白昼夢  神の愛した男

 音楽が流れている。妙なる調べが幾重にも幾重にも重なって、水の波紋の形をした羽が折り重なるように、空から降ってくる。


―――彼等は主の栄光。私達の神の威光を見る。弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。心騒ぐ者達に言え。

―――「強くあれ、恐れるな。見よ、貴方方の神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、貴方方を救われる。」

 ―――その時、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳は開けられる。


―――その時、足萎えは鹿のように跳ね、唖の舌は喜び歌う!


私は自分の身体を見た。真っ直ぐに伸びているが、太股を持ち上げると、太股の途中から不自然に脚が垂れ下がる。私の脚は、不完全なままだ。

「………ははっ。」

 聞いて呆れる。あの歌は嘘だ。私の脚は、萎えたまま。骨は足りないままだ。

 あの時、本当に僅かな時間、私は自覚も無かったが、自立歩行が出来ていた。だが、それは幻だった。あの時私の身体の中には確かに、私の霊があったが、福銭ふくせんに罰を下すために、神が文字通り、一時的に操っていたに過ぎない。私の願いが叶えられたわけではなかったのだ。

 つまりは、あの預言者の詩は、私が生涯、心の支えにしていた聖書の言葉は、嘘だった。神の言葉は嘘だった。私の脚は、萎えたまま、神に摘ままれ、引き摺られていただけに過ぎなかったのだから。なんという酷い嘘だ。

 嘘だから、弟は、私の脚を治さなかった。神である弟は、曲がりなりにも血の繋がった兄である私の脚を治さなかった。それが全てだからだ。

「キビ兄ー! キビ兄ー! どこー?」

 ふと後ろから、懐かしい声が聞こえていきた。私は恨み言を言ってやりたい気持ちになって、立ち上がろうとした。―――が、添え木も杖もなかったので、立ち上がることが出来なかった。私は片足で身体を回転させ、声の主を探す。しかし見当たらない。見渡す限りの、刈り取った麦畑だ。余程慈悲深い地主なのか、落ち穂で麦畑はふかふかになっている。そんな中、ひこばえの声が聞こえるのに、姿は見えない。念のため前の方も良く見たが、全方位にどこにもいなかった。もしかして、天を飛んでいるのか、と、空を見ると、真っ白な雲に覆われた、青空よりも心地よい、雪のように白い空が拡がっている。いるとしたら、あの空の向こうだろうか。

「ここだよ!」

「あ! キビ兄いたー!」

 私が天に向かって手を振ると、真後ろから抱きつかれた。体勢が保てなくて、麦畑の上に倒れ込む。

 ひこばえは、あの扉を閉ざした家に現れたときと同じ姿だった。私に抱きつく腕の手首には貫通した穴があり、腕にまで及んだ傷の痕が残っている。復活した後、ひこばえに、どうしてその傷を全て治さなかったのかと問うた。あの時蘖ひこばえは、何と言ったのだっけか。

「ふっふっふ………。ヒコ~?」

「うん? ―――むぁっ!」

 私は身体を捩り、ぐいっと口の端を摘まんで引っ張った。もう自分が死んでいる自覚はあるから、こんなことが出来る。『キビ兄』と呼ばれているのだから、今蘖ひこばえは、メシアひこばえさまではなく、ヒコと呼ぶべきだ。

「脚萎えの後ろから抱きつくたぁ、メシアさまになって気遣いも忘れたか? アァン?」

「いひゃいいひゃい!」

「………ぷっ、あはは。」

 私はひこばえの兄だったし、ひこばえよりも後に死んだ。だから私がひこばえよりも年上ということは当たり前で、珍しくもない。だが、それでも何故だかこの時は、私は、『年を取ったな』『幼いままだな』と思った。ひこばえが三十三歳の時から変わってないことが、懐かしいのと同時に、嬉しくもあり―――。

