第195話 醤油をニコルにプレゼントした結果

 ブリストル伯爵を許した事で、貴族達の間でアイザックの評価は急上昇した。

 エルフやドワーフの件で評価はされていたが、それは貴族として評価されたもの。

 一人の人間としての評価は地を這っていたので、今回の一件はアイザックにとって得るものが多かったといえる。

 得るものがあったのはアイザックだけではない。

 ブリストル伯爵も大きな利益を得ていた。


 ブリストル伯爵は「エリアスのお気に入りであるアイザックにケチをつけた」とあって、他の貴族から距離を置かれていた。

 アイザックとの和解が決まり、他者との交流も復活した。

 以前と同じ状態に戻っただけだが、彼はアイザックに深く感謝していた。

 功績を残していて、エリアスのお気に入りという立場であれば増長していてもおかしくない。

 だが、アイザックは違った。


 自分には責任がないのに、アイザックは自分の行動を謝罪した。

 それがどれだけブリストル伯爵にとって助けとなったか。

 ブリストル伯爵は「貰える物は貰って、感謝だけしておく」というタイプだった。

 だが、窮地に追い込まれた時に手を差し伸べてくれた恩義を忘れるほど薄情ではない。

「この借りはいつか返そう」と心に決めていた。




 そのアイザックはというと、会議を行った翌日から合間を見てウィルメンテ侯爵の側近と接触していた。

 理由は単純明快。


 ――ローランドがケンドラの婚約者にふさわしいかを調べていた。


 身辺調査など、まだ四歳の子供に対してする事ではない。

 その事はアイザック自身わかっていたが、居ても立っても居られなかった。

 家族が心配したように、ケンドラの件でウィルメンテ侯爵家に接触してしまっている。

 ウェルロッドに戻る直前まで婚約の事を黙っていたのは正解だったかもしれない。


 何人かと会ったあと、アイザックはフィリップ・ウィルメンテ侯爵の友人であるジャック・カニンガム男爵と会う事にした。

 場所は、かつて密会の場所に使った事もあるチョコレート菓子店の一室。

 そこで、ローランドの話を聞いていた。


「ローランドは、フレッドと違った育て方をされているようですよ。ウェルロッド侯爵家の家風に合わせるため、勉強を中心にして思慮深い性格になるよう気を付けているそうです」

「そうなんですか」


 アイザックは「今回は当たりを引いた」と喜んでいた。

 今まで話した相手は、当たり障りのない事しか話してくれなかった。

 だが、ジャックは何も考えていないかのように、アイザックの知りたい情報をベラベラと喋ってくれる。

 わざわざローランドのために時間を割いた甲斐があったというものだ。


「フレッドとの仲はどうなんですか?」

「いいですよ。ですが、まだまだ幼いので考え方とかは影響を受けたりしていませんね。フレッドは武門の家柄にふさわしい性格ですからね。おそらく、ケンドラ様の婿にふさわしくなれるよう距離を離して育てていくのではないでしょうか」

「へー、ウィルメンテ侯爵はそこまで考えてくださっているんですね」

「過去に不幸な出来事があったので、フィリップはウェルロッド侯爵家との関係を修復したいと考えているようです」


 フレッドはアイザックに対して敵意を持ちすぎている。

 ローランドがフレッドの影響を受けていたら、問答無用で排除しなくてはならない対象となっていた。

 さすがに幼児を手に掛ける事には気が引けていたので、これも嬉しい情報だった。


(でも、ウィルメンテ侯爵はなんでこんな奴と友達になったんだろう? 馬鹿が近くにいると落ち着くとか、優越感に浸れるとかかな?)


 ジャックの口が軽いのはありがたいが、アイザックは「こんな友人を持ちたくない」とも思う。

 今、話している内容くらいならばいい。

 どこかで重要な情報をポロッと漏らされたら大変だ。

「馬鹿は敵には必要だけど、味方にはいらない」と考えていた。

 チョコレートソースの掛かったパンケーキを、能天気そうに食べているジャックを見ているだけで、その思いは段々強くなっていった。


「いやー、それにしてもチョコレートって美味しいですよね。こんなに美味しいんですから、ステーキなんかに掛けても美味しいんじゃないですか」


(ステーキにチョコレートソース? あぁ……)


 ――馬鹿の発言。


 そう切り捨てる事は簡単だったが、アイザックはチョコレートソースを肉に掛けて食べる事を前世の知識で知っている。

 前世にはメキシコ料理に使われるモーレというソースがあった。

 食べた事はないが、肉料理にチョコレートソースは意外とイケるらしいという事は知っていた。


(肉料理にチョコレートソースを使うっていう発想は結構新しかったはず。馬鹿だと思ったけど、実は料理の分野で力を発揮できるタイプなんじゃないか?)


