第697話 前世で見覚えのある仕打ち

 アイザックはドキドキしながらトイレへ向かう。

 その途中で据えた臭いが漂ってくる。

 アイザックが妄想したような男女が関係を持った部屋の臭いでもなければ、トイレ本来の汚物の臭いでもない。

 心なし、案内をしている執事の落ち着きが失われているようにも見えた。


「アイザック陛下をこちらへご案内するようにと、アーチボルド陛下より承っておりました。どうぞ中へ」

「あまりよいところではなさそうだな」


 執事が扉を開くと個室ではなく、複数人で使う公衆トイレのような場所だった。

 壁式小便器に個室トイレがあるだけだ。

 明らかにアイザックが妄想したような特別な接待する場所ではない。

 だが、気になるところもある。


 ――どこからともなくうめき声が聞こえてくるのだ。


 アイザック一人だったなら「魔法のある世界なら幽霊も出てきてもおかしくない」と思って漏らしていたかもしれない。

 同行者がいるおかげでなんとか堪えられていた。


「この声はなんだ?」

「こちらの中をご確認ください」


 執事は壁に掛けられていたランプを手に取ると個室の扉を開いた。

 そこには便器があるだけである。


「中を確認しろとは……、そういう事か。なんと醜悪な」


 アイザックはとある可能性に気付いた。


 ――うめき声は成人男性のもの。

 ――それがトイレの中、しかも便器の中から聞こえる。


 このシチュエーションに近い状況を前世の本で読んだ事がある。 

 嫌ではあるが、誰が中にいるのかを確認しなければならない。

 アイザックは便器の中を確認する。


(暗くてよく見えないけど……。誰?)


 トイレの下には大きな空間があり、ランプの頼りない灯りではあるが五人分の姿を確認できた。

 ノーマン達が放り込まれている可能性も考えたが、中に入れられているのは見知らぬ人物だった。


「彼らはハーミス伯らです。これが我が国の答えだとの事です」

「そうか……」


 アイザックは便器から離れる。

 ヴァージル三世やイライアスも交代で中を確認すると、露骨に顔をしかめた。


「ここまで侮辱せずとも……」


 イライアスの呟きは、この場にいる者達の心情を代弁していた。

 縛ってトイレの中に放り込み、糞尿の中で溺れさせるのは度を超えた侮辱である。

 屈辱のあまり舌を噛んで自殺してもおかしくないくらいだが、それすらも猿ぐつわを噛まされているのでできない。

 最大級の懲罰だった。


「彼らの家族は?」


 不安に思ったアイザックが執事に確認する。


「先ほど、全員処刑されたそうです」


 彼らは以前から拘束されていたのだろう。

 会談内容に怒りを覚え、彼らとその家族が八つ当たりされたのかもしれない。


「ハーミス伯、聞こえますか」


 アイザックが声をかける。

 一人のうめき声が大きくなった。

 きっと彼がハーミス伯爵なのだろう。


「私が同盟の再締結に向けての根回しをするようにウィルメンテ公に命じました。あなた方が協力してくれた事は聞いています。私は平和を望んでいた。それだけです。その返答がこれとはあまりにも酷すぎる!」


 アイザックは彼の領地を通った時の事を思い出す。

 おそらくすでに領地は奪われ、ハーミス伯爵は無力な存在になっている。

 だが、彼の存在がアイザックには重要だった。

 彼を味方に付けるべく、一芝居打とうとしていた。


「到底耐えられない屈辱と悲しみを覚えているだろう。家族を処刑されたと聞いて絶望しているかもしれない。だが諸君には自暴自棄にならないでほしい。私が雪辱の機会を与える。これはこの場におられるコロッサス王国のヴァージル三世陛下と、トライアンフ王国のイライアス陛下の前で必ず果たすと誓おう」

「そのような約束をしてよろしいのですか?」


 ヴァージル三世が執事を見ながらアイザックに確認する。

 彼がいる以上、今の話はアーチボルドに伝わるだろう。

 今はアイザックに協力した貴族の粛正で溜飲を下げているが、危険を感じた彼がアイザックの暗殺に動くかもしれない。

 この場で明言するには、あまりにも危険な発言だった。


「かまいませんとも。それが今の私に見せられる彼らへの誠意です」


 アイザックは執事に視線を向ける。


「わ、私は陛下の命に従っただけで……」


(殺される!)


 彼の脳裏に浮かんだのは「口封じ」という言葉だった。

 他国の王宮で、他国の王家に仕える者を殺すなど普通は考えられない事だ。

 しかし、今は普通の状況ではないし、相手も普通の人間ではない。

 実際にやりかねなかった。


「年は?」

「……はい?」

「今の年齢はと聞いている」

「今年で四十になります」


(年齢の数だけ悲鳴をあげさせるとか考えているのだろうか……)


 彼は濃厚な死の気配を感じていた。

 だがアイザックは彼を殺す事など考えていなかった。


「では子供がいるな。もしかすると孫も」


(家族を狙うというのか!?)