 そして。

「もー、キビ兄はそうやってボクを子供扱いして!」

「ハン、兄貴から見りゃ、弟はいつだって子供だよ」

「ま、いいや。もう準備が出来てるんだ。行こ。」

「準備? なんの?」

「宴だよ! 婚礼の宴が始まるんだ! 神の国に花嫁達が集まってきている。キビ兄で最後だよ! もう皆いるよ」

「ほいほい、んじゃ、行きましょうかね。」

 そう言ってひこばえは、私の隣にしゃがみ込んだ。婚礼に招かれているというその言葉を聞いたとき、ほんの少しだけ希望を持った。というよりも、希望を思い出したのだ。私は持っている膝を折り曲げ、そこを起点として立ち上がろうとした。

だが、私の骨の足りない脚は太股の真ん中で折れ曲がり、私はよろけた。

「わ、大丈夫? 無理しないでボクの―――」

もう今の私には、守るべき教団も家族もいない。否、家族など初めから守れやしなかった。家族など授かりはしなかった。

「ひ、こ―――ひこばえェェェッッ!!」

 ならばもう知ったことか。ここまで積み上げてきた信仰も美徳もかなぐり捨てて、私はひこばえの喉に手を伸ばし、横薙ぎに引き倒し、その上に跨がった。片脚しか動かせない私が、誰かを攻撃するときは、こうやってのしかかるしかない。『のしかかる』という体勢に対する嫌悪感は未だ変わらなかったが、その不満すらも全て怒りに変わった。

 そう、怒りだ。私はひこばえを愛していたし、信じていた。信仰もしていた。だが、ひこばえは裏切った。ひこばえは澹仰に裏切られたのではない。私達家族を裏切ったのだ。

「なんで救わなかった、まず始めにお前の兄を!!! どうして守らなかった、お前の家族を!!!」

「痛いっ!」

「痛いだァ? おいら達の方がずっと辛かった!! どうして瞻仰せんぎょうを救わなかった!! お前と一番長くいた、お前の兄なのに!! どうして何度も教団の中での姦通を見逃した? どうして諫めてやらなかった!? 何故嗣跟つぐくびすを赦した!!! お前の兄を辱めたのに、お前の兄を犯したのに!!!」

 何故、何故、何故。

「どうしてそそぐに光をやらなかった! なんできんに空を見せなかった! なんでけいを悪霊から救い出さなかった! そうしたら皆、今頃お前の教団を支えてやれたのに!! どうして救わなかったんだ、血の繋がった家族なのに!! どうして見殺しにしたんだ、おいら達は同じ家系から産まれたのに!!」

 違う、こんなことが言いたいのではない。私が、私が本当に言いたかったのは、こんなことではない。

 こんな、美しい恨み言ではない。

「同じ家系から出たの出てないのって、関係あるの?」

「ッ!」

 バキッ、と、物凄い音がした。ぷっとひこばえの口から、何か小さな塊が飛び出す。

 私の弟は、皆殺された。そそぐは家族のために金を盗んで濡れ衣を着せ、その恨みで内臓を踏みつぶされて殺された。

けいは父と一緒に石塚にされた。終わりの日に復活するための肉体は、鳥獣に食い荒らされて、骨も残らなかった。血の一滴に至るまで、まるで初めからいなかったかのように。

死にこそしなかったが、まさは幼少時代には私と井戸に叩き落とされ、成人してからは替え玉にされた。かずも皮膚病を患っているのに、塩水をかけられた。どれもこれも、穢れさえなければ、必要のない出来事だった。

唯一なんとか生き残ったきんも、傴を治して貰える事は無く、ナザレ派の中で常に陰口を言われ続けた。それをひこばえが諫めることはなかった。まるで黙認しているかのように。きんは死ぬとき、私にすら看取られなかった。きんは寂しく、教団の片隅で、心労で死んだ。誰もが手を下すことなく、きんを殺した。自分達が崇めている男の弟でも、首が曲がっているという穢れが聖なる教団にいることは許されなかった。穢れを持っていた者は多くいたが、皆蘖ひこばえに癒やされていたからだ。癒やされていなかったのは、血の繋がった兄弟だけだ。

 ひこばえは、乞食には優しかった。だが自分の弟が乞食になったとき、そして家族のために悪事に染めたとき、ついには殺されるその瞬間に至るまで、彼を顧みることはなかった。

 ひこばえは、悪霊憑きには優しかった。何人もの子供から悪霊を払い、その殆どを弟子にした。だが自分の弟が自分の父親と狂っていくのを見過ごし、石打の石が塚になり、その塚から動物が死体を掘り出して食い尽くすまで、放っておいた。

