私とキジバトのピー助
砂上楼閣
第1話
私が初めてヒナから鳥を育てたのは、小学校高学年の頃のこと。
台風一過の晴々とした青い空が気持ちいい日和。
ピー助がうちにやってきた。
「ナツくんのうちはハトかってるから、ほごしてあげてって…それで…」
そう言って弟は、小学校から持ち帰ってきた段ボールを玄関口に置き、ふたを開いた。
弟のナツは優しい子で、人から頼られると嫌と言えない子だった。
今ではそんな面影は微塵もないけれど。
子供の頃はとにかく大人しくて、優しい子だった。
小学校低学年の弟が両手で抱えられるほどの大きさの段ボール。
その中には柔らかくて白いタオルに包まれた、茶色い毛玉がいた。
羽というよりは産毛の塊で、しっとりと濡れているよう。
驚く私が見ていると、ふたが開いて明るくなったのにびっくりしたのか、茶色い毛玉がもぞもぞと動き出したのを今でもしっかりと覚えている。
目がよく見えてないのか、単純に危機感がないのか、そっと指先でつついてみても反応はなく、たまにか細くピィと鳴いていた。
これが私とキジバトのピー助との初対面。
…………。
「これは、キジバトのひなだな。昨日の台風で巣から落ちたんだろう」
そう言ったのは仕事から帰ってきた父。
我が家では祖父の代からハトを飼っている。
私が生まれる前に亡くなった祖父から引き継いだドバトは、当時20羽ほどいただろうか。
まだ私たちが生まれる前は外に放鳥したりしていたらしいけど、歳をとって戻って来れない子や、猫に襲われて怪我をする子がいてやめたらしい。
「ナツの友達が拾ったのか?落ちてるヒナは次から拾っちゃダメだって言っておくんだぞ」
巣から落ちたヒナは拾ってはいけない。
それは大人になった今でこそ知っていることだけど、当時の私たちは当然のように知らなかった。
今回のように、台風などで巣から落ちたり、巣立ちの練習で地面にいたり。
そういう場合、親鳥が近くにいたりする。
けれど人が近づいて来ると鳴くのをやめて、立ち去るまで息を潜めたて隠れたりする。
だから小鳥のヒナが地面にいても、すぐに拾ったりしてはいけないのだ。
もちろん遠目に見て、何時間も、日を跨いでもずっと親鳥が現れなかったり、怪我をしていたり衰弱して死にかけていたら別だろうけれど。
それでも、父は自然の生き物は極力自然のままにすべきだと言っていた。
「人に育てられた野生動物は、狩りの仕方も、食べ物の探し方も分からない。ヒナを拾ってきて、大人になるまで餌を与えて育てて、外に離してはい終わりじゃない」
鳥とかに馴染みのない大人でも、可哀想だからと拾ってしまう人がいる。
子供ならばなおのこと。
でもそれは、動物の親から子供を奪ってしまう、残酷な行為。
親切でやったことが、野生の鳥たちにとっていい事とだとは限らない。
「ここまで連れてきちゃったなら、もう仕方がない。大人になるまでうちで保護するか」
こうして、我が家でキジバトのヒナを育てる事になった。
まずは名付け。
か細くピー、ピーと鳴くのでピー助と名付けた。
ハトについて詳しい父に色々と聞きつつ、私たちも育てるのを手伝う事になった。
父は仕事で忙しく、なんやかんや一番面倒を見たのは私になる。
短くも濃厚な数ヶ月が始まった。
…………。
ピー助を育てながら、ヒナの子育て以外にも多くの事を教わった。
本来なら野生のハトを捕まえたり、飼ったりするのは鳥獣保護法に違反するのだとか。
それはハトに限らず、許可されている生き物以外はみんなそう。
いくらカッコよかったり、可愛くても、野生の生き物を捕まえたりしてはいけない。
卵の状態でもそうなんだって。
「まだ小さいから、ゲージを使うか。自分で餌が食べられるようになったら入れよう」
そう言って父が用意したゲージは、ピー助が入っていた段ボールよりも大きな、当時の私が丸まれば入れそうなくらい大きなもの。
これでも父はピー助には小さいと言っていた。
うちにいるドバトたちは狭い、といっても人が何人かは入れるくらいの広さの小屋の中にいる。
床には水入れと餌箱、水浴び用の桶。
太い止まり木がいくつかあって、壁の上半分くらいは四角い巣箱がいくつも並んでいる。
古屋の前面は金網になっていて、真ん中には餌とかを入れるための小さな木戸があって、南京錠が掛かっていた。
納戸にしまわれた餌の入った袋から大小様々な実を掴み取り、網の隙間から一粒ずつ入れたりするのが当時楽しかったのを覚えている。
指先で摘んだ餌を啄むドバトたちは可愛いというか、愛嬌がある。
閑話休題
たしかにそれに比べたら小さいね、って言ったら、ドバトとキジバトだと縄張りの広さが違うって言われた。
当時はよく分からなかったけれど、後々に調べてみたらドバトは行動範囲こそ広いけれど、集団で眠ったりと縄張りはそこまで広くはないらしい。
けれどキジバトの場合は餌場や巣からだいたい2ヘクタール(1ヘクタールが100m×100m)。
インコや文鳥のような室内飼いの鳥類とは違う。
あまり狭い空間だとストレスを感じてしまうらしい。
あとたくさん集まって群れを作るドバトと比べて、キジバトはあまり大勢で群れたりしない。
確かに神社の境内や公園でみかけるたくさんのハトはほとんどがドバトで、同じくらいの規模で群れるキジバトは見た事がない。
たまにドバトの群れに1羽か2羽、混じってる事があるくらい?
