第二十八節 最期の夜
そんな時だった。
「それを証明する事は出来ません。私は二度も、姦通の子供を産みました。その子を、貴方の子と偽って、臨終の父に面会させました。私は汚れていないと嘘を吐きました。それでも、また貴方の妻にしてくださいますか。貴方を支えるようにという、父の願いのために、貴方の妻になってもいいですか。」
時に、私は五十四歳。エルサレムの司教になって、十八年が経とうとしていた。
それは、
嘗て、とても美しい男がいた。心が清らかで、余りにも神聖なので、多くの男達が悪霊に魂を売り渡し、その男をモノにしようとした。男は何に遭っても、神を愛する心を忘れなかった。そしてその男は、男性器が無かった。男性器が無くても、イスラエル人として立派に生き、迫害され、そして殉教した。男も女も関係ない、神の前には、神を愛する心だけがある。今までのように、男に怯え、男からの離縁に怯える生活は、メシア
正直言って、私は兄に男性器が無かったことなど知らなかった。だがそういえば、私の性器を触って病気がないかどうか確認できた。兄が男性器を失った理由は分からない。だが、
十八年間、常にエルサレムの霊的長で、実質上の長でなければと、気を張っていた。役立たず、血筋の七光りと言われても耐え続け、祈られても効果が無かったという八つ当たりも甘んじて受けて、走って走って、走り続けた。取りこぼしたものを振り返りながら、歩みのように遅くても、只管走った。
もう、十分だ、と、言われた気がした。
もう、育った、と。
十二弟子達も、随分と減った。もう私と
「
さて、一月後。随分年老いた
「
「そうだろう、息子だからね。」
「着いて早々申し訳ないんだが、君に懺悔したいことがあるんだ。どこか、人が来ない所に連れて行ってくれないか。」
「さて、なんなんだい、懺悔とは大袈裟な。」
「
「ウチの息子の?」
「いいや、十二弟子の方だ。」
「ああ、兄さんの方。」
「まだメシア
「いいや、裁かないよ。お前を赦す、
寸暇を与えず、私が答えたので、
「何故………。私は、あんなに酷い事を―――。」
「知っていたよ、
「何故、知っていたのです。」
「信じられないかも知れないけれど、夢を見たんだよ。それこそ、
救われたのは、私の方だ。誰か一人でも、
「メシア
「おお、勿論だとも。毎日でも王宮のような晩餐会をしよう。」
それは剛胆だ、と、笑おうとしたとき、階下で悲鳴が聞こえた。途端に、私の身体が凍り付く。否や、
「どうした!?」
杖を持って、階段を降りると、
「な、何者です!」
「お前が
「妻です!」
「会堂で、女達をたきつけているのはお前か! 男に刃向かえと言っているのはお前か!」
こんな光景は、かつて見たことがある。私の苦しい記憶だ。だが、
具体的に思い出す前に、身体が動いた。いつも持っている歩行用の杖とは違う、護身用の棒を構えて、暴漢の腕を叩き折った。
「何の用かは知らないが、今帰るなら不問にする。誰か一人、指一本でも触れたなら、お前達は永遠にエルサレムの呪いを受けるぞ!」
大柄な男が、仰々しくお辞儀をした。
「部下が突然無粋な真似をして申し訳ございません。しかし
「………。」
私は三人に目配せをして、二階に上がらせた。
「何故こんな真似をした?」
すると、彼等は先ほどまでの横柄な態度はどこへやら、跪いて言った。
「
「お前………。お前ェェェェ!!!」
確証は無かった。だが、疑いも無かった。こいつが、こいつらが、二十年前、
「生きていたのか!! 生きていたのか、この人間の屑め!!」
「お、お止めください!
「お前のせいで妻がどれだけ苦しんだと思っている!! お前のせいで私の弟と妹は死んだ!! お前達が塩を撒いたせいで、妹は全身の皮膚が死んで死んだ! 弟はそれが引き金になって心労で胸が裂けた!! お前が、お前達のその考えが! まだ生きていたのか!! ここで殺してやる!!」
「お待ちください! 塩とは何のことですか! 私どもは初めてここへ、」
「忘れるものか、忘れるものか、その口上、理屈、敵意! あの時の私は甘かった。今ここで、私は私の妻と子のために、メシア
「お、お止めください! 誤解、誤解です! 私達はメシア
私は棒で打ち据えて、動けなくした後、杖を手放し、思い切りその後頭部に棒を振り下ろした。自分の脚が浮かぶほどに振り下ろした。棒は折れなかったが、男の頭は割れ、血を吹いて動かなくなった。
「噂は本当だった!