 アイザックは、ジャックの評価を変えた。

 貴族といっても人間だ。

 得手不得手があって当然。

 貴族としてイマイチでも、他の分野で力を発揮できるタイプなのかもしれない。

 少なくとも、新しいものを作り出す発想力を持っていそうだ。


「カニンガム男爵、あなたはとても賢い方のようですね」

「えっ」


 アイザックに褒められ、ジャックはなぜか固まった。


「私の下で働きませんか? 待遇は十分なものを用意させていただきます。いかがでしょうか?」


(菓子店の店長を任せれば、どんどん新商品を作ってくれるかもしれない。新しいお菓子ができたら俺も嬉しいし、ケンドラが大きくなった時に色々なお菓子を楽しめるようになる)


 アイザックはジャックを勧誘した。

 肉料理にチョコレートソースを使う事を思いつく逸材だ。

 相応の好待遇で雇うつもりだった。


「ありがたい申し出ですが……。申し訳ございません。お断りさせていただきます」


 ジャックは顔を強張らせたまま、震える声で申し出を断った。

 その反応を見て、アイザックはすぐに察した。


(そうか、そうだよな。男爵家の当主が菓子屋の調理場には立てないよな。怒るのも当然だ)


 さすがにアイザックは自分の愚かさを恥じる。

 才能があるからといって、相手の立場を無視した申し出などしてはならない。

 それは相手の事を馬鹿にしているようなものだ。

「思いつきで行動するんじゃなかった」と後悔する。

 とはいえ、ここで引いては本当に馬鹿にする意図があると思われる。

 そういう意図がないと説明しておかねばならなかった。


「そうですよね、カニンガム男爵にも立場があります。私の下で働いてほしいなどと軽々しく言うべきではありませんでした。こちらこそ申し訳ございません」

「お声を掛けてくださった事は感謝しております。ですが、ウィルメンテ侯爵家を去るような真似をできないという事だけはご理解ください」


(ウィルメンテ侯爵家? ああ、そうか。ウィルメンテ侯爵家を捨てて、ウェルロッド侯爵家の傘下に入れって誤解したのか)


 言い方が悪かったのなら、早めに誤解を解いておかなくてはいけない。


「ちょっとだけお仕事を頼みたいなと思っただけです。ウィルメンテ侯爵家を去る必要なんてありませんよ」

「そうですか……。ですが、やはり仕事を引き受けるわけにはいきません。何卒ご理解のほどを……」


 先ほどまでの能天気な表情とは違い、ジャックは神妙な面持ちになっていた。

 神妙な面持ちで断られては、アイザックも「悪い事を言ってしまったな」と申し訳なくなる。


「お気になさらないでください。こちらこそ意地悪な申し出をしてしまいました。気を取り直してお菓子をお楽しみください」


 アイザックはお菓子の方に気を向けさせる。

 だが、結局別れる時までジャックの表情が明るいものになる事はなかった。



 ----------



「仕事の話は失敗したなぁ」

「いきなり自分の下で働かないかと聞かれたら、誰だって驚きますよ」

「まぁ、そうだよね」


 アイザックはノーマンを連れて屋敷に戻った。

 今回は不用意な発言をしてしまった。

 さすがに反省するしかない。

 だが、これはこれで悪くない。

 失敗した事を心配して、ノーマンがモーガンに報告したりしないかを確認できるチャンスだ。

 怒られてもさほど痛くはない内容なので、試すにはいいだろう。


 ノーマンと話しながら歩いていると、リビングの人だかりに出くわした。

 メイド達が大勢集まってテーブルを囲んでいる。

 彼女達に気付いたアイザックは、気になってそちらに足を向ける。


「あっ、アイザック様が!」


 メイドの一人がアイザックに気付き、みんなに知らせる。

 すると、何かを慌てて隠し始めた。


「おい! 今、何を隠した!」


 ――アイザックが来たから何かを隠す。


 これは使用人としてあり得ない行動だ。

 アイザックにやましい事があるという事は、ウェルロッド侯爵家に対してもやましい事があるという事だ。

 ここはしっかりと問い詰めないといけない。

 ノーマンが強い口調でメイドを咎める。


「いいのよ。この子達は何も悪い事をしていないから」


 マーガレットがノーマンを止める。

 メイドの陰に隠れてわからなかったが、メイド達が脇に退いたので確認する事ができた。

 他にもルシアとニコルがいた。


(こいつ、また接触してきたのか。お袋や婆ちゃんを狙ってくるのが嫌らしいな……)