とにかくゲージの中で育てるにしても限界はある、ということ。
実際、ピー助が大人になり、飛べるようになる頃には狭い室内やらのストレスでブチブチと自分の胸元の羽を引き抜いたり、ゲージの中で羽ばたいて暴れる事があった。
それが原因で、ピー助とはお別れすることになる。
…………。
細かい餌に水分を混ぜて練り餌を作る。
水が多いとベタベタするし、食べさせるのも難しくなるので、水分量の調整は足りないかな?くらいから様子を見て増やしていく。
鳥のヒナを保護した時、まだ自分でご飯を食べられない子だった場合、口を開いてくれるかどうかが鍵になる。
父は手慣れた様子で嘴の付け根のあたりを両側から指先で優しくつまみ、撫でるようにして嘴を開かせていた。
そして開いた嘴の奥に練り餌を指先で押し込んでいた。
餌やりを最初にミスしてしまうと、ヒナは餌を食べなくなってしまうことがある。
どんなにお腹が空いていても、それがご飯をもらえるのだと認識できず、怖い、やだ!と縮こまって嘴を固く閉じてしまう。
ヒナからしたら親鳥以外との接触。
どんな行為でも怖い、危ないと学んでしまったら次からはやらなくなる。
動画とかだとスポイトなどを使うらしいけれど、私が教わった、というか見て覚えたのは父のやり方。
大人になってから気になって改めて調べたら嗉嚢そのうの事とか、間違ったやり方をしたら喉などに詰まらせて死んでしまう事とかを知って冷や汗をかいた。
ネットとかで調べて出てくる情報と載っていない人伝えの手法。
今更だけれど、もっとこうしたら、とかこう言う理由があったんだとか、一度でも経験したからこそ活かすことができる。
当時はインターネットはそこまで便利じゃなかったし、手軽に調べられるネット環境もなかった。
なんやかんや、ヒナからハトを育てたのはその一回だけだけれど、ドバト、キジバト、そして許可を得てシラコバトを保護するにあたって、子供の頃の経験はとても役立った。
直接餌を与えたのはほんの短い期間だったけれど、私の与えた餌を食べるピー助の姿は今でも覚えている。
…………。
ヒナは1日に何度もご飯を食べる。
ハトの場合、水は嘴を突っ込んで飲むことができるので、数センチほどの容器に水を入れておく。
段々と産毛が抜けて、我が家にやってきてから一月もしたら艶々とした毛並みになった。
ピーという鳴き声が変声期を迎えてダミ声のようになり、よく聞くボー、ボーという鳴き声に変わった。
当時の私の両手の上に収まっていた大きな毛玉は、いつの間にか子供の手では両手で抱くのも大変なくらいに大きく育っていた。
最初は温かくするためにペットボトルにお湯を入れたものをタオルに巻いて置いたり、嘴の周りについた餌のカスや汚れをこまめに掃除したりと大変だったけれど、自分でご飯を食べるようになってからは一気に楽になった。
両親と兄弟、祖母の大家族だったので、最初だけとはいえ、平日の餌やりを祖母が代わってくれたのもでかい。
学校に行くまでと、帰ってからはほとんど一緒だったけれど、どうしてもつきっきりではいられない。
…………。
なんの因果か私が育てた事のあるハトはみんなオスで、とにかく朝から晩まで鳴き声が響き渡っていた。
夜は電気を消せばある程度静かになるけれど、朝になったら目覚ましいらずの鳴きっぷり。
これがアパートとかだったら苦情が何度も届いたことだろう。
鳥を飼う上で、鳴き声の問題は大きい。
あまり鳴かない子もいれば、四六時中大声で鳴く子もいる。
鳥が鳴くのは求愛や縄張りの主張とか色々理由があるけれど、結局は人と同じ。
騒がしい人もいれば静かな人もいる。
あまり鳴かない種類だって言われていても鳴く子は鳴くし、人懐っこいとか言葉を覚えるって言われてても懐かなかったり喋らないなんて事はざらにある。
