お前の気持ちなんて知りたくなかった

藤河 明

第1話

 三井陽次郎が不登校になった。

 理由に心当たりはなかった。いじめがあったという話は聞かなかったが、かといって誰と仲が良かったかと問われると、和也かずなりは首を傾げてしまう。

 物静かを通り越して、暗い奴だと思っていた。話しかけてもぼそぼそと小声で話すし、目を合わせようとしない。彼とあまり話したことのない和也だったが、数度のコミュニケーションで、性格的に合わないことをどこかで悟り、あまり話しかけなかった。

 クラスメイトも同じようなものだろう。彼と何度か話せば、彼と話すことの面倒くささと無為さに気付き、自然と距離が開く。結果、彼はクラスで孤立していた。

 あるいは、そこに不登校の理由があるというのなら、納得はできる。けれど、結局のところ、集団に馴染む努力をしなかった彼が悪いのであって、明確ないじめをしなかったクラスメイトに罪はない。馴染もうとしない人間を構うほど、中学生は暇ではなかった。

 つまるところ、三井陽次郎は努力不足で不登校になった、敗北者なのだ。


    *


 どうしても東京の大学に行きたい。受験に失敗した和也は、親にそう泣きついて浪人を許された。

 東京に行きたい理由なんて特にない。強いて言えば、一人暮らしをするのなら、地元よりも東京のほうがいい。そんな考えのもと、東京の大学への進学を考えた。

 高校三年の秋にそんなことを思い至ったものだから、ろくな勉強もしていなかった。だから、一度目の受験に失敗したのは仕方のないことなのだ。

 後悔はした。もっと早くから対策をすれば、今頃望みの大学に通えているはずだった。連絡を取り合う友人が、楽しそうに語る大学生活には苛立ったが、同時に憧憬が胸に芽生える。

 今努力をすれば、来年にはそんな華やかな生活を送れる。その一念だけで、和也は懸命に勉強し、二度目の受験を迎えた。

 一度目に比べ、二度目の受験はそこまで緊張しなかった。試験会場がどのような場所なのか、その雰囲気を知っているというのは、二度目の人間にしか持ちえないアドバンテージだろう。

 のびのびと問題と向き合い、余裕を持って問題を全て解き終え、自己採点すら済ませるほど、和也の二度目の受験は余裕に満ち溢れていた。

 そして、晴れて和也は試験に合格し、大学への進学、東京への上京が決まった。

 思えば、浪人したのは良い経験だと和也は考えた。するべき努力を疎かにしたツケを払ったとも考えられたが、友達と共有できるはずの時間が得られなかったことは、払ったツケ以上の損失であった。するべき努力を疎かにしたツケは、失ったもの以上のものを支払わなくてはならない。そんな教訓を得られた。

 きっと、これから先得られる時間も、その価値は現役合格の大学生よりは半減しているのだろう。友達と一年もいる場所が違えば、共有できる時間の意味が違ってしまう。

 独りよがりの経験なんて大した価値がない。誰かと並んで揃って、分かち合う経験こそ至高なのだ。


 着慣れない真新しいスーツに袖を通し、革靴の固さに足を痛めながらも入学式に出席した翌日。オリエンテーリングとして、大学で講義の履修方法や設備について教わる。

午前中にそれが終わると、和也ら新入生は一斉に大講堂を後にし、食堂なり敷地の外なりに足を運ぶ。そんな人だかりの中に、不自然に話しかけている人がちらほらと見えた。洒落たアクセサリーやブランド物の小物を身に着けた彼らが上級生であることは、目敏い者ならすぐに察しただろう。

「なあ、君もどう? これから歓迎会も兼ねて飯食い行こうと思うんだけどさ。ああ、勿論、飯代俺達が出すから、そこは安心して」

 声を掛けられた和也は、すぐに首を縦に振った。

 話を聞くと、彼らはフットサルサークルに所属しているらしく、この歓迎会は、勧誘も兼ねているらしい。大学から移動する最中にそれを聞き、さっそく勧誘された和也は、少し考えてからと答えを保留にした。興味はあったが、折角の大学生活なのだ、もう少し他のサークルを見てみたかった。

 その先輩が立ち寄ったのは大学から十五分程度のところにあったカフェだった。レトロ調の内装の店内には何人かの同年代の男女が既に席についていた。フットサルサークルの先輩方のようだった。

「店長さん、今日はよろしくお願いします」

 既知の間柄なのか、奥の厨房で調理をしている壮年の男性に先輩がそう声を掛けた。その声に店長は笑みを浮かべて首を縦に振る。

「先代の先輩がここで長くバイトしててさ。そのよしみで、この時期場所を借りてるんだ」

 今では別の先輩がこのカフェでバイトをしている、なんてことを教えながら、和也ら新入生は誘われるがまま席に腰を下ろした。

 席に着くと、先輩の一人が全員分の飲み物を注文し、それが運ばれた段階で音頭を取り、乾杯した。

 乾杯の後は、一人ずつ自己紹介をしていく。和也は予め考えていた自己紹介文を諳んじた。全員の顔を見渡すようにして、ようやくその席に、どこか既視感を覚える顔があることに気付いた。

 二年の先輩だ。他の二年生とは違い、髪も染めず、アクセサリーの類も身に着けていない。他の二年生と並ぶと、地味で暗い印象を抱いた。

 ふと、思い出したのは中学時代の同級生だった。一年の間だけ同じクラスで、それ以降は卒業までずっと不登校だった同級生。

「三井、陽次郎?」

 喧騒が鳴りやんだ。

 団欒と笑顔が凍てついたように止まり、誰もが和也のほうを見て、二年生はすぐに件の先輩のほうを見る。

 黒髪の先輩は酷く驚いたように和也を見て、少し首を傾げた。

「どうして俺の名前を? 多分、初対面だと思うんだけど……」

 彼は紛れもなく、和也が知っているかつての同級生、三井陽次郎だった。

 覚えていないというのも無理はない。同じ教室で勉強していたのは、中学一年の頃。つまりは七年も前の出来事だ。鮮明に覚えている人のほうが少ないだろう。

 自分の思わぬ呟きで場の流れを止めてしまったことに和也は慌ててように口を開いて笑った。

「あー、実は俺、一浪してて、年齢はたぶん先輩達と同じなんですよ。そんで、そこの三井……先輩とは、同じ中学通ってたんです」

 そう口にすると、その場の雰囲気が再び盛り上がった。和也が一浪していることや、和也と陽次郎が同じ中学出身であることなど、弾けた火が燃え上がるように場の雰囲気は温まっていき、一難を乗り越えたと和也は胸を撫でおろした。

 そんな和也のことを、陽次郎がじっと見つめていた。その視線に気づいた和也は、思わず誤魔化すように笑い、同じように陽次郎も愛想笑いを浮かべた。


 午後の一時頃から始まったその歓迎会は、午後三時にお開きとなり、その場で解散となった。

 その場で何人かの新入生がフットサルサークルへの入部を決めていたが、和也はどうしようか保留にしてもらっていた。

「後藤君」

 苗字を呼ばれて振り向いてみると、そこには三井陽次郎がいた。

「ちょっと、話できるかな?」

 それは、旧縁を深めたいというような様子ではなかった。陽次郎の提案に首を縦に振った和也は、近くの公園に入りそこのベンチに並びあって腰を下ろした。

「……その、同じ中学出身って、ほんとに?」

 沈黙を破ったのは陽次郎からだった。躊躇いがちにそう訊ねられ、首を縦に振る。

「俺もそこまではっきり覚えてる訳じゃないけど……三井は間違いなく同じクラスだった。三井陽次郎。出席番号二十四番。部活は確か……美術部だって聞いた気がする」

「ああ、うん。わかった。本当に俺のこと知ってるんだ」

 納得を口にすると、陽次郎は椅子の背もたれにもたれかかり、空を仰いだ。

 正直、今の陽次郎の様子は、記憶の中のものとは少し違っていた。落ち着いた雰囲気の今の陽次郎は、かつて感じた暗い印象を覚えない。根暗ではなく、正当に物静かという印象を覚えられる。