 アイザックはニコルを見て「また何か持ってきたんだろう」と思った。

 前回は、エッセンシャルオイルという女性に人気の出そうな物だった。

 また女性受けする物を持ってきたのだろうと察する。


「ですが、大奥様。使用人がアイザック様に取るような態度では……」


 さすがにマーガレット相手では強気に出れない。

 ノーマンの声がトーンダウンする。


「当然、それだけの理由があっての事です」

「ニコルさんがまた何か持ってきたんじゃないんですか? だったら、僕にも関係あるでしょう」

「いえ、今回は関わらなくてもいいわ。私達でやっておくから」

「えっ、お婆様が?」


 アイザックがやると言っても、商人に口利きをするだけ。

 グレイ商会などは自分のお抱え商人という認識だったので、アイザックがやっていただけだ。

 確かにマーガレットがやっても問題ない。

 だが「なんで今回に限って?」という思いが頭から離れない。

 そんなアイザックの様子を見て、ニコルが説明を始めた。


「あのね、今回は女性ものの下着を持ってきたの。だから、お婆様もアイザックくんを関わらせたくないと思ってるんだよ」

「下着?」

「うん、そうだよ。最近胸が大きくなってきちゃって……。上手く包める下着が欲しいなって思ったから作ってみたの」


 ニコルが両腕を組んだ。

 そのせいで、胸が腕に挟み込まれて大きさを強調する形となった。


(むっ……)


 ニコルの事は好きではないが、アイザックはつい視線が胸元へ向かってしまう。


(そういえば、ブラジャーってなかったっけ)


 アイザックは、この世界の下着について思い出す。


 ――男はシャツとトランクス。

 ――女はキャミソールと紐パン。


 といったものが主流で、ブラジャーはなかった。

 ニコルも胸が大きくなってきて「何かないか?」と思って、ブラジャーのようなものを思いついたのだろう。


(これだから主役補正は……。いや、そもそもは俺のせいか)


 ニコルがこうやってアイデアを売り込むようになったのは、チョコレートが切っ掛けだ。

 それもテレンスがアイザックの家庭教師になり、その給与でニコルの父が一獲千金を狙って死んだ事が切っ掛けだった。

 人との関係は不思議なものだ。

 しばらくテレンスに教わっていただけだったのに、ニコルと関係を持つ事になり、アイザックの影響かニコル自身も活発に行動するようになった。


(これでジェイソンに全力だったら許せたのになぁ。こっち来るなよ)