 ひこばえは、娼婦には優しかった。夫の欲情を掻き立てる事が出来なくなり、捨てられて乞食になるしかなかった女達を祝福し、同じ食卓について家族にした。だが―――自分を一番守ってくれた家族は、祝福しなかった。だからあんな酷い死に方をさせた。

 だが、そんなことは二の次だ。そうとも、今ここに、ひこばえと私しかいない。なら私は、今しか言えない。もう一度顔を殴って、私は叫んだ。

「どうしておいらの脚を治してくれなかった!! おいらは家族じゃないか!!!」

 脚さえあれば、と何度思っただろう。

 井戸の中にまさと突き落とされて、犯人が分からなかったとき。ひこばえの弟子と認められず、群衆から突き飛ばされても立ち上がれなかったことなど、いちいち記憶している事の程でもないが、かといって看過できるような苦痛でもない。。

 ―――そして、手を縛られ、大切な兄から託された妻が、再び犯され孕む所を、息子と共に見させられたとき。

 脚さえあれば、この脚さえ動けば、と、何度思っただろう。そうすれば、私に出来ることはもっとあった筈だし、私に守れたものはもっとあったはずだ。―――瞻仰せんぎょうを犯す嗣跟つぐくびすに文句は言えなくても、その様子を覗き見る弟子達を追い払うために、近づくことくらい出来たはずなのだ! 杖が必要ない身体でさえあれば!!

「人でなし! 人でなし!! 薄情者、偽善者!! お前なんか神の子じゃない!! お前の名誉の為にどれだけの人が傷ついたと思ってる!! 全能なら知っていた筈だろう、神なんだから!!」

「うん、知っていたよ。」

 なんの悪びれもなく、ひこばえはそう言った。私はカッとなって、嘘だ、嘘だ、と、顔を殴り続けた。

「知っていたなら癒やさない筈がない! おいら達を愛してくれるはずだ!! 血が繋がっているんだから!!」

「痛い痛いっ!」

「お前はイスラエル人を救ってから異邦人を救うと言った。じゃあおいら達はイスラエル人じゃないっていうのか!? お前の父親と同じ家から出た、遠縁のおいら達は、穢れを持って生まれたおいら達は異邦人以下だっていうのか!? そんなはずはないよなぁ!? だってお前は、奇跡を起こして見せたんだから!」

「痛いよ痛いっ!」

 そう、ひこばえは奇跡を起こした。多くの脚萎えを癒やし、中風の男でさえも軽やかに歩かせて見せた。だが、私の脚は治してくれなかった。

「なんでだよ!! どうしておいらの脚を治してくれなかったんだ!! どうしておいらに、家族を守らせてくれなかったんだ!」

 するとひこばえは、だって、と言って、衝撃的な言葉を発した。

「だって、キビ兄の脚の骨が足りてても足りてなくても、同じだし。」

「………は………?」

 今、こいつは何と言った。

 いま、こいつはなんといった。

「ほら、降りて。そうじゃないと、キビ兄を背負えないよ。」

「ば、ば…っ!」

 馬鹿にするな、と、罵ってやりたかった。いい年して弟に負ぶられるなんて出来るものか、と。しかしひこばえは、よいしょ、と、起き上がり、腹の上にのしかかっている私に手を伸ばして、私の頬に触れる。ズキッと痛んだ。殉教したときの傷が残っていたのだろうか。ひこばえは構わず、一つ一つ指先で撫でて、傷を塞いで、腫れを引かせていった、

「ほら、主賓がブサイクじゃ駄目だよ。早く婚礼に行こう?」

「………杖がなくて、歩けないから行けない。」

「要らないよ、ボクが負ぶるから。」

「………骨が、お前と再会した今だって増えてない。歩けない穢れた者が、婚礼に行けるもんか。」

「なんで?」

 私はそれには答えず、ギロッと睨み付けた。

「だって、キビ兄の骨の数は、それで全部じゃない。穢れも何もあるもんか、それで完璧なんだから。」

「………。」

 呆れてものも言えない。なら、完璧な世界に私達をめばよかったのだ。穢れを穢れと見つめない世界に、私達を創めばよかったのだ。それならば私は、ここまでひこばえの兄であることを侮辱されることもなかった。弟たちだって、死なずに済んだのだ。妹たちだって、人並みに結婚出来たはずなのだ。

