タマゴが先か、ニワトリが先か?

 2月14日。


 その日付は、恋する乙女たちにとって、ただの365分の1日ではない。

 決戦の日だ。


 自分が心を寄せる人に、その気持ちを伝える日。日本全体が……いや、むしろ世界全体がそれを期待し、応援し、後押してくれる。告白の、絶好の好機。


 しかしそれは同時に、自分と同じ考えをもち、同じ人を想う乙女にとっても好機が訪れるということでもある。うかうかして出遅れれば、そんな恋の好敵手ライバルたちに先を越されてしまうかもしれない。

 だから、決戦の日なのだ。



 そして……。

 そんな歴史ある由緒正しい決戦に向かう戦士が、ここにまた一人。

「ふう……」


 その名を、如月きさらぎ珠子たまこ。運動も勉強も中途半端で、いつも友人からは「半熟タマゴ」などとからかわれている彼女だったが……今日だけは、その汚名を返上しても良さそうだ。

 強い決意を感じさせる表情で、彼女はつぶやく。

「今日の私は、半熟なんかじゃない。ガチガチの完熟……いいや。むしろ、今まで生きてきた十六年の間、熱々のスープの中で煮詰められて鉄よりも硬くなった、ハガネの煮玉子だ!」

 いやいやいや……。どれだけ煮詰めたところで、玉子が鋼になるということはないと思うのだが……。

 ま、まあとにかく、話を戻そう。



 珠子の手には、無印の小さな紙袋。今日という日を考えれば、その中身は明白だろう。

 チョコレート。それも、今日までに何度も失敗に失敗を重ねてようやく完成にこぎつけた、汗と努力の結晶――手作りチョコレートブラウニー。

 それが、決戦の日に珠子が用意した、唯一にして最大の武器だ。彼女はそれを、同じ学校の男子バスケ部の先輩――藤原先輩――に渡して、愛の告白をするつもりだったのだ。

 もちろん、その道は決してたやすくはない。


「一番だ。チョコを渡すなら、一番最初……それしかない!」

 自分の決意を確かめるように、また、ボソリと独り言をつぶやく珠子。手作りスイーツの入った紙袋を持つ指にも、力が入る。

「ルックスは、せいぜい中の上。だらしない体は、最近チョコの試作ばっかしてて、それを食べてるうちに体重増えちゃったからだから……ウラを返せば、それだけ先輩への想いが強いってことだし! 性格も、先輩の好みのタイプの『やまとなでしこ』からはほんの少しだけ外れてるかもしれないけど……女らしさが無さすぎて、逆に男子の気持ちを誰よりも理解出来るという噂があるとか、無いとか。そんな、普通のJKの私が……」

 え……自己評価、高すぎない?

「そんな私が……学校一のイケメンの藤原先輩をゲットするには、彼に、自分のことを強く印象付ける必要がある! 私のことを、この娘は他とは違う……自分のことを一番好きなのはこの娘だ、と思ってもらわないといけない。そのためには……『先輩に一番にチョコを渡す』ことが、何よりも重要なんだ!」

 いや……何で?

「今日のバレンタインデー、先輩はきっと、女の子たちからたくさんのチョコを受け取ることになる。その数は、ざっと見積もっても百……いや、もしかしたら千の位にも到達するかもしれない。先輩だって人間だ。もらった千個のチョコを、馬鹿正直に一個一個噛み締めて、思いを汲み取りながら食べてくれたりはしない。おそらく、封を開けられるのは数十個。それだってほとんどは友達とか家族におすそわけされるだけで、実際に一口でも先輩本人に食べてもらえるのなんて、せいぜい五個とかそれくらいしかない。つまり、どれだけチョコを美味しく作っても、どれだけデコレーションにこだわってみても、私が渡すチョコが先輩に食べてもらえる可能性は、1%にも満たない。私がチョコに込めた熱い気持ちが先輩に届く確率は、ガリガリ君の当たりよりも低いんだ!」