 どうしてこんな変化を遂げたのか。和也は興味を覚えた。何せ彼は、中学一年の時に敗者となったのだ。敗者が如何にして、その惨憺たる場所から這い上がり、現役での大学進学を勝ち取ったのか。その歩みが気になった。

 丁度よい機会だとは思った。しかし、再会して間もない、しかも、相手は自分のことを覚えていなかったのだ。そんな相手に、いきなり不登校の頃はどう過ごしていたのかなんて無神経なことを訊くほど、和也は愚かではない。

 こういうのは、もっと時間を置くべきだ。先輩後輩の関係とは言え、これからは同じ大学の学生なのだ。親交を深める時間はいくらでもある。

「なんていうか、ごめん。同じ中学なら知ってると思うけど、俺は不登校だったから。当時のクラスメイトのこと、あんまり覚えてないんだ」

「まあ、そうだよな。けど、もう大丈夫なんだろ? なら、これから仲良くなろうぜ。なんか、今の三井なら、あのときよりも仲良くなれる気がすっからさ」

 少なくとも、かつての陽次郎は、こうやってまともに会話をすることもままならないような相手だった。こうもはきはきと喋る陽次郎の姿は、記憶の中の陽次郎とずれを覚えるが、どちらに好感が持てるかと言えば、今の陽次郎だと言える。

「連絡先の交換、いいか? いろいろ話したいことあるしさ」

「うん、構わないよ」

 お互いにスマートフォンを取り出し、連絡先の交換をする。

 電話帳に陽次郎の名前が連なるとは思いもしなかった。そんなことを思いながらスマートフォンを懐にしまうと、先に陽次郎が腰を上げた。

「ごめん、みんなに無理言って抜けて来たんだ。そろそろ戻らないと」

「そうだったのか。なんか悪いな、気を遣わせたみたいで」

 そう言うと、彼は首を横に振る。

「久々に地元の人に会えてよかったよ。今度、二人でゆっくり話そう。それじゃ」

 陽次郎は駆け出してカフェへと戻っていく。

 本当に、記憶の中の陽次郎とは思えぬ言動であった。不登校になった彼が、何を経て今のようになったのか、本当に興味深い。

 なんだか偉い学者になった気分だった。三井陽次郎という人間の生態を探る学者。何様だと笑いながら、和也はその場を後にした。


    *


 大学生活が今までの学生生活に比べて楽に思うか否かは人によるだろう。

 必修科目はあるものの、自分の好きな科目で単位を稼いでいくことを楽に思う人もいれば、単位の計算が面倒に思う人もいる。和也は前者の人間だった。より正確に言うのなら、好きに時間割を作れるのを利用して、毎週水曜日だけは何も講義を入れない、自主的な休みを作って楽をしていた。

 週四度の登校を続けること三ヶ月。季節は夏に近づきつつあり、蒸し暑さが肌に貼り付くようになっていた。

 三ヶ月も経つと、多くの初めてに新鮮味を失う。大学という環境は勿論、一人で暮らすということ自体も、全て自分の自由という魅力が薄れるくらいに、家事の面倒くささに埋もれ、ひと月経った頃には部屋の半分は洗濯物やゴミで埋もれていた。

 同じく上京して一人暮らしを始めた田口も似たような状況らしく、自分だけがだらしない訳ではないと胸を撫でおろしていた。

「いや、そこで胸を撫でおろすんじゃなくてさ、改善しようって気にならないの?」

 入学式の翌日にフットサルサークルの先輩と歓迎会をしたカフェで暇を潰していた和也の話に、陽次郎が呆れたようにそう言った。

「いや、男子大学生の部屋なんて、コンビニ弁当の空き容器と空のペットボトルと読み終わった漫画と敷きっぱなしの布団で埋め尽くされてるもんだろ? えっ、お前は違うの?」

「どこの常識だよ。俺は毎週必ず洗濯するし、布団は毎日畳んでるし、暇なとき掃除するし、自炊するから弁当の容器とかは溜まんない」

 果たして目の前にいる人間は、同じ男子大学生なのかと疑わしい目で見てしまった。

「というか、後藤君そんな忙しくないでしょ? バイトもサークルもしてないし、水曜日休みだし。休みの日に掃除とか洗濯とかすればいいんだよ」

「休みの日はとにかく寝てる。起きんのは午後!」

「胸を張ることじゃない……」

 心底呆れたと言わんばかりに陽次郎は深い溜息を吐く。

 歓迎会の日、陽次郎と連絡先を交換して以降、和也はたびたび陽次郎と顔を合わせていた。最初の内はよそよそしかった陽次郎だったが、ひと月、ふた月と時間を重ねるに連れて、和也への態度は軟化していき、今のように親し気に対応してくれるようになった。

 ますます、かつての陽次郎からは想像できないような変化だった。あるいは、暗かったかつての彼も、固い結び目のような態度を根気よく解いていけば、今の彼のように親し気に話してくれたのかもしれないが、知る由もないことだった。

 ともあれ、和也は陽次郎と親しくなることができた。他愛のない話で盛り上がり、お互いのダメなところに呆れたり笑ったり、ときには一緒に遊びに出かけたり。紛れもなく友達と言える間柄であることは間違いない。

 ようやく、彼が不登校の頃の話を切り出す土台ができたと、和也はほくそ笑む。

「……なに急に笑ってんの、気持ち悪い」

「ひでーな。けど、なんかおかしくてさ。まさか、三井に生活のことでダメだしされると思わなかったから」

 和也のその言葉の意味を呑み込めなかった陽次郎は、眉を顰めて首を傾げる。何度か意味を確かめるように言葉を咀嚼するが、それでもその意味を把握することはできなかった。

「ごめん、それどういう意味? 自分で言うのもなんだけど、俺そんな風に言われるほどだらしない生活してないんだけど」

「今はな。けど、不登校のときは違うだろ?」

 不登校。その言葉を口にすると、二人の間に冷たい沈黙が走った。

 背筋に嫌な汗が滲んだ。何か誤魔化さなくてはと頭を働かせるが、まっすぐと和也を見つめる陽次郎の瞳は、何かを口にすることを許さないと、鋭く突き付けるようだった。

 思わず生唾を呑む。しゃべりすぎて乾いていた口内に、ぬるりとした嫌な唾液が出ていた。

「……まあ、あの頃は今よりは荒れてたかな」

 長い沈黙の末、視線を逸らしながら陽次郎がそう告げた。その声音は、どこか憚るように弱々しい。

 怒っている訳ではないようだと、和也は小さく息を吐いた。

「だけど、別にだらしなく過ごしてたわけじゃない。毎朝ちゃんと起きてたし、三食キチンと食べてたし、運動もしっかりしてた。勉強だって欠かしてない」

 陽次郎から語られる不登校だった頃の生活は、和也が想像していたものよりも清いものだった。想像では、さながら泥のような重く貼り付くような生活を送っていると思っていただけに、健康的な生活の様子に、思わず目を見開いてしまった。

「勉強とかしてたんなら、学校来ればよかったのに。別にいじめられてたわけじゃないだろ?」

「そうなんだけどさ」

 和也の私的に苦笑いを浮かべた陽次郎は、しかし、和也の言葉を肯定もしなかった。

 それ以上、陽次郎は不登校の頃の話をすることはなかった。和也もそれ以上深く踏み込む時機ではないと自らを抑えた。

 頼んでいたメロンソーダの氷が、溶けてカランと音を立てた。ストローに口をつけて飲むと、味が少しだけ水っぽくなっている。それなのに美味しく感じるのは、余程喉が渇いていたのだろう。それだけ、陽次郎に不登校だった頃の話を振るのは勇気のいることだった。

