージェが感情を表に出すことは単なるわがままで、認めてもらえなかったのかもしれない。


「無理をさせてしまったな」

「いいえ、無理だなんてそんなことはありません。ただ、主に人間の感情を見せることも失礼かと、そう思っていました」


 だから、彼女は多くのものに興味を示すことを止めたのか。

 不凍の二つ名がついたのはその結果なのだろう。そこまで思い至りようやくホルトは気づいてしまう。

 心の中を露わにしてさらけ出してしまったことを恥じ入り、視線をそらして横顔を見せるその美しさに。

 透き通るように綺麗で神が作ったかのようなその横顔に見惚れてしまう。

 夕焼けの赤い斜陽に繰り返された彼女はまさしく、氷の彫像のようだった。

 この瞬間が永遠に続けばいいと思わせるほどに。

 それは感情を出すことを諦めた孤高の人間だけが魅せることができる表情かもしれない。

 とはいえ彼女はいまようやく心に張ったベールの一枚をそっとめくってくれただけで。

 それを無理やりに開くことは許されない気がした。


「……私はその逆だった」

「それはどういう意味でしょうか」


 言っていいものか。

 神という立場がなんとなくホルトの素直な心をさらけ出すことに拒否感をもたらしていた。

 深呼吸をして、ホルトは拒否感をどこかに追い払った。


「観劇にきたのも、王都を視察にきたのもどれも言い訳に過ぎない」

「言い訳とは? 神である主が何に言い訳をするのですか」

「この二ヶ月、私も城にやってきた聖女はどんな話をしても何を聞いても、いつも生きているのか死んでいるのかわからないような。そんな受け答えだったからな」


 それを耳にしたメイルージェは、少し遅れてホルトに向いた。

 彼女の瞳は輪郭を失っていた。

 すべての興味を精霊王に向けて見開かれていて、まさしく「驚愕」といった文字がそのまま似合いそうな雰囲気だった。

 しばらくの間、彼女はパクパク音を小さく口を開けて音にならない声を上げようとしていた。

 そして、小さな声がやってくる。


「申し訳ありません……私が至らないばかり」

「いやそうではない。謝罪など必要ない。私が何か困らせているのかと思っていただけだ」

「そんな。主は何も悪くありません。従者たる私の責任です……」


 形のいい猛禽類を思わせる瞳に大粒の涙がたまっていく。

 どうも彼女は何を言っても自分の責任だと思い込むらしい。

 申し訳ありません、と何度も続けながら下を俯いてしまう聖女を見て、精霊王は何かを失敗した、そんな気になった。

 どう言えばそのまま伝わるのだろう。

 こっちもなんとなく困ってしまってやっぱり出てくる一言はひとつだけだった。


「メイルージェ。お前に感謝したい」

「感謝なんて、そんなこと」

「いや本当のことだ」

「そんなもの欲しくありません」


 そう言い、向き直ったメイルージェの瞳は、今度は無気力に見開かれていた。

 彼女は自分の心を守ろうとして、不凍を貫こうとしていた。興味を示すことなくひっそりと冷たくあろうとしていた。

 なるべく傷つかないように多くのものに自分から関心を示すことを止めようとしていた。

 これはまずいと精霊王は慌ててしまう。

 本当の猛禽類のように孤高の存在になられてしまったら、多分もう二度と彼女の心は開くことがないだろうから。


「私を支えてくれないか。私もお前のことを支えていきたい」

「……支えております。私を支えていただく必要はございません」


 ああ。やっぱり何かを間違った。

 何を言えば許してもらえるのか。

 たった二か月の付き合いしかない、それも人間の女相手にどうしてこうも自分の心がざわめくのか、ホルトは不思議でならない。

 言葉とはめんどくさいものだと思い始めた精霊王に、聖女はぽつりと抗議の声を上げた。


「主はいつもずるいです」

「……なに?」

「私はいつも、失礼がないように、ミスがないようにと努めております。ですがそれは褒めていただきたいからしているのではありません。聖女として定められた立場だからこそそうしているのに。主はまるで人間の主人がするようにこちらを理解しようとなさいます。今回の言い訳と言われた視察のように」

「私がお前を理解しようとすることは許されないことか?」

「そうは言っておりません。神は神、聖女は聖女としてお互いに線引きをするべきだと……」

「だがこれまでの聖女たちは私ともっと人間味のある付き合いを、な」

「それが望みだとおっしゃるならばそういたしますが」


 と、どこかほんの少しだけ怒りを含んだ目をして、メイルージェは視線をそらしてしまう。

 

「聖女は聖女として人前で感情をあらわにするなと教わってきたのです。いきなり心を見せろと言われても、そんな簡単には無理です。いえ……申し訳ございません。無理というのは失礼な物言いでした」

「人間同士でも時間は必要か?」


 その問いかけに聖女はまたちょっとだけ驚いて、視線をこちらに戻してくる。

 そこには新たに驚きと不安と苛立ちが混じっていた。


「人間は言葉を使います。神は心で会話をなさいます。それならば、私の心を覗かれたら一番早くわかるのに。どうしてなされないのですか」

「誰だって心のなかを勝手に覗かれたら、嫌だろう?」

「あ……」

 

 当たり前のことを指摘され、初めてメイルージェの頬に朱が浮かぶ。

 理解できるようで釈然としない、そうな表情を彼女はして見せた。

 

「そんなことを当たり前に言われるのがずるいと言っているのです。なんですか、神様のくせに……」

「くせには言い過ぎだろう」

「言い過ぎではありません! 人間同士だってもっともっと理解しあってからお互いのことをさらけ出すものですよ。いきなり何もかも感情をあらわにしろと言われても困ります! まだもう少し、時間を……下さい」

「時間はいくらでもある、が。それでいいのか」

「困ります」


 なぜだろう。

 困りますの一言を聞いた時。

 理由は分からないが氷の精霊王はほっと心をなでおろしていた。

 それは拒絶でも、拒否でも、否定でもないと思えたから。

 

「私も一緒に困ることにしよう」

「何ですか、それ。馬鹿にしてるんですか?」

「まさか。私はお前とー……何でもない。今ここで言ってしまっては、まだ付き合いが深いとは言えないからな?」

「何ですかそれ、もー!」


 そう意地悪に言ってのけるホルトは、許されたのだと感じた。

 メイルージェの美しく赤い唇を見ながら彼女に惹かれてことに同時に気づく。

 しかし精霊王はどこか思うのだ。

『不凍』で孤高の聖女はわずかに溶け始めてくれたのではないかと。


「今日は楽しかったよ。ありがとう」

「私こそ……ありがとうございました。でも、これから現世に来るのを言い訳に使ったら許しませんからね?」

「え、あっいや……」

「聞いてください。そうしたら、ちゃんと……応えますから」

「ああ、そうする」


 やっぱり氷の聖女の心は少しだけど溶けてくれた。

 氷の精霊王はそれを確信して、メイルージェに見えないように微笑んだのだった。


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