レナの思い出
嘉太神 ウイ
第1話
一
「心肺停止です」
看護師が静かな声で言った。
「バイタルサインA1、3、7急速に低下」
もう一人の看護師が報告する。
医師が顔をのぞき込むようにして、ハロゲンペンライトを目に当てる。
「瞳孔散大・光反射停止。MDCⅢ基準による死亡を確認」
しかし、医師の指示は途切れなかった。
「簡易人工心肺継続。キトレフェタミン0・5ミリ、デセロプシン0・3ミリ投与」「前頭葉MDI電極挿入。D34・6度及びE24・8度」
「センサーネット電極C1装着」
「
いくつかの指示が医師から矢継ぎ早に出される。
患者の、すっかり髪のなくなった頭部には、幾つかのコードの束がついたヘッドギアが装着されている。モニターには、3Dマッピング画像による脳の活動領域が色別に示されている。
「あと五分の勝負だ」
ほとんど独り言のような医師の声だったが、処置室にいた誰もが耳にした。あとは新開発のCLOMⅡに任せるしかない。
二
ああ、もう僕の命は長くはない。いや、もう消えようとしている。僕には分かる。
すでに頭はぼんやりしている。全ての出来事が、望遠鏡を反対から覗いたように、遠くに感じられる。しかしそれでも、まだ昔を思い出すことができる。
人生で一番嬉しかったことは、小学校の同級生と結婚できたことだ。
四年生の始業式で、転校生として紹介された。水色のワンピースを着て、担任の先生と一緒にステージに上がったその姿は、忘れることができない。その可愛さが、あまりに僕好みだったからだ。
残念ながら、僕がいる一組の教室からは一番離れた五組に入った。だから、その子の顔が見られるのは、朝会で体育館に集まるときだくらいだった。
その子は、すこし不思議な顔をしていた。必ずしもみんなが可愛いと言う顔ではない。どちらかというとバランスが崩れていたと思う。目が大きく、まつげがすごく長い。鼻はすこし上を向いている。口は小さいのに、唇はすごく厚かった。髪の毛は、少し茶色で、ウェーブがかかっていた。ワンピースがすごく似合っていて、脚が長く、四年生なのに大人のような体型をしていた。すべてのバランスが、僕の好きな方向に少し崩れていた。
後で、テレビニュースの中に、そっくりな人を見つけた。どこか南の国のサンバ祭りで、路上を歩きながら踊っていた子供だ。まさにレナにはそんな雰囲気があった。男の子の話題になる女の子は学年に数人いたけれど、その中にレナは入っていなかった。
五月になって、運動会の練習が始まると、ほとんど毎日、レナを見かけるようになった。
ダンスは、内側の円が女子、外側の円が男子で、ペアになって踊る。ペアは、一人ずつずれていくのだ。僕はレナと同じグループになった。男一五人、女一五人。校庭にその環が五つ作られる。一曲で六人が入れ替わる。僕とレナは、二回目の練習で一緒になった。手を繋ぎ、肩を組む動作もある。
レナは真剣に踊っていた。相手の男の子は、少しもレナを意識していないようだ。僕だけがドキドキしているらしい。少しずつ僕に近づいてくる。僕はレナの手をおずおずと握った。レナの動作は、流れるようでしかもしなやかだった。これに比べたら、他の子はまるでロボットだ。でも、レナの表情は何も変わらない。僕だけに微笑んでくれるようなことはなかった。
これが、レナの手に触れた最初だった。でも、その時はまだ一言も言葉を交わしてはいない。
初めて言葉を交わしたのは、それから二年後だ。六年生になって、初めて同じクラスになったときだ。
このころになるとレナは、男の子の話題にたびたび登場するようになった。特徴のある顔は、大人びてくるとみんなの注目を浴びるようになっていた。
「私レナ、よろしくね」
後ろを振り向きながら言った。レナは僕の前の席だった。僕は一日中、茶色のカールした長い髪を見て過ごした。その長い髪をすっと手ではらうようにして、僕の方を振り向く。
「ねえ、
僕は、何も目立つところはなかったけれど、絵だけは得意だった。
最初は緊張していたけれど、ときどき振り向くレナと、普通に話すことができるようになった。掃除当番で、一緒に机を運ぶことも、隣に並んで給食を配ることも、学習発表会のポスターに向かい合って絵の具を塗ることも、消しゴムを借りることも、緊張しなくなった。ただし、レナには、僕だけに特別、ということは何もなかった。
学校外で会うこともなかった。僕は、僕だけに特別な表情や仕草が欲しかった、学校が終わってから、二人だけで会いたかった。
それが叶ったのは、中学に入ってからだった。
「また、一緒のクラスね、よろしく」
中学は、三つの小学校から入学生があったので、同じクラスになるのは期待できなかった。でも、三年生になって、同じクラスになれたのだ。
ブレザーにチェックのスカートの制服は、レナのためにデザインされたようだ。レナの顔立ちは、モデルから女優になった美咲ユイに似てきた。レナは十五歳なのに、十八歳の美咲と同年代のように見えた。レナはすでに中学校で、一番目立つ存在になっていた。
僕は美術部、レナは吹奏楽部だった。この二つの部に接点はまったくない。ところが、文化祭のステージの装飾を担当していた先生が美術部の顧問だったことから突然つながりができた。吹奏楽部のステージ発表の装飾を僕がやることになったのだ。
期日が迫り、体育館でバック絵を塗っていた。僕は、ミロの絵にヒントを得て、線と色の塗り分けで、抽象的なコスモスを描いた。そこに、一九六〇年代のアメリカ車を精密に描いた。演奏曲にオールディーズのメドレーがあったからだ。
ステージで一人色を塗っていると、声がした。
「これ、シボレーインパラでしょ」
レナだった。
「どうして知っているの」
筆をもったまま立ち上がった。レナの出現にひどく驚いたけれど、平静を装って聞いた。
「どうしても。あら、服が絵の具だらけじゃない」
口に手をあてて笑っている。
「この車、何色に塗るの?」
「えーと、青にするつもりだけど」
「黄色にして」
「えっ」
「黄色の方が絶対にいい」
そんな色は考えていなかった。だから、充分な絵の具はない。
「私が塗る」
「でも、黄色の絵の具は足りないよ」
「そうか」
そう言いながら、レナはステージの隅に置いてある、絵の具の缶を見た。
「じゃあ、赤。それなら絵の具は足りるでしょう」
それから、レナは、四つん這いになってシボレーを塗り始めた。スカートからでた膝小僧が、赤く染まっていく。上着は汚れないように脱いで、パイプ椅子の背もたれにかけてある。一時間ほどで塗り終わったときには、僕と同じように絵の具だらけだった。
時間は七時を過ぎていた。あと三十分で体育館は閉められる。
「練習はいいの?」
「大丈夫。個人練習の時間。みんなあちこちの教室で練習してるから」
「楽器はどうしたの」
「あるわよ。ちょっと待って」
駆け足でステージの下に降りると黒い大きなケースを持ってきた。
床に置いて蓋を開ける。金色の大きな楽器が入っていた。
「テナーサックスっていうの」
取り出しながら言う。
「ちょっと一回吹いてみる。それで練習したことにするから」
聞いたことのあるメロディーが突然サックスから流れだした。こんなに近くで聞くからか、思いの外大きな音に聞こえる。ゆっくり動くサックスからは、空気より重い音が、霧のように湧いて出て、ステージからフロアーに流れ下っていくようだった。
突然音が止んだ。
「以上、おしまい」
「なんていう曲?」
「ミスター・ロンリーっていうの」
それが、レナが僕だけにしてくれた最初のことだった。
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