 陽次郎にとってはどうだったのだろうか。不登校であった頃の生活は、話すことを憚ってしまうような、消し去りたい過去なのか。あるいは、語ることのできるものなのか。今回の反応では、その判断はできなかった。

 今はまだその時ではない。しかし、ますますその頃の陽次郎のことが気になり始めた。

 果たして何がそんなに気になるのか。和也自身にも理解できない情動であった。それでも、和也はその情動を抑える作法を知らなかった。故に、何ら疑問に思わず、突き進む。

「ああ、そうだ。今度サークルに来いって海斗が言ってたよ。他所のサークルと交流試合するから、その助っ人にって。随分気に入られてるみたいだ」

 海斗というのは、入学式のとき和也を呼び止め、このカフェにまで案内してくれた二年生の名前だった。和也が同い年ということもあってか気が合い、頻繁に話すようになっていた。

「別にいいけど、いつ?」

「今週の日曜日」

「日曜か……次の日筋肉痛になるから嫌だなぁ」

「筋肉痛って、ちょっとなまってるんじゃない?」

「否定はできないな。運動は好きだけど、鍛えてるってわけじゃないからな。ちょっと激しい運動するとすぐ筋肉痛だ」

 実際、高校も部活には所属しなかった。遊びの一環としての運動は好きだが、運動系の部活は勝負の世界だ。そんなしのぎの削り合いのような場所は、自分には合わないと中学時代に把握していた。

 高校時代にしていた運動と言えば、友達と行くレジャー施設か、学校の体育の授業くらいだった。それもここ数ヶ月はなくなり、なまっていると言われれば、否定することは難しい。

 ふと気になったことがあり、和也は訊ねた。

「そう言えば、三井はどうしてフットサルサークルなんて入ってるんだ? 中学のときは美術部だって聞いたし、体育のときもあんまり乗り気じゃなかっただろ?」

 てっきり、陽次郎は運動が嫌いなのだと思っていた。それが、蓋を開けてみれば入学してすぐにフットサルサークルに入ったと言う。何か特別な理由でもあるのではないかと和也は考えていた。

「恥ずかしながら、大学デビューを狙ったんだよ。髪を染める勇気はなかったけど、せめて自分がいる環境くらいは、いい感じのところでいたかったんだ」

 陽次郎から出たそんな俗な言葉に、和也は呆気に取られてしまった。語った陽次郎自身は酷く恥ずかしがっているようで、誤魔化すように大げさに笑い、アイスコーヒーを一気に飲む。

 それだけ、不登校になったことを悔いているということなのだろうか。そう考えると、今の陽次郎はその名前の通り、明るく前向きな人間になれたのだろう。

 ある意味は、彼の大学デビューは成功したと言えるだろう。例えその容姿に派手さがなかろうと、彼の性格やいる環境が過去とは大違いだ。

 暗かったかつての彼を知っている人間として、今の陽次郎の姿を焼きつけよう。今の彼を正しく評価できる人間として、和也は陽次郎の傍にいることを改めて決めた。

 照れる陽次郎を見て、和也は笑う。

 その笑みは、歪んでいるように見えた。


 日曜日。市民体育館に呼ばれた和也は、運動用のジャージに袖を通し、あまり履いていない体育館用のシューズを履き、その心地を確かめていた。

「今日は体育館でやるのな」

「今回は先方が場所取りしてくれたからな。後藤君はあんまり体育館で試合したことなかったっけ?」

 準備を進める和也の横で、既に準備を終え軽い柔軟をしていた陽次郎が訊ねる。

「二回くらいかな? このシューズも、確かそのとき貰ったんだ。まあ、他所と試合っていうのは初めてだな」

 そう言うと、和也は爪先で床を叩く。

 少し緩めのシューズの紐をきつく締めると、和也と陽次郎は更衣室を出て体育館へと入る。

 体育館には既に準備を終えていた二年生やサークルに加入した一年生がボールを触って軽いアップを始めていた。

「おう、和也。今日はありがとな」

 和也を見つけた海斗が、屈託のない笑みを浮かべ礼を述べた。

「別にいいさ。けど、こんだけ人がいるんなら、俺はいらなかったんじゃないか?」

 そもそも、二年生だけでも一試合を回すのに余るくらいにメンバーがいるのだ。その上、今年入った一年生も含めると、外部の助っ人なんて必要はないのだ。

「まあそうなんだけどさ。けどいいだろ?」

「誘ってくれるのはありがたいが、迷惑じゃないのか?」

「迷惑なんてとんでもない! 人は多ければ多いほどいいからな」

 そう言うと、海斗は一つ手を叩く。すると、それを合図にアップをしていたメンバーが海斗の元へと集まり始めた。

 フットサルサークルには三年生がいない。去年までは海斗達よりも上の学年の先輩がいたらしいのだが、各々都合ができて辞めてしまったらしい。それ以来、サークルのまとめ役をしているのが、サッカー経験者でもある海斗だ。

「今回は交流試合だ。試合だから勝つ気でやるが、まあ無理はしすぎないように。あと、喧嘩とかはしないでくれよ」

 海斗は二つの意味でこのサークルの柱を担っている。一つは経験者として、試合に出れば大丈夫だという安堵感を与えてくれる。もう一つはこういうところだ。部員に本気を促すのではなく、無理しないようにと口にする。どこか本気から一歩後ろの位置で発言する彼の言葉は、和也のような人間には居心地が良かった。

 ピッチに総勢十名。一チーム五名の選手が入り、各々のポジションに着く。最初、和也はベンチスタートで、海斗と陽次郎、それから新入生の三人が出場した。海斗は自陣の真ん中に立ち、陽次郎はゴールキーパーとして立っていた。

 キックオフと同時に、相手が一気に陽次郎の立つゴールへと迫る。一年生の三人は易々と抜かれ、海斗はボールを持つ選手をピッチの端に寄せるが、すぐにフリーの選手にパスされる。

 パスされたボールはダイレクトシュートされ、勢いよくゴールへと向かう。陽次郎はそれを容易く反応してセーブする。

 それに即座に反応したのは海斗だった。陽次郎がボールをセーブしたのを確認すると、一気に敵陣へと上がっていき、陽次郎もそれを見て海斗へとボールを投げる。

 ボールを上手く足元に収めた海斗は、一人、二人と敵選手をかわしていき、ペナルティサークルの外側からゴールに向けてシュートを放つ。そのシュートを、敵キーパーがセーブし、今度は敵選手が攻めに転ずる。海斗もすぐさま自陣へと戻っていく。

 他所と執り行われるフットサルの試合は、予想以上に過激だった。ゴール前を守り、次の瞬間には攻めに転じ、いつの間にかまた守っている。今まで和也が体験していたサークルの活動は、さながらままごとであったと言わんばかりの運動量に、思わず唾を呑む。

 フットサルはそのルール上、試合中に選手を何人でも交代させてもいい。ベンチにいる二年生の指示のもと、節々に一年生を交代させる。しかし、相手はほとんどが経験者であるかのようなボール捌きで、ほとんど未経験者の一年生では全く歯が立たず、幾度と陽次郎が守るゴールへとシュートが伸びる。その数は七度。その内の五度は陽次郎がセーブしていた。

「次、後藤の番だ。準備しろ」

 二年生にそう声を掛けられ、和也はベンチから立ち上がり、軽くストレッチをする。そして、審判役に選手交代を告げて、一年生の一人と和也が交代する。前半は残り五分。それを確かめ、

「頼りにしてるぜ、和也」

 ピッチに入った和也に海斗がそう声を掛けた。曖昧に笑って返した和也は、交代した一年生と同じポジションにつき、試合の再開を待つ。

 再び始まった試合。和也は何度か迫る敵からボールを奪い、海斗へとパスを回した。そのコンビネーションで一度ゴールを奪うことに成功した。

 自分のプレイがチームに貢献している。和也は競い合うスポーツというのがあまり得意ではないが、それでもその競り合いに自分が貢献していると実感できると、ジワリと喜びが心を埋める。