 執事はそこまでやろうとするアイザックに怯えた。


「王宮で働いているのなら家系は?」

「叔父が子爵でございます」


(爵位持ちの叔父上のほうを狙ってくれ!)


 彼は叔父をあっさりと差し出そうとする。


「お前は爵位を継承する機会はないのだな? では、私が用意してやろう。彼らをリード王国の大使館やリード王国に本拠を置く商人のところへ届けろ。そうすれば、その功績を評価してリード王国で貴族として迎え入れてやろう。もっとも、反乱を起こそうとしたわけではなく、国のためを思って同盟の再締結を進言した者に、このような仕打ちを行うアーチボルドのもとで働きたいのならば好きにするがいい」


 だがアイザックは、彼が恐れた事と正反対の言葉を言い放った。

 王宮で働くには、当然信用されていなければならない。

 採用されたという事は、それだけで名誉な事だ。

 だから今の仕事自体には不満を持っていなかった。

 しかし、今回のアーチボルドの仕置きはやり過ぎているため、彼の忠誠も揺らいでいるのも事実だった。


「ですが、彼らをここから出す方法がありません」


 そのため「お断りします」ではなく「出す方法がない」という答えになった。

 リード王国で貴族になる可能性を捨てきれなかったからだ。

 この問題を解決する方法があるのならば、それに乗るという余地を残した答えを選択した。


「アイザックをここに連れてきた時には糞尿に溺れて死んでいた。だからあのゴミを捨ててきてもいいかと聞けばいい。さすがに死体を晒し者にして辱めるような事まではしないだろう。彼らを外に連れ出せる事ができたら、一人につき一億リード支払おう」


 アイザックは執事に近付く。


「彼らは同盟の再締結というアーク王国の平和のために動いた者達だ。いつかアーチボルド陛下も忠臣の死を悔やむ時が来るかもしれない。彼らが生きていればこそ、失敗を取り戻す機会が残るのだ。これもアーチボルド陛下のためと思って、彼らを助けてくれないか」


 そして執事に優しくささやいた。

 ノーマンが居合わせれば「またやってる……」と呆れられていただろう。

 だがツッコミ役はいない。

 ここはアイザックの独擅場だった。


「へ、陛下のためになるのですか?」

「そうだとも。ヴァージル三世陛下とイライアス陛下という二人の同盟国の王の前で嘘はつかない。だから私を信じて、彼らをここから助け出してやってほしい」

「……爵位はどのようなものになりますか?」

「男爵だ。しかし、今の我が国はファラガット地方やグリッドレイ地方という領土が増えた。お前がどの程度の知識を持っているかによるが、地方都市の代官職は空いているな」

「それでは最善を尽くしてみます」


 当初は執事も迷っていた。

 だが地方都市とはいえ、代官職は美味しい。

 ただの雇われでしかない執事と比べれば収入が桁違いだ。

 子爵ではなくとも魅力的ではあった。


「頼んだぞ」


 アイザックは執事の肩をポンポンと叩く。

 そしてまた便器に向かった。


「脱出できればリード王国に来るもよし。私が同盟の再締結のために動いてほしいと頼んだので、元凶の私が治めるリード王国になど行きたくないと思ったのならば他の国に行ってもいい。そのための路銀は用意しておく。あとはただ……、生きてほしい。今の私が言える事はそれだけだ。いつか諸君とゆっくり話せる時が来るのを待っている」


 そう言うと、アイザックは便器から離れた。


「では、まずは他のトイレへ案内してもらおうか。すでに汚れているからといって、彼らを汚すような真似はしたくないからな」

「かしこまりました」


 執事の案内で違う場所のトイレへと向かう事になった。

 ヴァージル三世達もあのトイレで用を足す気分にはなれなかったのだろう。

 アイザックに同行する。


(まさかアーチボルド陛下があのような事をするとは……。アーク王国と手を組むアルビオン帝国も信用ならん。アイザック陛下を盛り立てて、リード王国を中心に結束せねば我が国もどうなる事か)


 アーチボルドの仕打ちを見て、二人は危機感を持った。

 彼らの対抗馬として、聖人認定されたアイザックに期待を寄せる。


(彼らの中に秦の范雎となってくれる人物がいるかどうか。どちらにせよ、アーチボルドには感謝しないとな。いい火種を用意してくれた。きっとこれはアーク王国侵攻の足掛かりとなってくれるだろう)


 そのアイザックはというと、聖人という肩書きに似つかない事を考えていた。


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