 ニコルが活発的に行動する事は歓迎している。

 ただ、その対象が自分だという事だけは勘弁してほしいところだった。


「アイザック様。女性が下着の話をしているところに男が混じるのは、あまりよろしくありません。ひとまず部屋に戻られてはいかがですか?」


 ノーマンがアイザックに部屋に戻るよう進言する。

 彼も妻を持つ身だが、下着の話となると恥ずかしいようだ。

 頬を赤く染めている。


「そうだね。部屋に戻るとしようか」


 前世では母や妹の下着を見慣れていたので、下着だけならただの布のようにしか思えない。

 試着している姿を見られるのなら別だが、下着の話をしているだけなら首を突っ込む必要はないと感じていた。

 それに、むっつりスケベだと思われるのも嫌だ。

 アイザックは、素直に彼の進言を受け入れた。


「では、ごゆっくり」


 最後に社交辞令を述べて、アイザックは部屋に戻った。




 下着の話が終わったのだろう。

 しばらくして、アイザックは「別れの挨拶をしなさい」と呼び出された。

 その際、厨房から醤油を持っていく事を忘れなかった。

 ニコルをリトマス試験紙のように扱い、パメラが喜んでくれそうか試すためだ。

 一リットルほど入る壺に入れて、自分の手で持っていく。


 さすがにメイド達は仕事に戻ったのだろう。

 リビングに着くと、必要最低限のメイド以外はいなくなっていた。


「悪かったわね、アイザック。でも、年頃の男の子がいると、下着の話はちょっとやり辛くて……」

「いいんですよ。こちらもデリカシーが欠けていました」


 ルシアが謝り、アイザックも謝罪をした。

 アイザックはニコルの前に壺を置く。


「実はエルフの村に行っていたんですよ。その時、彼らが細々と作っている醤油という調味料を手に入れてきました。よろしければどうぞ」

「えっ、お醤油?」


 いつもはアイザックの顔を見つめていたりしていたニコルも、アイザックからのプレゼントとあってから醤油の入った壺に視線が移った。


「アイザック、醤油なんてあげてどうするの」

「プレゼントするなら花束になさい」


 ルシアとマーガレットが、アイザックを叱りつける。

 プレゼントのチョイスがあまりにも酷過ぎたからだ。

 だが、ニコルが首を横に振って否定する。


「いえ、お醤油をくれて嬉しいです。なので、責めないであげてください。アイザックくん、ありがとう」


 ニコルが本当に嬉しそうな笑顔をアイザックに向けた。

 その目には薄っすらと嬉し涙まで滲んでいた。

 元々、ニコルには何か特別なものを感じている。

 そこに好みのタイプではないとはいえ、年頃の女の子のあどけない笑顔を見せられてしまっては、アイザックも心を動かされてしまった。

 急に胸の高鳴りが大きくなり始める。


(くそっ、落ち着け。こいつはニコルだ。ニコルなんだぞ)


「喜んでいただけたようで何よりです。気をつけてお帰りください」


 アイザックは逃げるように去っていった。

 ニコルの笑顔を見続けていると、心が落ちつかないからだ。


「あっ、アイザック。もう……」


 ニコルへの冷たい態度に、ルシアが何かを言いたそうにしていた。

 だが、もう行ってしまったので言えない。

 ダメな息子の代わりに、ニコルへのフォローを入れようとする。


「ニコルさん。アイザックに遠慮する事はないのよ。代わりの物を何か用意させるわ」

「いえ、醤油でいいんです。アイザックくんから初めてもらったプレゼントが醤油でよかったと本当に思っています」


 ニコルは嬉しそうに壺を抱き締める。

 その姿を見て「プレゼントに醤油なんて……。あの子のセンスのなさは私のせいだわ」と、ルシアが罪悪感を覚えていた。




 アイザックは部屋に戻ると、先ほどの事を考え始める。


(あんなに嬉しそうに醤油を受け取るなんて……。そうか、キャバ嬢だ!)


 前世で働いていた店の店長は、給料をつぎ込むほどキャバクラが好きだった。


『気持ち程度のプレゼントでも本当に嬉しそうに受け取ってくれてさ。またプレゼントしたくなるんだよね』


 そう語っていた事を思い出す。

 恋人なら「〇〇の方がよかった」や「こんなものを買うなら、結婚後の事を考えて買わなくてよかった」とプレゼントしても喜ばれない事がある。

 だが、キャバ嬢ならよほど変な物でもない限り、笑顔で受け取ってくれるそうだ。


 ――無条件に受け入れてくれる。


 その事が嬉しくなって、またプレゼントしたくなるらしい。


 ニコルも同じ事。

 なんといっても魔性の女だ。

 アイザックから新しいプレゼントを引き出すために、醤油という嬉しくないものでも喜んで受け取ったのだろう。


(まったく、とんでもねぇ悪女だよ。プレゼントを貰うための方法を自然と身に着けてやがる……)


 あんな風に喜ばれたら「今度は味噌も」とプレゼントしてしまいそうだった。

 だが、この世界の人間に醤油が好まれない事をアイザックは知っている。

 それだけではなく、ニコルは醤油をまだ口にしていない。

 美味しいかどうかもわからないものを貰って、本気で喜ぶ理由など一つだけだ。


 ――これをきっかけにして、アイザックを食い物にしようとしている。


 その事に気付くと、アイザックの背中に冷や汗が流れる。


(あぶねぇ。俺が前世の記憶持ちじゃなけりゃあ、あっさり攻略されてたところだ。主役補正半端ねぇ。いや、まぁ確かに胸はよかったけどさ)


 主役だけあってか、胸はそれなりに育っていた。

 来年にはこの世界の女性の平均か、それよりもちょっと大きいくらいに育っているだろう。

 キツネ目でさえなければ、第二夫人や第三夫人として考えてもいいと思っていたはずだ。


(いやいや、ニコルなんてどうでもいい。パメラの事を考えよう)


 アイザックは、意識してニコルの事を忘れようとしていた。

 そのためには、他の女性の事を考えた方がいい。


(胸の大きさでいえば、パメラの方がニコルより大きかった……はずだ)


 パッケージを十四年も前に見ただけなので、作中の成長した姿はおぼろげになっている。

 だが、それでも何となく思い出せそうだった。

 どんな体型をしていたかを思い出そうと頭をフル回転する。

 必死に悩んで思い出したのは――パメラではなくジュディスだった。


(やっぱり、ジュディスが一番でかいよなぁ……。さすがに見た目で何カップとかはわからないけど、キャラの中じゃあダントツだった。あっ! もしかして、ブラジャーを着けたらヤバイんじゃないか?)