 五分が経ち、前半が終了する。後半は十分のハーフタイムを挟んでからになる。

 試合が始まる前に自販機で買ったスポーツドリンクを飲み、和也は息を整える。

 たった五分。自陣へ敵陣へと全力で走り続け、かなり疲れてしまった。陽次郎の言う通り、随分と体がなまっている。特に体力の衰えが著しい。浪人して一年も勉強漬けだったのだ。仕方ないことだと言い聞かせながらも、前半をフルで出場していた陽次郎と海斗が、そこまで苦しい表情をしていないことに、後ろめたさを覚えた。

 彼らと自分とでは、フットサルにつぎ込んできた時間が違う。仕方のないことなのだ。そう自分に言い聞かせるが、それでもどこかで納得のいかない自分がいた。

 自分が陽次郎に負けている。そんな感覚が、和也を苛立たせた。

「和也、後半も初っ端から行けるか?」

 スポーツドリンクを飲み、タオルで汗を拭いながら海斗がそう訊ねる。

「勿論」

 即座にそう反応すると、海斗は満足げに首を縦に振り、別の一年生に話を振った。

「本当に大丈夫か?」

 和也の横に来た陽次郎が、汗を拭いながらそう訊ねてきた。

 怪訝そうな表情に苛立ちを覚えるが、それを抑えて笑みを浮かべる。

「大丈夫だって! 今度はアシストだけじゃなくて、しっかり点も決めるからさ。だから、三井もしっかりゴール守ってくれよ?」

「あー、俺は次、最初はベンチスタートだよ。試しに一年生にキーパーやらせてみるんだ」

 陽次郎のその言葉に、和也は驚いた。てっきり陽次郎と海斗は出ずっぱりなものとばかり思っていたのだ。

「そうなのか。それは残念だ」

「まあ、様子を見てまた入ると思うけど。ものは試しだったってさ。それに、流石に出ずっぱりで俺も疲れたし」

「まっ、お前の出番が回らないように立ち回ってやるさ」

「期待してるよ」

 そう言って陽次郎は笑い、スポーツドリンクに口をつけた。

 後半の最初、陽次郎が出場しない。この隙に、点数で逆転できれば、胸裏を掻き乱す不快な感覚を取り払えるだろう。そんな千載一遇の好機に、和也はほくそ笑む。

 ハーフタイムが終わり、後半が始まった。出場するのは海斗と和也。二年生が一人と一年生が二人だった。

 キックオフのホイッスルが鳴り、ボールを受け取った和也は一気に攻め上がる。しかし、すぐにボールを敵に取られ、即座に自陣へと走り戻る。しかし、巧みなパスワークで即座にゴール前にまでボールが運ばれ、敵にシュートを許してしまう。

 鋭いシュートは自陣のゴールネットを揺らし、得点を許す。

 早すぎる失点だった。思わず奥歯を噛み締めた和也はすぐに攻め入るように敵陣へと進み、パスを要求する。

 しかし、何度パスを受けてもすぐにボールを奪われ、失点してしまう。それが三度繰り返され、点数は一対六。大差であった。

 試合が始まって十分が経つ。十分間全速力で走り続けた和也の体力はかなり消耗し、肩が激しく上下するほど呼吸が荒くなっていた。

 このままじゃ引き下がれない。もし、このまま自分が下がり、陽次郎が投入して失点がなくなれば、自分のせいで失点していたと言っているようなものだ。何より、陽次郎のおかげで失点がなくなったということになってしまう。

 認めがたいことだった。しかし、チームのために貢献できるほどの体力が、和也には残されていなかった。

「後藤、陽次郎と交代だ」

 ベンチで指揮していた二年生が、そう声を掛ける。

 思わずベンチのほうを見る。そこには軽くストレッチをする陽次郎が見えた。視線が合うと、彼は軽く手を挙げて和也に合図を送る。

「い、いやっ、俺まだやれる」

「得点できなかったからってムキになんな。無理して体でも壊されたら迷惑なんだよ。ほれ、早く交代しろ」

 二年生は聞く耳持たないと言った様子でそう語った。説得するほどの時間はない。奥歯から嫌な音が軋むほど強く噛み締めながら、和也は陽次郎と交代した。

「あとは任せて、後藤君は休んでて」

 陽次郎にしてみれば、それは気遣いの言葉だったのだろう。しかし、敗者に気遣われたという事実は、何より和也を傷つけた。

 和也と交代でピッチに入った陽次郎は、ゴールキーパーではなく、フィールドプレイヤーとしてプレイし始めた。

 和也より一年早くフットサルの経験がある陽次郎は、海斗と息の合ったパスワークで即座に敵陣に切り込み、海斗の得点をアシストし、さらには自分でも得点を二度決め、点数は四対六。ギリギリまで迫ることができた。そこで、試合終了のホイッスルが鳴った。

 結果はこちらの敗北。しかし、最後に整列して握手を組み交わす選手達は、疲労の色を見せつつも、気持ちよさそうな笑みを浮かべていた。

 やはり、競い合うスポーツはあまり好きではない。明確な勝敗があり、どれだけ努力しても負けるときは負けてしまう。和也は負けることが何よりも嫌いだった。

 しかし、それ以上に和也を愕然とさせたのは、陽次郎の活躍だった。八面六臂、と称するべきは海斗であろう。しかし、陽次郎が出てからは試合の流れが確かにこちらの優勢に傾いていた。

陽次郎は間違いなく和也よりも優れた結果を残した。その事実が、和也には気に入らなかった。

 敗者である陽次郎に劣るという事実が、和也を苛立たせた。


 月曜日、起きたのは正午過ぎだった。

 午前中に講義を入れていたのをすっかりすっぽかしてしまった和也は、生まれて初めて学校をサボってしまったことに愕然とした。

 今すぐに着替えて学校へ行こうとして、全身を苛む鈍い痛みに呻く。筋肉痛だ。どうやら昨日のフットサルは、和也が想像していた以上に体に疲労が溜まってしまったようだった。

 痛みに再び体を布団にうずめる。痛みから生じるけだるさが、学校へ行くことを諦めさせる。ここまでサボったのなら、丸一日サボったところで変わりはしない。そもそも、一日くらいなら単位の問題もない。

 そう自分に言い聞かせ、和也は全身から力を抜く。

 そこから三十分ほど、特に何かするということもなく布団の上で寝転がっていると、腹の虫が鳴った。空腹に耐えられなくなった和也は、だるい体を無理やりに起こし、冷蔵庫の中を確認する。

「……なんもないや」

 冷蔵庫の中に食料は何もなく、飲みかけのミネラルウォーターと手を付けてないチョコレートが入っているだけだった。

 こんなことなら何か冷凍食品を買っておくべきだった。そんな後悔をしながら、和也はミネラルウォーターを取り出してそれを飲み、喉を潤す。

 着替えてコンビニに行かねば。そう思って着替えを取り出すが、それを手にして、動きが止まってしまった。

 果たして、外に出てもいいものなのだろうか。

 体が疲れていたという理由もあるが、そんなものは学校を休む正当な理由とは言えない。そんな至極個人的な理由で学校をサボった人間が、外に出る。それは許される行いなのか。

 その疑問に対しての答えを、和也は知らなかった。今まで学校をサボったことのなかった和也の胸裏に滲む罪悪感は、さながら体を縛る鎖のように和也の身動きを封じ込める。

 あるいは筋肉痛なんてものはただの言い訳で、サボってしまったことへの罪悪感を、そう感じようとしているだけなのかもしれない。そんな風に思い、手にした着替えをしまった。

 空腹を紛らわすために冷蔵庫にあったチョコレートを摘まみながら、スマートフォンを弄って時間を潰す。

 何か、とても貴重なものを浪費しているような気がした。どうせなら外に出かけたほうがいい気がしてきた。だというのに、外に出ようと顔を玄関のほうに向けると、筋肉痛の痛みが強くなった気がした。