 それに私は、今この場に来たから、知っている事だが、父の家は絶える。私は子供を残せなかった。若枝わかえが産んだのは私の子ではなかった。そして、その子ども達は、誰も娶る事が出来なかった。

 ひこばえの血族であることより、穢れの血族に連なる事の方が、忌まわしかったからだ。

 かずも、婚姻を何度も取り持ったが、結局どこにも嫁がせてやれなかった。当たり前だ。メシアさえも見放すほどの穢れを持っているのだ。恐ろしくて自分の家系には入れられない。例え大王の子孫であったとしても、大王の子孫なんていうのは、イスラエル中にごまんといるのだ。

 ひこばえは、否、メシアひこばえさまは、沢山の穢れと友になり、家族になった。

 だが、私達家族の、誰が幸せにして貰えただろうか。母の信仰と主張を受け入れた寛大な父に、何故あんな死なせ方をしたのか。自ら進んで殺されに行くのは百歩譲っていいとして、何故それを母に見せたのか。何故それによって、瞻仰せんぎょうと澹仰の混同が起こることに対策をとってやらなかった。何故瞻仰せんぎょうを男として死なせてやらなかった。

 ―――何故おいらを、人間にしてくれなかったんだッ!

「もー、しょうがないなあ。よっこらせ。」

「うわぁ!」

 強引にひこばえが起き上がる。私は片足にしか力が入らず、転がり落ちた。もう一度罵ってやろうとしたが、ひこばえが強引に、私を背負った。ぶらぶらと揺れる右足も、きちんと骨のある左足も、しっかりとひこばえの腕と胴体の隙間に入っている。

 そして同時に、ひこばえの心臓の音が聞こえてきた。

 速い。物凄く早く、そして強い。何に、とまでは考えられないが、『今にも張り裂けそう』という言葉が、ぴったりのような。

「………ヒコ。」

「なぁに? キビ兄。」

「お前、それ。苦しくないのか?」

「苦しいけど、平気だよ。」

「………なんで。ああは言ったけど、おいらだって兄ちゃんなんだぞ。弟が苦しむのは見たくない。」

「そうだね。でも、ほら。普通の人は、ボクがいつもこうしていることに気付かないから。」

 慣れっこだよ、と、ひこばえは言外に言った。

「こう、っていうのは………。」

「もちろん、今キビ兄にやってるようなことだよ。十字架が終わっても、なんだったら産まれる前から十字架で死ぬ直前まで、ボクこういう生活してるの。」

 その言葉を聞いて、私は漸く分かった。

 私の身体は、生まれつき不完全だったのではない。神を身体の一部にしている時点で、既に完璧だったのだ。私は片足の骨がなかった。見せかけだけの、左足だった。だからひこばえは、常に私を背負って、私の人生を代わりに、そして共に歩んでいた。それに私が気付かず、先ほどのように罵っても暴力を奮っても、私に反論しなかった。それは自傷行為だからだ。

「………なあ、ヒコ。」

「なぁに? キビ兄。」

「それでもおいら、歩いてみたい。」

 ひこばえの生前でも届かなかった願い。否、『癒やして下さい』とさえ言えなかった願いを、口に出してみた。するとひこばえは立ち止まって、振り向いた。その顔は笑っている。

「うん、いいよ。一緒に歩こう。」

 ひこばえが腰を下ろし、私の脚を手放す。怖くてひこばえの肩に掴まりながら、脚に力を入れた。

 立っている。私は立っている。杖も無いのに。両手が、塞がっていない。

私は、遂に自分で立つことが出来たのだ。骨が足りているか足りていないかではなく、私はただ、立っていた。

「せっかくだから、かけっこしたり、踊ったりしながら行く? どうせ婚礼でも踊ると思うけど。」

「………いや、いい。それより、ヒコ、手を繋いでくれないか? 一緒に歩きたい。」

「勿論だよ。」

 ひこばえが右手を差し出したので、私は左手を差し出した。いつも持っていたものがない。私の杖は、もう必要ない。私の右手は、自由になっている。脚が動くことで、右手が自由になるというのは、なんともちぐはぐな感じだ。論理的に、とか、常識的に、とかではなく、杖があって当たり前だった私には、そもそも両脚が動く歩き方というのが分からないので、両手が自由になるという感覚が、いざ自分の身に起こると、意外と変な気分だ。