 例えが、ショボい……。

「……だけど、そんなイケメン先輩へのプレゼントでも、確実に他人よりも印象を良くすることが出来る方法が、一つだけある! それが、一番最初にチョコを渡すってことなんだ!」


 そのときの珠子は、自分がいつも通っている学校へと向かう通学路の途中だった。だが、いつもなら毎日遅刻ギリギリで登校する彼女から考えると、今の時間はずっと早い。


「来月に控える大会に向けて、男子バスケ部はこのところ、毎日朝練をしている。当然、先輩もその朝練に参加している。部には女子マネはいないし、顧問も男。つまり、部活中にチョコを渡せるようなイレギュラーな存在は、考えなくていい。だから、その朝練終わりに部室に着替えに戻る先輩を捕まえて、チョコを渡すことが出来れば……部活でカロリーを大幅に失っていたところに現れた完全栄養食は、まさに渡りに船! 棚からぼたもち! 先輩は私のチョコを、飢えた野獣のようにガッツいてくれるに違いない!」

 いやいやいや……。

 朝練終わりで疲れてるところに、大して面識のない女子がブラウニー持って来るところ、想像してみ? 普通に、怖すぎるし。百歩譲って食べてもらえたとしても、ギリギリで残ってた体の水分全部持ってかれて、先輩ミイラになるよ?

「……く、空腹は最高のスパイスというように、そんな極限状態で食べたチョコの味は格別で、先輩の意識に強く残って忘れられなくなる……。そしてやがて、私のブラウニーなしでは生きられなくなった先輩は、それを食べるためにならどんな犠牲もいとわなくなって、最後には、私に求婚するようになり……。チョコで結ばれた二人は、チョコのように甘くてとろける二人だけの退廃的な世界へと入っていって……でへ、でへへへ……」

 そのチョコ、ヤバいもんでも入ってんの⁉


 ……そ、そんなふうに。

 珠子が妄想の世界へと飛び立とうとしていたとき。

 彼女の隣を、別の少女が通り過ぎた。


「あれあれー? もしかして、そこにいるのは珠子ちゃんかなー?」

「ゲッ……」


 ゆるくウエーブのかかったロングヘアー。長いまつげに、南国のフルーツのようなピンク色で瑞々みずみずしい唇。早朝にもかかわらず髪のセットもメイクも完璧で、テレビやSNSで人気のアイドルのように可愛らしい。彼女の名前は、丹羽にわコトリ。珠子のクラスメイトだ。友人たちからは、名前を縮めて「ニワトリ」なんてあだ名で呼ばれている。

 そして……。

 そんな彼女の手にも、やはり珠子と同じような小さな紙袋があった。


「ま、まさかアンタも、藤原先輩にチョコを……」

「ヤダー⁉ もしかして珠子ちゃんも、センパイにバレンタインチョコ持ってきちゃったのー?」

「と、当然でしょっ! 藤原先輩は今日私のチョコを食べて、私と結ばれる予定なんだから!」

「ええー?」

 しゃべりながら、自分を追い抜いたコトリを追い抜き返す珠子。しかし、コトリもそれに対抗するように歩を速めて、彼女を更に追い抜き返す。

「あたし思うんだけどさー……バレンタインだからって、無理して慣れないことしない方がいいんじゃないかなー? ガサツな半熟タマゴちゃんに、手作りチョコなんて向いてないと思うんだけどー? あんまりヒドい物もらっても、センパイが困るだけだしー? 作るなら、せめてあたしのガトーショコラくらいにマシな物を……」

「う、うるさいなっ! 料理部部長やっててちょっと料理に自信があるからって、バカにするんじゃないよ! こ、こういうのは、愛情がこもってればOKなのっ! 誰よりも藤原先輩のことを愛してる私が作ったブラウニーなら、他の人よりも百倍は美味しくなるんだから!」

「えー、そーなのー?」

 またコトリを追い抜く珠子。可愛らしい口調を保ちながら、コトリもそれに付いてくる。

「でもでもー、ゼロに百かけても、やっぱりゼロのままだよー?」

「だ、誰のブラウニーがゼロだよっ! そ、そりゃあ……想像してた完成図と比べると、ちょっと不細工というか……アレンジしようとして、ちょっと失敗しちゃったところはあるけど……で、でも! お母さんが試食したときは、『個性的で面白い』って褒めてくれたんだから!」