 結局、痛みに負け、和也はその日一日部屋のなかで過ごすこととなった。空腹感に苛まれつつも、終始体にのしかかるけだるさを理由に動くことはせず、ただひたすら、それこそ泥のように布団にへばりついて一日を過ごした。

 自分が眠っているのか起きているのかわからないほど、浅い微睡みを繰り返していると、スマートフォンがけたたましくアラームを響かせる。それを止めて時刻を確認すると、登校の時間になっていた。

 過ぎたる空腹はいつの間にか気にならなくなった。けだるかった体を起こしてみると、昨日の寝起きに覚えた筋肉痛の痛みは随分と軽くなっていた。

 起き上がった和也は風呂場に入り、全身の汗を洗い流した。昨日風呂に入らなかったこともあり、浴びたシャワーの熱がいつもより体の芯に届くようだった。

 体を拭い、着替えてドライヤーで髪の毛を乾かし始める。適度に乾いたら、カバンを持って家を出た。

 昨日丸一日外に出なかったこともあってか、今日は清々しい気分だった。体の中で動きを縛っていた罪悪感という窮屈な鎖が弾けたようで、いつもは重い足取りの通学路を、早々と歩いて行った。

 いつもより早い時間に大学に着くと、目的の教室に向かう。

 火曜日に履修している最初の講義が、二限目から始まる。和也は一限目が始まる前に大学に着いたため、教室内には二限目から講義を取っている生徒がまばらにいるだけだった。

 普段なら、講義開始ギリギリに着くため、和也が教室に入るとほとんどの席が生徒で埋まっている。だからか、人のあまりいない教室を目にするのは、なんとも新鮮だった。

「おっ、後藤じゃん。今日は早いんだな」

 教室に入った和也を目敏く見つけたのは、和也と同じく自堕落な一人暮らし生活をしている同期の田口だった。

 彼は和也が一浪している年上だと知りながらも、さながら同級生のように扱ってくれる人だった。同期生相手に遠慮されるのは肩身が狭いと考えていたが、彼のおかげで、和也と他の一年生との距離は比較的近くなっていた。

「おす。田口も早いんだな。いつもこんな時間に?」

「まあ、伊達に大学近くに住んでないってことさ。それに、高校時代は野球部で、朝練あったから、早起きには慣れてんだ」

 それは知らなかった。自分と同じ自堕落な暮らしをしていると聞いたものだから、いつもギリギリまで寝てギリギリに登校しているものだとばかり思っていた。

「それにしても後藤君よ、昨日は盛大にサボったな。言ってくれれば、俺もサボったのに」

 そう訊ねられて、心の内側に針が刺さったような痛みが走る。しかし、そんな痛みを誤魔化すように笑った。

「いや、起きたらもう昼過ぎててさ。そこから行くのも面倒くさいから、サボっちった」

「単位取れれば、どんだけサボってもいいんだから、いいんじゃね? 先輩も言ってたぜ。できる奴は、自分がどの講義にどれだけ休んでいいかちゃんと把握してるってさ」

 果たしてそれはできる奴なのだろうか。そんな疑問を抱きながら、参考にすると笑った。

 田口と話しているうちに、心に走った痛みはいつの間にか消えていた。それどころか、内側にこびりついた、大学をサボったという罪悪感まで溶けたようになくなりかけていた。

 しばらくすると、一限目の講義が終わったのか、教室に生徒が集まり始めた。席が八割ほど埋まり始めると、教室に担当の講師が入ってくる。そのタイミングで、二限目の始まりを告げるチャイムが鳴った。

 この講義を担当する中島先生は、いつも講義開始ギリギリにきて、講義が始まってから機材の準備をする。スクリーンに映すPCの画面設定や、マイクの音量調節を済ませると、ようやく講義が始まる。

 昨日一日中部屋で引きこもっていようと、登校して講義を受けていると、不思議と眠くなる。欠伸を噛み殺して眠い目こすりながら必死に講師の話を聞いているうちに、いつの間にか講義終了のチャイムが鳴った。どうやら、完全に眠ってしまっていたようだ。

 チャイムと共に講師は講義の終了を告げ、生徒はそれに合わせて筆記用具をカバンにしまい席を立つ。

「起きたか。随分気持ちよさそうだったな」

 和也の横で田口がそう笑った。既に席を立つ準備を終えたらしく、和也が起きたのを確認すると、彼はすぐに席を立つ。

「この後飯だろ。ちょっと待っててくれよ」

 すぐにでも教室を後にしそうだった田口にそう告げて、和也はカバンに筆記用具をしまって立ち上がる。

「あー、悪い。俺、ちょっと用事あってさ、午後はサボるわ」

「サボるって、俺が言えた義理じゃないが、いいのか?」

「同期の岡田って奴がいるんだけど、同じ神奈川出身でな。意気投合して、折角だから交流を深めようって話でさ。なんでも、先輩が立ち上げた神奈川県民の集いとかいう集まりがあるみたいで、その顔合わせを兼ねてな」

 楽しそうにそう語る田口に、和也は相槌を返した。

 田口は和也にまた明日と挨拶すると、足早に教室を去っていった。その様子を眺めながら、和也は言い得ぬ寂寥感に苛まれる。

 あるいは、昨日登校していれば、彼がそういう用事ができることを把握できて、こんな感慨を覚えなかったのだろうか。

 一つ息を吐く。田口には田口の生活があるのだ。高校の頃とは違う、自分の生活を、自分のペースで歩んでいく。同じ教室で、同じ時間割で、一緒に生活することを強制される環境ではないのだ。そんなこと、当然なはずなのに。

 それなのに、友人一人と離れただけで、異様に心細さを覚えた。

 振り払うように、和也は教室を出て食堂へと向かった。

 教室を出たのが少し遅かったこともあって、食堂は既に人で埋め尽くされていた。

 一人分くらいの席あるだろうと高を括って食堂を歩き回るが、どこもかしこも複数人で固まっていて、そんなグループを区切るように空席が開いているだけだった。

 何も気にせずその席に座るだけでいい。しかし、和也にはそれができなかった。一人というのは、かくも恐ろしいことなのか。思わず冷汗が流れる。

 一粒の雨粒が、川の流れに抗うことはできない。落ちれば溶けて流される。一人というものはそう言うものなのだ。和也一人は、あまりに無力だ。

 購買でパンでも買って、適当なところで食べよう。そう決めて、食堂を後にしようとして、視界の端に見慣れた顔を見つける。陽次郎だ。席に座り、同学年の友人と笑いながら食事を取っている。

 あるいはかつて、陽次郎はこのような気持ちだったのだろうか。孤立して、複数ある集団という濁流に身を委ねることもできず、引き裂かれるような思いをした。ああ、それならば、そんな場所から逃げ出してしまうのは正解だ。身と心が引き裂かれないほうが、学校に通うよりも健全だ。

 どうしてそんな思いをしているのだ。

 気づけが和也は走り出していた。

 無数にいる生徒に肩がぶつかりながら、和也はキャンパスの外に出て、まっすぐ自宅へと走る。

 陽次郎は敗北者だ。例え今がどうであれ、その事実は曲げようがない。彼はドロップアウトしたのだ。そんな彼に共感してしまった事実に悔しさが滲んだ


    *


 気が付くと和也は、大学へ登校する回数が減り始めていた。

 最初は午後の講義をサボる程度だったが、いつの間にか丸一日休み、そうなり始めると、すぐに週に二度、三度と増えていった。

 大学へ行かない時間が増えれば増えるほどに、和也が感じた悔しさは和らいでいった。自分は敗北者じゃない。自分は流れに流されてなどいない。孤独であることが、それを正当化することが、和也の心を癒していた。

 一方で、孤独を噛み締めるごとに、陽次郎の顔が思い浮かんだ。かつての彼もこうだったのだろうか。こうやって心を癒して、這い上がったのだろうか。そんな考えが共感を生み、さながら暗闇に光を見出すようだった。そんな実感を酷く拒絶した。