 神に自分の人生を任せるのは簡単だ。ただ共に負ぶわれているだけで良いのだから。だが神と共に手を繋げば、私は別の誰かの、身体の一部になれる。そしてその誰かは、私を通して、神と手を繋いで歩いて行き、その誰かも、更に別の誰かの手を取る。背負うことは不可能だ、神ではないのだから。だから、手と手を繋いだ枝は、葡萄の枝のように伸びていき、その腕と腕の間にある私達の心には、神の言葉と安らぎという葡萄の実が成る。そうやって、切り倒された切株に生えたひこばえは、巨大な一本の葡萄の樹になる。

ずっと重荷でしかなかった、『穢れを持った、神の家族』という私の肩書き。だがそれも最早ない。神に身体を全て預けるのではなく、神と共に歩んでいるからだ。

 そうとも、この自由な右手があれば、誰かを救うことは出来なくても、誰かの手を、今蘖ひこばえがしてくれているように、繋ぐことは出来るのだ。

「なあ、ヒコ。」

「なぁに? キビ兄。」

瞻仰せんぎょうと父さんが愛し合ってたって、知ってたか? 心底本当に、あの二人の情交は綺麗だったよ。その後のどんな交わりも瞻仰せんぎょうは苦しそうだった。おまけにおいらは不能になったけど。」

「うん、知ってた。」

瞻仰せんぎょうは、父さんと一緒になるのか? それともお前は、お互いから相手を奪って花嫁にするのか?」

「え? なんでそうなるの? ボク言ったよ。『神の国では、嫁ぐことも、娶ることもない』って。」

 それから私は、あのクソはどうなのか、あの哀れな子はどうなのか、と、色々と質問した。ひこばえは、一つ一つ丁寧に答えてくれた。もしかしたら、母が天使に懐妊を告げられたときよりも、細かく多く、質問していたかも知れない。そして、全ての疑問が解消されたとき、私は天の宮殿に辿り着いた。


「遅いぞ、きびす!」

「遅いよー!」

「おそーい!」

「おそいー」

「おかえりー」

「待ってたのよ!」

「おかえり、きびす。お疲れ様。」

きびす、ぼくが死んだ後、苦労をさせたね。ありがとう。今こそ報われるときだ。」

きびすさま、準備が始まってますよ。」

「お父さん!」

「おとうさーん!」


 ああ、我が兄、我が弟妹、そして真実私を愛してくれた我が父母。そして、私が夫となり、父となった者達。生前は聞いたことのなかったまともな言葉を喋る者もいた。

 瞻仰せんぎょう、雪、まさけいきんかず、母、父。そして、若枝わかえ、息子の継蘖けいげつ瞻仰せんぎょう、。全て、報われていた。健康であるか、年を重ねているかではなく、彼等は皆、幸せそうに笑っているのだ。どんなに苦しいことがあったとしても、幸せそうに笑える、それが全てではないか。

 私は、幸せというものの脆さと難しさを、知っているから、そう言える。

 そこには、ひこばえでは無く、私を中心とした葡萄の樹が出来上がっていて、神の微笑みが光となって降り注いでいたのだ。


 今なら、ここなら言える。胸を張って言える。先だったものたち全てに言える。生前、人の眼を恐れ、迫害を恐れ言えなかった言葉だ。

 我が名はきびすあくの頭を踏み砕き、信仰の歩みを助ける者。神の愛した男である。



神の愛した男 【完】


【異聞Ⅰ】

 『神を愛した男(少年篇)―我が愛しの弟』 『神が愛した男(青年篇)―我が愛しの子羊』


【異聞Ⅱ】

 『神が愛した男(少年篇)―麗しきは神の子ら』『神が愛した男(青年篇)―麗しきは神の母』

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