「……マイナスに百かけたら、もっとマイナスだよー?」

「うおおーいっ!」

 二人はお互いに悪態をつきながら、抜きつ抜かれつのデッドヒートのような状態で、ようやく学校に到着した。



「……っていうか、アンタはどうせ自信があるんだから、余裕かましてチョコは放課後にでも渡せばいいでしょっ! 朝イチに渡す役割は、私に譲ってよ!」

「ええー? それは、まあそうかもなんだけどー」

 コトリは、うふっ、という可愛らしい微笑みで珠子の顔をのぞき込む。

「でもでもー、せっかくならあたしも一番最初に渡した方がいいかなーって思ったのー。だって一番最初にチョコ渡せばー、センパイはもうあたしのチョコ無しでは生きられないくらいに夢中になっちゃうでしょー? そしたらー、珠子ちゃんみたいな有象無象のライバルはみんなセンパイのこと諦めてくれて、あたしとセンパイは二人だけの世界に…………えへへ……」

「……アンタも、私と同じ考え考えってことね」

「そうみたいだねー」

「つまり……」

「つまりぃー……」

 珠子とコトリ、二人の視線が同じ方に向けられる。その方向にあるのは……男子バスケ部が朝練をしているはずの、体育館だ。

「この勝負、先輩センパイに先にチョコを渡したほうが勝つんだんだよー!」

 ちょうどそのとき、その体育館の中から、部活の終了を告げる長いホイッスルが聞こえてきた。その音をレース開始の合図だとでもいうように……二人は体育館に向かって走り出した。

 果たして、意中の人のハートを手に入れるのは、二人のうちのどちらなのか? 憧れの先輩にチョコを渡すのは、珠子が先か、コトリが先か?


 まあ……。

 どっちにしても、まあまあヤバい女であることには、違いないのだが……。




 レースが始まってすぐの序盤を制したのは、珠子だった。

 珠子自身は、実は特別運動が得意というわけでもない。だが、それにも増してコトリは運動神経が皆無だった。ファッションや可愛らしさ、料理の技術に全振りしている分、体を動かすことについては完璧な苦手分野だったのだ。


「おや? おやおやあー?」

 首だけ動かして、自分の後ろを走っているコトリを煽る珠子。

「あれだけエラそうなこと言っておいて、もう、ついてこれないのー? もう、勝負ついちゃったのかなー?」

「……はあ……はあ」

「このままだと、私の方が藤原先輩のところに一足先についちゃうよー? 私のブラウニーを先輩の胃袋に叩き込んで、今日一日、もう他には何も食べられないくらいにお腹いっぱいにさせちゃうよー?」

 可愛そうだから、やめてあげて……。

「……」

 反論をせずに、無言のコトリ。もはや、走るのをやめてその場に立ち止まってしまう。

 その様子を、勝負を諦めて負けを認めたと受け取った珠子は、更に調子に乗る。

「はーい、勝ちー! 私の勝ちー! これで、藤原先輩は私のモノだねーっ! 今日から先輩は私のブラウニーしか食べられない、ブラウニーだけを食べて生きるブラウニー処分場と化して……」


 しかし、その珠子の予想は違っていたようだ。そこでようやくコトリは口を開いて、こう言った。

「珠子ちゃん……今日って、バレンタインだよね? 13日でも15日でもなく、2月14日のバレンタインなんだよね?」

「は、はあ⁉ そ、そんなの、当たり前でしょっ! だからこそ私たちは今、こうやって先輩にチョコを……」

「うふっ……」

 コトリはまた歩き始める。その歩調は緩やかで、今も懸命に走っている珠子とは、どんどん距離が離れてしまっている。しかし、そんな状態でも全く焦っているようには見えない。

「あ、アンタ、何をそんなに余裕ぶって……」

「そう……『当たり前』、なんだよね……。今日が2月14日で、センパイにチョコをあげることは、あたしたちにとっては当たり前で、ずっと前から分かってたことなんだよね……?」