 敗北者への共感は、自らを敗北者たらしめてしまう。

 そんな事実を和也は否定する。しかし、どれだけ否定しようと、今の状況と行動を見れば、無理やりにでも認識してしまう。この有り様は、少なくとも普通から外れていて、落ちぶれていた。

 まるでかつての陽次郎の行動をなぞっているかのようだ。

「――ちくしょう」

 グラスから溢れた水のように、言葉が零れる。

 和也は決して、自分が優れているとも、勝っているとも思ってはいなかった。それでも、自分よりも下がいる。そんな感覚が、和也を安堵させていた。明確な敗北者の存在は、自分がそうでないと認識させ、優越感と安心感に浸らせた。

 陽次郎は敗北者だ。自らに言い聞かせるように、和也は心の中で唱え続けた。そう言う指標がなければ、何か致命的なモノが崩れてしまうような気がした。

 何をするでもなく、布団の上で寝転がっていると、昼を過ぎたあたりでインターフォンが鳴った。体を起こすが面倒で、居留守を決め込んだ和也だったが、しつこく鳴り続けるインターフォンに我慢できず、起き上がって玄関に出る。

「はい、どちら様」

 語気を荒げながらそう応対すると、そこにいた人物に全身を巡る血が一気に冷めたような気がした。

「おっ、なんか久々な感じがするな」

 そこにいたのは陽次郎だった。彼はコンビニのビニール袋を和也に見せた。中には菓子類と酒類が入っていた。

「お邪魔していいか?」

 陽次郎のその問いに、和也が曖昧に返答すると、彼はそれを了承と捉えて部屋のなかに入り込んだ。

 いきなりのことに考えが停止していた和也は、少しして状況を呑み込み、慌てて部屋へと戻る。

「うわっ、これはすごい。まるでゴミ屋敷だ」

「……るせ、普通こんなもんだろ」

 和也の部屋のなかには、食べ終えて放置された弁当の空き容器やジュース類のペットボトル、食べ終えた菓子の袋、読み終えて積み重なった漫画本が至るところにあった。人が活動できるスペースは少なく、ゆっくり腰を落ち着かせられるのは、部屋の端に敷かれた布団の上だけだった。

「ゴミ袋とかある? 少し片づけるけど」

「んなもんはねぇ」

「一体どうやって生活してきたんだよ……。まあいいや。本格的な片づけはまたにして、今は整理だけしよう」

 そう言うと、陽次郎はてきぱきと部屋に散らばってゴミや漫画本、乱雑に放られた衣服を整理し始めた。みるみるうちに部屋の床面が顔を見せ始め、部屋が少しだけ広くなる。

「とりあえずこんなもんかな」

「……すごいな。三十分でこんなに綺麗になるなんて……」

「いや、別にゴミを捨てた訳じゃないから、綺麗になってはないんだよ。散らばってたものを一ヶ所に集めてスペースを作っただけだし」

 さも簡単なことのように陽次郎はそう言った。一人暮らし歴の差が一年あるということもあるだろうが、彼が簡単に言うことができないからこそ、和也の部屋はゴミ屋敷の用を呈していたのだ。

 またも突き付けられる差に、和也の内側にどろりとした良くないモノが湧き始める。

「それで、今日は何しに来たんだ? というか、どうやって俺んち知ったんだよ」

「ああ、それ? 実は君の同期の田口君に聞いたんだよ。最近後藤君があんまり大学に来ないって心配してたよ?」

「そっか」

 全然大学に通わなくなっても、自分のことを心配してくれる友人の存在に、少しだけ頬が緩む。

 陽次郎は自分が作り出したスペースの床面を手で少し払ってからそこに腰を下ろし、袋の中から缶ビールを一本取り出した。

「後藤君、確か先週誕生日だったよね?」

「ん、ああ。そうだけど」

「酒はもう飲んだ?」

「あー、そう言えばまだだな」

 先週の誕生日で和也は二十歳になった。成人を果たし、飲酒が許される年齢だ。いつもなら友人と初飲酒ではしゃぐところであろうが、今の和也はそんなことを忘れるほどに、心が疲弊していた。

「俺は四月が誕生日だから、酒飲めるんだ。だから、飲もうぜ」

 袋の中からもう一本ビールを取り出して笑う。

 果たしてどんな意図があってそんなことを言っているのか、和也には全く理解できなかった。しかし、久々に誰かと会話をするのは案外心地よく、初飲酒という魅力は、陽次郎の提案を断らせる理由を全て排斥した。

 陽次郎からビールを受け取ると、布団の上に腰を下ろし、プルタブを開ける。それを見た陽次郎も、続けてプルタブを開けた。

「それじゃあ、乾杯」

「乾杯」

 お互いのビール缶を小突き、初めての酒に口をつける。

 炭酸の刺激と酒の苦みは、初めて感じるにはあまりにも刺激が強すぎ、和也は思わず咽た。

「な、なんだこれ」

「ビールじゃなくてサワーとかのほうが良かったか? まあ、そっちのほうがジュースっぽく飲めるけど、俺が苦手でさ。ジュースっぽいと思わず飲み過ぎちゃうから」

 そう言うと陽次郎は缶に口をつけてビールを飲む。躊躇いなく飲むその様は、ビールの苦さに慣れているのか、今飲んだひたすら苦い液体が美味しそうに思わせた。

「まっ、酒だけ飲むってのも味気ないから、こうやって色々ツマミも買ったわけさ」

 そう言うと、陽次郎はビール缶を床に置き、袋の中から柿の種を取り出してそれを開け、摘まみ始めた。

 それに倣って和也も柿の種を食べ、その辛さを流し込むようにビールを口に含む。苦いのは変わらないが、辛さがそれを和らげてくれるようで、少しだけ飲むことに抵抗がなくなった。

 しばらく他愛のない話をしつつ、柿の種を摘まんで酒を飲む。久しぶりの他人との会話に興奮したのか、和也の口は滑らかに動いた。そんな様子を陽次郎は笑いながら見続け、早々と二本目のビールを飲み始めていた。

「それで、さ」

 和也が二本目を飲み始めてすぐに、陽次郎が口を開いた。今まで自分ばかりが話していたと気づいた和也は、一度ビールを口に含んで喉を潤して聞く姿勢を整えた。

「後藤君は、なんで大学来ないの?」

 あるいは谷底へと突き落とされる感覚はこれなのだろう。

 ビールが食道を通って胃の中へ落ちていくその感触がはっきりわかった。そこからジワリと寒気が全身に広がる。冷たい水が、血管の中に入り込んだようなそんな錯覚を覚える。

「別に、大した理由なんてない。ただ行くのが面倒になっただけ」

「それは……後藤君に限ってないと思うけど」

「お前は俺の何を知ってんだよ」

「少なくとも、浪人してまで大学に来たんだ。その努力を捨てるような人ではないと思う」

 見当違いも甚だしい。和也が大学進学を決めたのは、ただ東京で一人暮らしをしたかったからだ。大学進学というのはもののついでで、どうせならそれなりのところへ行こうと思っただけのことだ。そこに崇高な目的もなければ、夢すらもない。

「……お前はどうなんだよ。中学のとき、学校来なかったじゃないか」

 さながら対価を突き付けるように、和也はそう訊ねた。意識が少し浮ついている。夢心地のように柔らかで、落ちるような不安感が、常に渦巻いていた。

「中学のときは、まあ逃げたっていうのが正しいと思う。あの中学に入学する前までは他県に住んでてさ。小学校を卒業する頃に引っ越して、あそこに通ったんだ。でも、市立の中学校なんて、多かれ少なかれ小学校の頃の知り合いが一緒に来るもんでしょ。最初からグループが出来上がってるものなんだよ。あの頃の俺は、そう言う既に出来上がってるグループに入る勇気がなかった」