「あの女が元凶だ、祭司の孫娘でありながら、母親を娼婦にしたあの悪魔!」
「殺せ! 殺せ! 殺してしまえ、神の真理のために!!」
「やってみろ、私がその前に殺してやる!」
「駄目だ、
しかし、二階から
「
「ごめん、ごめんよ、
「
「お父さん!!」
三人の声で、何とか意識を保つ。
「取れた! お母さん!」
「
「………大丈夫だ、医者を、呼ぶほどでもない。それより………。下へ、行くな。」
私は浅い呼吸を繰り返しながら、
縄を、縄を、切ってやらなければ。
私は腹の短剣を抜き、息子たちの縄を切る。途端に、血が噴き出した。
急所は狙っていなかった。だが、軽症な場所でもなかったようだ。私は腹を押さえて蹲る。二人の息子が上着を脱いで、私の腹の傷に押し当てた。泣いている。可哀相に。
「お父さん、くすり、薬はどこ!? 迫害された人達にあげた薬! どこにあるの! ねえ!」
「ここに一言、『女は男に仕え、男を立てろ』と、
私が立ち上がろうとすると、それを抑えて
「それを煽動しているのは、私です。何故夫を狙ったのですか。」
「女がしゃしゃり出てくるな!」
「お母さん!」
ドンッと
「さあ、書いてください。これらの手紙は、テサロニケやコリント、アンティオキア、ローマにも送ります。これで秩序は護られます。」
「………。」
二十年前の私なら、即答して断っていた。だが今は、状況が違う。
その彼等に、傷をつける訳にはいかない。こんな所で家族全員で殺される訳にはいかない。
私が筆を受け取ろうとした時だった。
「駄目です!!!」
「メシア
「このズベが、そんなに殺されたいか!」
「殺すのなら殺しなさい、メシア
「殺すより惨い目に遭いたいか!」
その言葉に、私が反応するよりも、
「まあ! こんな三十代の年増でも犯したいと? 随分と自制心のない教団のご出身なのねえェ!」
「―――来い、新入り!!!」
ぞろぞろとやってくる男達。
「やめ―――ガフッ!」
激しく血を吐いて咳き込む。後頭部が、ぶつんぶつんと弾けるような音がする。いつの間にそんなに血が出ていたのか、私は堪えきれず、腹を押さえたまま前のめりに倒れ込んだ。
「へ、へい、兄貴!」
「喜べ。お前みたいな男に犯されてもいいっていう女だ。
「そ、そんな夢みてぇな女が!?」
「ああ、そこにいる。」
「
「は、はい!」
「お母さん!」
「―――よく見ておきな―――ぐっ!」
「うっひょおぉぉぉ! サイコーだぁ!」
聞くも悍ましい歓喜の声。激しい嫌悪感に身震いする。止めようと、這いつくばる腕が震える。這いずると、傷口が裂ける。右脚を折り曲げて腹を浮かせようとすると、床に臓物が引っ張られる。
―――だが、だから、どうしたというのだ!
奮い立て。何度でも止めに入れ。
「ぬ………。ぐ………。」
「書く気になられましたか? 手紙も筆もこちらに。」
「………、ろ。」
「何か仰いましたか?」
「………ろ。」
男が苛々しながら顔を近づける。その瞬間、私は耳朶を掴み、一瞬だけ腹に力を込めて上半身を浮かせると、反対側の手で後頭部を掴み、男の顔面を床に、私の体重と腕力で、叩きつけた。一瞬で、顔面が潰れたらしく、先ほど、頭をかち割った時と同じような感覚が伝わってきて、鳥肌が立った。身の毛もよだつ感触とは、まさにこの事だ。
「いや~、このでこぼこちんこみると、婚約してても逃げ出すんだよね~、よかったなぁ、アンタみたいな女がいてくれて。メシアの弟子だもの、遊女は買えねえし~。あ~、気持ち~、ちょうどいいやぁ、メシアは性病の男にも救いを用意してくれてたんだな~。」
「………ッ!!!」
―――私達が、家族だからだッ!
「この、カタワがぁ!」
あの屑の脚を噛み砕いてやろうと伸ばした手に、剣が突き刺さる。構うものか。
あいつは、一番侮辱してはならない方を、一番私達が赦せない人で侮辱したのだ!
「なんッッッでメシアの教団に、お前みたいな穢らわしい奴がいるんだよ!! 一際ダメな十二人だったくせに!! あの裏切者の家族が!!」
男が剣を抜いた。血が噴き出し、私の顔に飛び散る。
「何で女だの包茎だのの言うこと聞かなきゃなんねェんだ! オレ達は惨めなままじゃないか!!!」
ダンッ!!!
息子達の悲鳴が聞こえる。
なんだ? 何が起こったんだ? 何故私の身体は、動かないのだ? 悲鳴が、遠、い―――。
泣き声が、聞こえる。
酷く、苦しそうで、のたうち回っている。今にも首をくくりそうだが、首をくくるための道具がない。死ぬ勇気も生きる恥もない、半端な者にしか分からない苦しみだ。
行かなくては。
「悪霊だ! 悪霊が死体に入った! 逃げろ、殺される!」
声が遠い。何を言っているのか、よく見えないので分からない。とにかく、今は
ここを上がって、扉を開けて………。何か、妙な感じもするが、今は考えるべき時ではない。
「
「―――ひぃぃぃぃぃぃ!!! あ、悪霊!!! 十二弟子にまで憑きおった!!!」
「大丈夫か? 酷い声だぞ。」
「来るなアアア! わ、私は悪くない!! メシア
「よく分からないが………。なあ、
「助けてくれええええ!! お助けください
「落ち着け
しよう、と、言いかけたが、よろめいた。あ、と、咄嗟に、すぐ近くの何かに捕まる。ところがその何かも、一緒に崩れていった。
「あれ?」
「分かりました、
「詫びたりないよ、
何のことだい、と、聞き返そうとして、身体がバラバラになるような、物凄い衝撃が正面からぶつかってきた。
だが、首は飛んでいってしまったようだった。
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