 コトリはそこで、先行する珠子の進行方向に何かを確認したようで、ニッコリと、邪悪な笑みを浮かべて言った。

「だから、この日に私たちが朝早く登校するのだって、事前に分かってたわけで……。そしたら、今日のために準備……『根回し』をしておくのだって、当然なんだよねー?」

「え?」


 それはちょうど、走っていた珠子が学校の校門と体育館との中間地点くらいに来たところだった。コトリを煽るために後ろを向いていた珠子は、嫌な予感を感じて前を向く。そして、ようやくそこにいる者たちに気付いた。


「風紀委員です! 抜き打ちの、持ち物検査を実施しています! 全ての生徒は、私たちに持っている物を見せて下さい! 授業に関係ない物を持っていた場合は、風紀委員の権限により放課後まで没収します!」

「な、な、なにぃー⁉」


 そこにいたのは、珠子と同じ学年の風紀委員の少女だった。ご丁寧に、右腕には「風紀」と書かれた腕章までつけている。

「あ、如月珠子さん!」

 珠子の存在に気付いた彼女は、まっすぐにこちらへと向かってくる。

「その紙袋は、何なの⁉ 授業に関係ないなら、こちらに渡しなさい!」

「え……あ、えと……」

 思ってもいなかった状況に、うまく言い訳出来ない珠子。とにかく、手作りブラウニーの入った紙袋を奪い取ろうとする風紀委員から必死に抵抗する。

「こ、これは、確かに授業に関係ないといえばないかもしれないんだけど……でも今は、渡すわけにはいかなくて……」

「何を訳のわからないことを言ってるの⁉ とにかく、一旦こちらで放課後まで預かりますから!」

「だ、だから! 放課後なんて待ってらんないんだってばっ! そんなことしてたら、他の奴らに……って、ああぁーっ⁉」

 そんなふうに口論している珠子たちの隣を、とっくに追いついてしまったらしいコトリが、悠然とした態度で通り過ぎていく。もちろん彼女の手にも依然として、憧れの先輩のために作ったガトーショコラの入った紙袋はある。

「あれ、珠子ちゃん、なんか問題発生ー? じゃああたし、先に行ってるねー?」

「ちょ、ちょっと風紀委員! 私を捕まえるなら、アイツも捕まえてよ! アイツのチョコだって放課後まで没収しないとダメでしょ⁉」

「……」

 チラリとコトリの方を見る風紀委員。その瞬間、明らかに二人は目が合った。コトリの持っていた紙袋も、確実に視認したはずだ。しかし……、

「おはようございまーす、風紀委員さーん。朝早くから、ごくろおさまでーす!」

「え、ええ……丹羽さん、おはよう」

 風紀委員は、すぐに視線を珠子の方へと戻してしまった。

「珠子ちゃん……だからあたし、言ったでしょ? バレンタインデーで一番大事なのは、『事前の準備』なんだって。チョコを送る相手の好みを調査したり、美味しく作れるように練習したり……ライバルたちを蹴落とすために、風紀委員に賄賂を送っておいたり……ね! バレンタインデーが上手くいくかどうかなんて、その準備段階でほとんど決まってるよーなもんなんだよー! 残念だったねー⁉ キャハハー」


 コトリはそう言って高笑いすると、二人をおいて体育館へと向かって行ってしまった。

「く、くそっ!」

 珠子が見回すと、目の前の少女やその場にいる他の風紀委員の全員のポケットから、個別包装された手作りチョコレートケーキがはみ出しているのが見えた。どうやらそれが、コトリが言うところの賄賂らしかった。

「な、なんだよこれっ! ふ、ふざけんなぁー!」

 遠ざかっていくコトリの背中を見ながら、思わず叫ぶような声をあげてしまう珠子。しかし、そんなことをしても状況は改善しない。

「さあ、如月さん! 早くその紙袋を渡しなさい!」

「ちょ、ちょっと! やめてってばっ! これは、今日先輩に渡すために一生懸命作った大事な…………っていうか、あなただって分かってるでしょ⁉ バレンタインの日に女子が紙袋持ってたら、大目に見てくれてもいいじゃない!」