 ――寄せて上げるブラ。


 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

 ジュディスがブラジャーを装着する事によって、どんな変化が起きるのか。


(なんだ、たまにはニコルも良い事をするじゃないか)


 アイザックは、フフフと含み笑いをする。

 学生になった時、成長したパメラやジュディスに会うのが楽しみだ。

 ニコル以外の女の子達の事を考える事によって、動揺させられた心は落ち着いていった。



 ----------



 同時刻。

 ジャックがフィリップに、アイザックとの対談の結果を報告していた。


「――というわけで、ローランドがフレッドの影響を受けないよう気を付けているという事を話しておいた」

「すまんな、助かる」


 フィリップが気にしていたのは「アイザックがローランドを危ぶんで始末しないか」という事だった。

 安全第一に考えていると伝えてくれたのは大助かりだった。


「だが……」

「なんだ、問題があったのか?」


 言い淀むジャックの雰囲気に、フィリップは嫌な予感がした。


「俺が馬鹿のフリをしている事を見抜かれた」

「なんだと!」


 ジャックはフィリップのために馬鹿のフリをしている。

 そうする事で、周囲の者達の思考を誘導しているのだ。

 今のところ、誰かにその事を気付かれた事はない。


「なぜ見破られた?」

「アイザックの前だったから、緊張して演技が過剰になっていたんだと思う。チョコレートソースをステーキに掛けても美味しいんじゃないかと言ったところ『カニンガム男爵、あなたはとても賢い方のようですね』と言われたんだ」

「むぅ……」


 どう考えても「賢い」と言える場面ではない。

 チョコレートソースをステーキに掛けるなど、子供でもやらないような馬鹿げた発想だ。

 そうなると、ジャックの発言を切っ掛けにして何かに気付いたと考える方が自然だった。


「馬鹿のフリをしている事はわかっても、賢いというところまでわかるのか?」

「相手はアイザック・ウェルロッドだぞ。俺達に理解できない領域で物事を考えているんだろう」


 ジャックは苦々しく、吐き捨てるように言った。

 馬鹿ではない・・・・・・というのと、賢い・・という事はイコールではない。

 ジャックの事を頭が悪くないではなく、頭が良いと判断したアイザックの思考が理解できない。

 若くして、ジュードのような知の高みにたどり着いているようだ。


「しかも、部下にならないか誘われた」

「なんだと! それでどう答えた?」

「もちろん断ったさ。だが『ウィルメンテ侯爵家を去る必要はないから』と言われて、もう一度誘われたな」

「……あちらも本気というわけか」

「ああ」


 今のアイザックなら、ジャックを力で自分の部下にする事は可能だろう。

 だが、それをしなかった。

 推測できる理由は「本気でジャックを部下にしようと考えていたから」というものだった。

 権力で強引に部下にしても、本気で働いてくれなくなってしまう。

 最初はウィルメンテ侯爵家に関係のない仕事を任せつつ、アイザックから離れられないしがらみができるまで待つつもりだったのだろうと思われる。


「それだけじゃないな。ウィルメンテ侯爵家に残す事で、何かをする足掛かりにしようと考えていたのかもしれない」 

「クソガキがっ! ブリストル伯爵の件で『大人しくなったものだ』と思っていたが、あれは表向きだけのパフォーマンスか! 本質は何も変わってない!」


 フィリップはテーブルに拳を叩きつける。

 まさか、このタイミングでアイザックに仕掛けられるとは思っていなかった事への苛立ち。

 それと、ブリストル伯爵の一件でアイザックが見せた理性的な姿。

 それにあっさり騙された自分の不甲斐なさに腹が立ったからだ。


「落ち着け。おそらく、メリンダとネイサンの事があったから警戒しているだけだ。本格的に仕掛けてくるつもりなら俺をそのまま帰したりはしないだろう」

「そうかもしれんがなぁ……」


 ジャックの言葉は慰めにならない。

 それはそれで、ローランドの育て方に失敗すればウィルメンテ侯爵家が狙われるという事だ。

 子供がどう育つかなど時間が経たねばわからない。

 ローランドが成長するまで、心が休まる暇がないという事だった。


「あの小僧が何を考えているのか教えてくれるというのなら、我が家の財産を半分渡してもいいとすら思えるな」


 フィリップは力のなくなった目で虚空を見つめる。

 戦場でなら勝つ自信はあるが、政争ではアイザックに勝てる気がしなかった。

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