 陽次郎の瞳は遠くを映し出していた。表情には決して後ろめたいほの暗さはなく、ただ遠くにある、古い光景を懐かしんでいるように見えた。

「結局は努力不足さ。もっと勇気があって、もっと打ち解け合う努力をして、必死になってしがみつこうとすれば、ああいう結果にはならなかった」

「……後悔、してるのか」

 その言葉は問いではなく、確認であった。陽次郎は不登校になったことを後悔している。だからこそ今、その過去が目に見えないほどにのし上がった。それは素直に称賛できる。今の彼を見て、彼が敗北者であることなど誰にも想像できないだろう。

 しかし、そんな和也の言葉に、陽次郎は首を横に振った。

「後悔はしてない。してるのはあくまで反省だよ」

 ありえないと即座に否定しようとした。しかし、気負うことのない陽次郎の表情に、その言葉は出てこなかった。

 後悔していないということはつまり、逃げ出すことを肯定しているということで、その選択が何よりも正しいと思っていることに他ならない。そんなことはあり得ない。敗北者であることが、正しいなんてことはない。

 努力を放棄して落ちた者が正しいのなら、必死に努力している人達が馬鹿みたいではないか。

「そう言えば後藤君、いつだかも俺が不登校の頃のことを持ち出してきたな。もしかして、結構に気にしてたの?」

「……そうだよ。少なくとも、俺はお前以外に、途中から学校に来なくなった奴を知らない。だから、気になったんだ」

 あるいは自分の敗因はそこにあるのかもしれない。敗北者を知ろうとしてしまったために、自分が敗北者に滑落してしまった。それは笑えるくらいに滑稽だ。好奇心猫を殺すとはまさにこのことだろう。

 和也の言葉に納得したように頷いた陽次郎は、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して、操作し始める。しばらく操作を続けると、彼はその画面を和也に見せた。

 そこに映し出されていたウェブサイトは、多くの画像が掲載されているサイトだった。色彩豊かに描かれた景色。美しい女性。緻密に書き込まれた細部。スマートフォンの小さな画面の中に映し出された画像の数々は、思わず目を見張って惹かれる物がいくつかあった。

「中学のときに美術部を選んだのは、昔から絵を描くのが好きだったから。けど、不登校になってからは、そういうこともできなくてさ。正直、辛かった。好きなことができないことが、あんなにも苦痛だなんて思わなかった」

「……じゃあ、戻ればよかっただろ。怖くても、恥ずかしくても、辛いんなら戻るべきだったんだよ」

 自らの心を守るために逃げるのは健全だ。しかし、逃げ続けることが辛いなら、戻ればいいだけの話だ。それは決して許されないことではない。何せ当時は中学生なのだから。むしろ、間違えて、それに気づいて、正すことこそが、最も正しいことなのだ。逃げた先から戻ってくることなんて、今にして思えば何ら恥じることはないのだ。例え、周囲から奇特な視線に晒されることになろうとも。

「誰とも通じ合わないことは、別に辛くなんかない。他人から変な目で見られることだってそうさ。けど、何より辛かったのは、そこは俺がいなくても成立する場だって感じたことなんだ」

 まるで、心の内側を読まれたような気分だった。和也は自分が何に対して苦悩しているのか、その実、正しく理解できていなかった。ただひたすらに何かが認められなくて、しかし、その何かは和也に現実を突きつける。そんな何かを、陽次郎は明確な言語にしてくれた。腑に落ちたのだ。和也は自分がいなくても成立していた場所にこそ、苦悩していた。

「いなくてもいい場所に、どうして自分がいるのか理解できなかった。今にして思えば、そう言うものだって思って吞み込むだけでいいんだ。けど、俺にはそれが、どうしてもできなかった。どうせなら、何か特別な存在でいたかったんだと思う」

 まさしくその通りだ。誰かの特別であることを望んでいる訳ではない。ただ、自分が必要とされる場所に自分を安置しておきたいのだ。ただそれだけで、自分が必要不可欠な、特別であると思い込むことができた。

 中学時代、引っ越しによって環境が変わった陽次郎にはその場所を作ることができなかった。そして、和也は今、その場所を見つけることができなかった。

 聞けば聞くほどに、共感を覚えてしまう。かつての陽次郎が落ちた場所に、自分が向かっているという実感を得てしまう。

「俺は学校で、自分が特別でいられる場所を作れなかった。そう言う努力をせずに逃げ出した。反省してる。けど、逃げた先で、そう言う場所を見つけることができたんだ」

「……それが、そのサイトってことか?」

 和也の言葉に陽次郎は笑った。

「パソコン上で絵を描く人がいることは知ってたから、試しに機材を揃えてやってみたんだ。絵の具と筆で描くのとは全く違くてさ。最初は戸惑ったよ。けど、これが上手くやれば綺麗にできるもんでね。ネット上に投稿すれば、いろんな人から評価がもらえる。評価を下される誰かになれる。あるいは、描いた絵を好きだと言ってもらえる人になれる。この場所は、俺が特別になれる場所だった」

 遠くを眺める陽次郎が、果たして何を見ているのか想像もできなかった。苦しかった過去の苦みを思い出しているのか、あるいは求められる甘さに愉悦しているのか。ただ、懐かしいとひたすらに浸っているだけか。和也には見当もつかなかった。

「なら、なんで今そう言う風になってんだよ。ネットに居場所を見つけたんなら、そこにいればよかったじゃないか」

 今の陽次郎は、不登校のときに見つけた居場所から出てきている。あるいはそこから逃げ出したのかはわからない。それでも、特別になれる場所を離れる理由が和也には理解できなかった。

「欲が出たんだ」

 和也の問いに、短くそう返す。

「確かにネットは、大勢の人の声が聞こえる。ときに聞きたくないような雑言もある。だけど、それ以上の称賛が聞こえるんだ。心地のいい場所だよ。ずっとそこにいたいと思えるくらいに。だけど、そう言う気持ちよさが長く続くと、その快楽がわからなくなってくるもんで。いつの間にか、面と向かった誰かに評価されたいって欲を掻くようになった」

 耳を塞ぎたい気分だった。何せ、陽次郎のその話は、逃げ出した者の逃避行ではなかった。ただひたすらに、進み続けてきた人の話だ。逃避しても立ち止まらず、楽をするために居座らず、自らの欲のために登ってきた。そういう努力をしてきた彼が、敗北者と言えるだろうか。

 敗北者とはすなわち、するべき努力を怠り、なるべくして落ちぶれた者のことだ。世の中にはそういう輩がごまんといて、陽次郎もそういう奴だと思ってきた。自分より下にいる存在だと思ってきた。

 しかし、何より人を敗北者たらしめるのは、そう言う見方で人を見ることなのだろう。だからこそ、ふとしたことで簡単に滑落してしまう。遠い下ばかりに目を向けてしまうから簡単に躓いてしまう。

「ネットに投稿した絵を評価してもらうには、その絵が人の目に触れなくちゃならない。まあ、評価してほしいから頑張ったんだ。それで、ふとした時に思ったのさ。ああ、これは現実も同じだって。俺はそう言う努力をしてこなかったから、誰にも必要とされなかったんだって。そりゃ、知らないものを必要としろだなんて、無理な話だよな。ホント、簡単なことだよ」

 やけに体が熱かった。体温を少しでも下げようとしてビールを口に含む。冷えた液体が喉を通うが、そんな冷たさとは裏腹に、心の冷たさとは正反対に、体を巡る血流が熱を帯び、頭が茹だるようだった。

「――なんなんだよ」

 思わずそんな声が出た。

 どうして陽次郎がここに来たのか。それを語って陽次郎はどうしたいのか。それを見せつけて何を考えているのか。和也には理解ができなかった。

 理解できないからこそ、自分の心が思うことが真実に思えてきた。彼は見せつけに来たのだ。自分は進み続けたと。這い上がってここまで来たと。その様を見せつけているのだ。そうやって、滑稽に見下していた自分を、さらに高みから嘲笑う。