「そんなの関係ありません! 学生の本分は勉強です! ですからそれに関係のない物を持ち込むのは、校則違反です!」

「自分らは、アイツから賄賂もらってるくせに、今更校則もくそもあるかーっ! ああーもおーっ! このわからず屋ー!」

 もはやコトリの傀儡に変わりない風紀委員は、珠子の紙袋を奪い取るまで解放してくれそうにない。


 前を行くコトリはすでに体育館の前まで到着していて、今は朝練終わりの憧れの先輩が出てくるのを、髪を整えたりしながら待っている。さっき鳴ったホイッスルから考えても、もう時間の余裕は殆ど無い。

 珠子は焦る。

 ここでもし、コトリにチョコを最初に渡されてしまったら……。

 料理上手なコトリのことだ。チョコの味については、自分のチョコなんて彼女の物の足元にもおよばないだろう。そんな絶品チョコのあとに自分の失敗作なんて出したところで、ほとんど印象には残らない。自分の想いが相手に届くこともない。

 だからこそ、一番じゃなくちゃだめなのに……。誰よりも先に、私が先輩に渡さなくちゃいけないのに……。


 しかし、焦ったところで事態は好転したりはしない。それどころか、こういう場合は余計に悪くなることのほうが多いくらいだろう。だから……、


 ガラガラガラッ!


 年季とサビの入った体育館の引き戸が開かれ、中からゾロゾロとバスケ部員たちが出てきた。その中には、二人の目当ての藤原先輩もいた。


「あ、せぇーんぱぁーい!」

 トーンを数段上げた可愛らしい声で、彼の方にコトリが駆けていく。しかし、

「如月さん! いい加減に、そのチョコをこっちに渡しなさい!」

「だ、だから、渡せないってさっきから……」

 珠子はいまだに風紀委員と紙袋を取り合っている。もう、完全に勝敗は決まってしまったようだった。

「チョコを渡さないなら、この先には一歩たりともいかせませんからね⁉ 風紀委員の名にかけて、学業に関係のないこの紙袋を持ち込ませたりはしませんから!」

「だったらアイツの賄賂も受け取るなっつーのっ! あーもう! なんなの、その中途半端な責任感わ!」

「いいから、早く渡しなさい! それなら、放課後にはちゃんと返してあげるから! さもないと、この場で捨てていってもらうわよ⁉ そうなったら、嫌でしょう⁉ だってあなたはせっかく作ったこのチョコを、誰にも渡せなくなっちゃうんだから……」

「だぁから! こっちにはこっちの、渡せない事情があるんだって、さっきから…………ん? 捨てる……?」

 そのとき、だった。


 朝早く起きたせいで眠っていた脳が、やっと本気で活動を始めたのか。それとも、最近何度もチョコの試作と試食をしてきた中で摂取され蓄積されてきたカカオやらポリフェノールやら何やらが、珠子の秘めたる力を目覚めさせたのか。