生きてるんだもの。
個性だって出てくる。
ピー助は大人になるまでは大人しくて、よく膝の上や手のひらで丸まっていることが多かった。
けれど声変わりして大人になってからは外に出すと落ち着かず、ゲージの中ではずっと鳴いていた。
そしてその頃からたまにゲージ内で暴れたり、部屋の中を飛び回って逃げたり、胸元の毛をぶちぶちと自分で抜いたりし始めた。
一時的にドバトたちのいる鳩小屋に入れたりしたけれど、それでもストレスを感じるのか、胸元の毛が抜けたところは治らなかった。
…………。
ピー助がうちにやって来てから数ヶ月。
ついに別れの日はきた。
ストレスで毛をむしってしまうピー助を、いつまでもうちに閉じ込めておく事はできなかった。
何度も何度も毛をむしって、最終的には血がにじんでしまうこともあった。
私は、ピー助を外に逃すことに決めた。
「できれば最期まで面倒をみるのが、生き物を飼う人の責任だ。けど、キジバトだし、いつまでもゲージじゃな」
父は最初から、ある程度育ったら逃さないといけないだろうと予想していたらしい。
「ピー助、ごめんね…」
休日、私と父は家の裏手で、ピー助をゲージから逃した。
一度世話をすると、飼うと決めたのに野生に放つ。
無責任だと言われても仕方がない。
…………。
猫や野生動物に襲われないか。
エサを見つけられず、飢えてしまうのではないか。
冬の寒さに耐えられないのではないか。
ずっと、うちにいて欲しい。
最後まで一緒にいたい。
色んなことを考えた。
ゲージを開けて、外の景色に驚いて大人しくしていたピー助を両手で包み込むように抱いた。
温かくて、ふわふわしてて、さらさらしてて。
大きくなったけど、それでも私からしたら小さくて。
毛が抜けた胸元が痛々しかったけれど、とても綺麗な子だった。
ゲージから出して、いつでも飛んでいけるように両手を開いた。
初めて手のひらにのせた時の茶色い毛玉は、いつの間にか成長して、キジバトになっていた。
少しの間、手のひらに乗っていたピー助。
このまま家に戻るまで飛ばないんじゃないかと思った矢先。
「あっ…」
尾羽を開いて、バサバサと、ピー助は元気よく飛び立った。
手のひらに一瞬感じた重みと、次の瞬間軽くなった物足りなさ。
飛び立ったピー助は一度近くの電線にとまり、名残惜しむように辺りを見渡していた。
そして改めて飛び立ち、見えなくなった。
…………。
何年経っても私はあの時のことを、ピー助のことを覚えている。
もちろん他のハトたちの事もだ。
それでもヒナから育てたのはピー助だけ。
たったの数ヶ月だけれど、他の子たちにも負けないくらい大切な我が子だった。
最後まで面倒を見れなかったのは、今でもシコリのように後悔として残っている。
あれから数年おきに私よりも年上だったドバトたちは次々と虹の橋を渡っていき、私が就職する前の年に最後の一羽が旅立っていった。
そして我が家に残った最後の一羽、シラコバトのもずくも社会人一年目の秋に虹の橋を渡ってしまった。
それ以来、私は生き物を飼っていない。
実家に帰っても、騒がしくも懐かしいあの子達の鳴き声はしない。
けれど、ふとした瞬間、あの子達の気配を感じることがある。
ピー助はどうしてるだろう。
あれから随分と経った。
何事もなかったとしても、もう寿命を迎えてるのは間違いない。
どこでどんな風に生きただろうか。
虹の橋の向こうで、元気にやっているだろうか。
ふと肩や腕、膝に感じる気配は、どの子のものだろうか。
この時期になると、特にあの子達の気配を感じるのだ。
私とキジバトのピー助 砂上楼閣 @sagamirokaku
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