「なんでお前はそんなこと俺に言うんだよ! 俺にどうしてほしいんだよ!」

 喉の奥から吐き出した荒んだ言葉に、陽次郎は少しだけ冷めた目をして聞いていた。それは失望のようにも、あるいは軽蔑のようにも見えた。

「俺にとってお前は敗北者だったんだ! 努力を怠って逃げ出した奴だったんだ! それなのに、なんでお前はそんなにも進んでるんだよ! なんでお前は俺よりも、高いところから俺を見てるんだよ! なんでお前は、こんなことになっても前を向けたんだよ……」

 涙が出た。怒りか悔しさかはわからない。溜まりに溜まった澱が溢れるように、和也の目からは涙が沢山溢れる。

 結局のところ、和也という人間はどこまでも普通なのだ。大勢に紛れることに安堵し、流れに流されることを良しとし、自分より劣るものを見て安堵する。そう言う、普通の少年でしかなかった。

「……敗北者、か」

 ビールに口をつけながら、和也が叫んだ言葉を陽次郎が反芻する。ビールを味わうように、言葉の意味を何度も口内で転がして味わい、そして、笑った。

「後藤君は、俺をそんな風に思ってたんだ」

 自分が何を言ったのか、陽次郎のその言葉を聞いて思い出し、青ざめた。全身に流れる赤く熱い血が、全て裏返って青く冷たくなったように震えた。寒いはずなのに体から汗が滲んで、朦朧とする頭は恐怖によって鮮明になる。

「後悔はないよ。逃げ出したことで、俺はここまで頑張って来られた。我慢してあそこに居続けたら、きっと別の場所で、もっと深い部分まで腐ってたと思う。後悔はしてない。……だけど、やっぱり気持ちよく誰かに話せるようなことでもないからさ、周りの人には隠してきたんだ。けど、後藤君。君は違ったよね」

 なんの話をしているのかわからなかった。しかし、和也を見る陽次郎の目には僅かな尊敬の念の温かさがあった。冷え切った和也の肌にはそれは嫌に熱く思えて、痛々しくも感じた。

「入学式の日に歓迎会をしたでしょ? あそこの自己紹介で、いきなり一浪したって後藤君は言った。正直驚いたよ。だって、言わなくてもいいことでしょ? それを最初に言い切る勇気は、俺にはないものだ」

 陽次郎は笑って続けた。

「尊敬したんだ。もっと言えば、憧れた。君みたいに、自分のことを簡単に話せるような人になりたいって思ったんだ。それは、俺にはとても勇気が必要で、簡単にはできないことだから。だから、それができる君に憧れた」

 陽次郎は敗北者ではない。敗北者は和也だ。今回のやり取りで、和也はそれを自覚した。そんな敗北者の自分に対して、憧れたなどと語る陽次郎は、和也がしてきたこと以上に滑稽で、厭味ったらしかった。

「……軽蔑するか?」

「うん。軽蔑する」

 そう返した和也の声は、言葉の意味よりも軽かった。

「だけど、人なんてそんなもんだよ。俺は今まで、後藤君の良いところしか見てなかった。だから、今悪いところを見てショックを受けてる。その程度のことさ。そしてそれは、致命的ではない」

 致命的ではない。その言葉こそが、最も致命的な一撃であった。

 長い沈黙の後に、和也は掠れるくらい小さな声で呟いた。

「今日は、もう帰ってくれないか」

 陽次郎は短く「そっか」とだけ言うと、自分が飲んだビールの缶とつまみの小袋だけ持って立ち上がる。

「残りの酒とつまみは好きにしてくれ。それじゃあ、また大学で」

 そう言って、陽次郎は家を出て言った。バタンとしまった玄関の扉を見つめながら、その奥で帰路につく陽次郎に向けて、和也は告げた。

「――お前の気持ちなんて知りたくなかった」

 そうであれば、こんなにも惨めな思いをしなくて済んだのに。


    *


 和也はあれ以来、しっかりと大学に通うようになった。陽次郎と話したことで、人肌恋しくなってしまったのもそうだが、誰かに害された訳でもなく、ただ自分で傷ついただけで引きこもっているのが馬鹿らしく思えてきたのだ。

 残念ながら、いくつかの講義で単位を落としてしまったが、それでも、まだ巻き返せる範疇で、今後はこのツケを払うために邁進しなくてはいけないと嘆息する。

しかし、和也は陽次郎と話すことはなかった。

 お互いにか、あるいは和也だけかはわからない。それでも、相手に対して気まずさがあり、和也はなるべく顔を合わせないようにと行動していた。

「――ところでさ、なんでお前しばらく大学来なかったん?」

 夏休みに入り、和也の部屋に入り浸っている田口が、ゲームの映像が映し出されているテレビを見ながらそんなことを訊ねてきた。

 ずかずかと触れられたくないところに踏み込む奴だ。デリカシーの無さに思わず嘆息しつつも、和也はゲームのコントローラーを操作しながら答えた。

「単純に、そう言う気分じゃなくなっただけ。そう言う日ってあるだろ」

「ああ、ある。突発性五月病な」

 そんな病名はないと思いつつも、確かにその通りかもしれないと笑って、コントローラーの決定ボタンを押した。

「……なあ、田口」

「なんだよ」

「お前、自分が必要とされない場所に、ずっといようと思うか?」

 意図のある質問ではなかった。単に、思い出したから訊ねてみただけのことで、田口の答えに何かを見出そうなどとは考えていない。

「なんだそれ」

「いいから、答えろよ」

 そう答えを急かすと、田口はコントローラーを巧みに操作して画面のキャラクターを動かしながら、うんうんと唸りながら考えている。器用な奴だと思いながら、和也もコントローラーを操作する。

「お前の言う、自分が必要とされない場所っていうのがどういう場所を指してるのかよくわかんねーけどさ」

 しばらくゲームのBGMだけが響いた部屋に、田口が口を開いた。

 意識をその言葉に傾けつつ、和也はコントローラーの操作をする。思わず誤操作してキャラクターが足場のないところへ落ちてしまい、自分の敗北が決してしまった。

「その場所がもし大学だってんなら、俺は居続けるな」

「それは、どうして?」

 画面に映し出されたリザルトには、田口が操作していたキャラクターがウイニングポーズをとっていた。視線を画面から外し、田口のほうを見る。

「だって、まだ遊びてーもん」

 青天の霹靂というやつだった。

 そこは自分が必要とされない場所だ。いてもいなくても同じ場所だ。ならば、そこにいるか否かを決めるのは周りではなく、自分の中にある何かだろう。それは欲でもよければ、夢でもいい。堕落だって構わない。なんであれ、そこにいたいと思えたのなら、そこにいればいいだけの話だったのだ。

 とても簡単な話だ。ようは自分に従うだけでいい。人は大勢が生み出す流れや勢いに従う生き物だが、そうしなくては生きていけない訳ではない。選択権は常に各自に委ねられている。

 つまるところ和也も陽次郎も、自分を大勢の内に入れることに固執しすぎていたのだ。見るべきはマクロではなくミクロ。もっと自分の気持ちに正直になるだけでよかった。

「そっか、そうだな」

 田口の言葉に納得したように、和也はそう口にした。

「うん。俺も、もっと遊んでたいな」

「そうだろ? 大学辞めたって、働かないといけなくなるからな。この四年間、精一杯遊び尽くそうぜ」

 そう言うと、田口はキャラクター選択画面で操作するキャラクターを選び始めた。

 剛毅な奴だ。あるいは、自分が考えすぎたのだろう。いや、きっと陽次郎が考え過ぎなのだ。自分はそれにあてられてしまった。

 人はもっと、自分だけに目を当てるべきなのだ。周りのことなど気にせず、自分が何をしたいのか。それに従うだけで、きっともっと、息はしやすいはずなのだ。

 ――ああ、やっぱり、お前の気持ちなんて知りたくなかったよ。

 他人の気持ちなんて、知らないほうが自分に素直でいられるのだから。



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お前の気持ちなんて知りたくなかった 藤河 明 @fujiaki

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