 彼女の頭の中に、この状況を打破するアイデアが急浮上してきた。


 思いついたのなら、もはや迷っている時間はない。彼女の体はほとんど脊髄反射とでも言うようなレベルで、そのアイデアを実行に移していた。


「学生が、学校にチョコを持ち込まなきゃいいんでしょっ⁉ 私が、この場でこれを捨てればいいんでしょ⁉ ……だったら、こうすればいいんだ! うぉりゃーーーっ!!!」

 珠子は、風紀委員に掴まれていた紙袋を強引に奪い返すと、その勢いで大きく振りかぶって、そのまま力いっぱいにチョコごと紙袋を天に投げ上げた。

「え……」

 大きな大きなアーチを描いて、上空を飛んでいく紙袋。風紀委員は一瞬呆気に取られて、その緩やかな軌道を目で追ってしまう。

 その横を、まるで『自分についたマークをかわすバスケ選手』のように、素早く珠子が駆け抜けて行く。

「チョコを、『持って』校内に入っちゃいけないんでしょっ⁉ 私、もうチョコは捨てたから! 持ってないからっ!」

 そう言いながら、その紙袋が飛んでいくのと同じ方向に向かって、珠子は走る。

「い、いやいやいや……そういうことじゃないから!」

 我に返った風紀委員とその周囲の生徒たちも、慌てて珠子を追いかける。だが、極限状態で実力以上の力が出ている珠子には、すぐには追いつけない。


 チョコの入った紙袋、それを追う珠子、そして、そんな彼女を追う風紀委員たち。全員が向かう先には、丹羽コトリと、彼女から今まさにチョコを渡されようとしている、バスケ部の藤原がいた。

「あ、あのセンパイ! あたし、センパイのためにこのチョコ、一生懸命作ったんです! だ、だから、良かったら食べて…………って、ゲゲッ⁉」

「え、俺に? いやあ、照れるなあ…………って、うええ⁉」

 珠子を先頭にした生徒たちが、自分たちの方へと全速力でかけてくるのに気付いたコトリたち。しかもその上空には、さっき珠子が持っていたチョコの袋だ。

「!」

 一瞬にして珠子の狙いを理解したコトリは、藤原に渡そうとしていた自分のチョコを奪い返し、乱暴にその袋を引き裂いて中からガトーショコラを取り出す。今朝、彼女自身がデコレーションまできれいに整えて来たはずだったが……今のコトリは、チョコがぐちゃぐちゃになってしまっても気にしていないようだ。


 同時に、まるで計算していたかのようなタイミングで――実際には、先程風紀委員と取り合いをしていたことで、紙袋に切れ目が入って弱くなっていたせいで――、珠子の紙袋が空中で爆散し、中からブラウニーが飛び出してきた。

 それを確認して、踏み込んで高いジャンプをする珠子。

 右手を天にかざし、空中に散らばるブラウニーの一欠片を回収する。そして、そのままその腕を振り下ろしながら、いまだに状況が飲み込めていない先輩の藤原の方へと、落下していく。

「一番は……私がもらったぁぁーっ!」

 さながら、ポカンと開いている藤原の口をゴールに見立てた、ダンクシュートだ。


 一方の、ガトーショコラを右手で掴んだコトリも、その黒いチョコの塊を藤原の口に目掛けて大きく振りかぶる。

「そ、そんなこと……させないからぁーっ!」


 二人の少女が、素手で鷲掴みにしたチョコの残骸を、一刻も早く藤原の口に詰め込もうとしていた。

 果たして、相手よりも先に自分のチョコを先輩に食べさせたのは、どちらなのか? 勝敗の、行方は……。




――――――――――



「っつーかさぁー……あのクソ先輩、もうとっくに彼女いたらしいじゃん⁉ だったら、後輩からチョコもらおうとすんなよな! ただのナンパなクソヤローじゃん! マジでクソだし! あーもう! いろいろ頑張って、損したわ!」

「ちょっとぉー……チョコ食べてるときに、クソとか言わないでよぉー……。珠子ちゃんって、そういうとこホントにウンチだよねー?」

「おーい、自分でも言ってんじゃないかよー!」

「あれぇ? そぉーおー? 気づかなかったー、キャハハー」



 あれから……。

 突然大量のカカオ成分を摂取したことによる中毒症状で気絶してしまった藤原が、教員の車で近くの病院に搬送されてから、およそ十数分後。


 他の教員や風紀委員からこっぴどく怒られた珠子とコトリは、罰として、自分たちが周囲にぶちまけてしまったチョコを片付けるように言われていた。

 だが、途中からそれに飽きてしまったらしく、今は体育館裏の小さな階段に腰掛けて、あげる相手がいなくなってしまったチョコ――袋の中に残っていたりして、比較的無傷だった物――を自分で食べて、時間を潰していた。


「……でも、やっぱり残念だなぁー。浮気性のウンチセンパイは別にしても……こんなに美味しくガトーショコラ出来たのに、結局自分で食べてるんだもんなぁー」

「……」

「ホントに、今日のは会心の出来だったんだよぉー? 今まで料理部でも家でも、こんなに美味しく出来ることなんてなかったんだよぉー? それなのに、食べてもらえる相手がいないなんてなぁ……」

「じゃ、じゃあ……」

 わざとらしく独り言を言っているコトリに対して、ボソリと、珠子が何かをつぶやく。

「えぇー?」

 聞き返すコトリ。珠子が今度は、ハッキリと言い直す。

「じゃあ! 私が食べてあげようかって言ってんの!」

 顔を真っ赤にして、叫ぶような声で言う珠子。恥ずかしいのか、コトリから目をそらしてしまう。

「うふふ……」

 そんな彼女の様子が可愛らしくて、逆にコトリは珠子を必要以上に見つめてしまう。


 しかしやがて、いつもの加虐性を取り戻して、珠子に向かって両手を広げて、おどけて見せた。

「ざぁーねぇーんでしたー。もう全部、自分で食べちゃいましたー! キャハハー!」

「なっ⁉ ア、アンタ……最初からそれ分かってて……!」

 からかわれたことに気づいた珠子は、いら立ちで顔を歪める。しかし、すぐに「あること」に気づいて、こう言った。

「いや、まだチョコ残ってるじゃん? さっき鷲掴みしたときに、アンタの手についた分がさ」

「……え?」

 確かに珠子の言うとおり、広げて見せているコトリの指先には、彼女のチョコが付着している。

「……は、はぁぁーっ⁉」

「会心の出来なんでしょ? 誰かに食べてほしいんでしょ? だったら、その指について残ってる分を食べさせてよ? 私、全然気にしないからさ」

「た、珠子ちゃん、何言ってるのっ⁉ バッカじゃないのっ⁉ そ、そんなこと言って、出来るわけないくせに! 変なこと言わないでよっ!」

「え? なんで? なんで出来るわけないの? 私、チョコ食べるだけだよ? 変な意味とかないし。全然出来るし。ほら、早く指出してよ? 私が舐め取ってあげるからさ」

「そ、そこまで言うなら、やってみたらっ⁉ 途中で降参しても、知らないからねっ! ほら、どーぞっ!」

「はいはい。じゃ、いくからね……ペロリ……」

 差し出されたコトリの指を、優しく口に入れて舐める珠子。

「……あ、あぅ……」

 そんな行動に対して、思わず恍惚の声をあげてしまうコトリ。

「あ、まだこっちにもあるじゃん……ペロ……」

「ひぅ……」

「それに、あっちにも……」

「ぁ……んぅ……」


 いつもからかわれているコトリが戸惑う姿が面白くて、引っ込みがつかなくなった珠子。

 そして、珠子にマウントを取られるのが許せなくて、ついつい強がってしまうコトリ。

「ひ、ひぅ……つ、次は、あたしの番だからね⁉ た、珠子ちゃんの、体についたチョコを、全部たべちゃうんだからっ! ……ペロ……」

「ふわっ⁉ ……あ、あん……」

 それから二人は、暗がりの校舎裏で、静かにチョコを食べさせあった。


 指先だけでなく、何故か、首筋や口元にもついていたらしいチョコを……。



 それは実は、彼女たちがこれまでの2月14日にも毎年行ってきた、おなじみのやり取りだった。きっと来年もその後も、彼女たちはこんなことを続けるのだろう。バレンタインに誰かのためにチョコを作り、適当な口実をつけては、最終的に二人がお互いに食べさせ合うようなことを。

 どうして二人は、こんなことをしているのか? 果たしてこの行動に、どんな意味があるのだろうか?

 そして、その意味に二人が気づく日は、来るのだろうか?


 もしもその日が来るとすれば……その「想い」を最初に相手に告げるのは、どちらなのか?

 珠子が先か、コトリが先か……。

 タマゴが先か、ニワトリが先か……。


 ただ、一つだけ確かだったのは……。

 一番の災難は、こんな彼女たちの無駄な争いに巻き込まれた先輩だ、ということだった。

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