第二十八節 最期の夜

 継蘖けいげつは、耳が聴こえるようになったのが遅かったからか、言葉を覚えるのも遅かった。しかし、覚えだしたら、ぺらぺらと喋るようになった。何故三年もの間、聴こえなかったのか、分からない程に。

 若枝わかえが何も告げずにいなくなって、十年が経とうとしていた。継蘖けいげつも成人したが、私はまだ司教の座を降りる訳にはいかなかった。去年から大規模な飢饉がイスラエルとその周辺国を襲い、偽預言者ならぬ、偽メシアが次々と現れていたのだ。エルサレム司教が、メシアひこばえの兄であるということは皆知っていたので、毎日のように、自称蘖ひこばえや、自称蘖ひこばえの生まれ変わりやらが面会を求めてくる。そういう輩が落ち着くまで、私は司教から降りられなかったのである。それは、五年ほど続いた。

 そんな時だった。

 若枝わかえがオスロエネから帰って来た。行く途中で生まれたという二人目の息子には、約束通り、『瞻仰せんぎょう』と名付け、私の兄の方の瞻仰せんぎょうの養子とした。最も―――その瞻仰せんぎょうも、この子を幼い頃のひこばえと間違えたまま、身体を腐らせて死んだのだという。若枝わかえはその時、瞻仰せんぎょうに、『神授の娘になれ』と言われたらしいが、神授は瞻仰せんぎょうの死後、それは若枝わかえに任せる、と言った。当然若枝わかえは、瞻仰せんぎょうの娘のままが良いと言ったので、神授は快諾し、オスロエネを巡る宣教の旅に出たという。

 若枝わかえは、僅かな間オスロエネを指導し、瞻仰せんぎょうの弔いをした後、エルサレムに戻ろうとしたのだが、乳飲み子を抱えての陸路は非常に困難で、帰ってくるのに三年もかかったのだと言った。

「それを証明する事は出来ません。私は二度も、姦通の子供を産みました。その子を、貴方の子と偽って、臨終の父に面会させました。私は汚れていないと嘘を吐きました。それでも、また貴方の妻にしてくださいますか。貴方を支えるようにという、父の願いのために、貴方の妻になってもいいですか。」

 若枝わかえが、寡のようにそういうので、私は次男ごと抱きしめて、勿論だ、と、繰り返した。おかえり、とも。

 継蘖けいげつも幼心に、母親のことは覚えていたようで、三つ離れた弟の瞻仰せんぎょうとはすぐに仲良くなった。

 時に、私は五十四歳。エルサレムの司教になって、十八年が経とうとしていた。


 若枝わかえはまだ産めるのかもしれないが、私はもう自分の子供は諦めていた。若枝わかえの事を思うと、とてもじゃないが、妻にすることなど出来ない。若枝わかえの忠節と敬愛が私に向いているのだから、それで私は満足だった。それに、もう一つ、若枝わかえには大切な使命があった。

 それは、瞻仰せんぎょうのことを宣べ伝えることだ。

 嘗て、とても美しい男がいた。心が清らかで、余りにも神聖なので、多くの男達が悪霊に魂を売り渡し、その男をモノにしようとした。男は何に遭っても、神を愛する心を忘れなかった。そしてその男は、男性器が無かった。男性器が無くても、イスラエル人として立派に生き、迫害され、そして殉教した。男も女も関係ない、神の前には、神を愛する心だけがある。今までのように、男に怯え、男からの離縁に怯える生活は、メシアひこばえの到来によって無くなった。それを理解し、今こそ『人間』になろう、メシアひこばえの教えを思いだそう―――。若枝わかえは、そう主張し、私と会堂に出かけ、二番手に説教をするようになった。聴衆は女達で溢れ、メシアひこばえの再来は、まるで若枝わかえによって起こっているようだった。

 正直言って、私は兄に男性器が無かったことなど知らなかった。だがそういえば、私の性器を触って病気がないかどうか確認できた。兄が男性器を失った理由は分からない。だが、若枝わかえは、それを『男性器のない女が、男性器のある男と同じように生きられることを示すため』と、解釈したようだった。どんな辛い病気や怪我があったのか、知る術は無い。私はそれでいいと思った。

 十八年間、常にエルサレムの霊的長で、実質上の長でなければと、気を張っていた。役立たず、血筋の七光りと言われても耐え続け、祈られても効果が無かったという八つ当たりも甘んじて受けて、走って走って、走り続けた。取りこぼしたものを振り返りながら、歩みのように遅くても、只管走った。

 もう、十分だ、と、言われた気がした。

 もう、育った、と。ひこばえ孫生ひこばえは育ち、メシアひこばえが示した愛は全て行き渡って、育っている。一人の人間が、奴隷の処刑方法で殺されてから、約二十年。今、道路も、岩も、茨の中をも、どこもすべてが、良い土壌に落ちた種で覆われている。

 十二弟子達も、随分と減った。もう私と恩啓おんけい福銭ふくせんくらいしか残っていない。皆殉教した。

きびすさま、福銭ふくせんさんが一ヶ月後くらいに、到着とのことですわ。」

 若枝わかえも、オスロエネを指導しているときに、文字を覚えたらしい。私と弟子以外に、文字の読める人間がいるのは、とても気が楽だった。私は、分かったよ、と、若枝わかえに口付けて、その日は寝た。


 さて、一月後。随分年老いた福銭ふくせんがやってきた。私達は抱擁して互いの生存を喜び、福銭ふくせんも私の息子二人を祝福してくれた。

若枝わかえにそっくりな二人だね。」

「そうだろう、息子だからね。」

「着いて早々申し訳ないんだが、君に懺悔したいことがあるんだ。どこか、人が来ない所に連れて行ってくれないか。」

 福銭ふくせんもそれなりに、沢山の教会を建立した。弟子も大勢いる。だからこそ、元同僚の私西か話せないこともあるのだろう。私は了承し、若枝わかえに許可を取って、真夜中、自宅の屋上に連れて行った。ここは、私が一人、神殿を離れ、個人的な祈りを捧げる場所でもある。

「さて、なんなんだい、懺悔とは大袈裟な。」

瞻仰せんぎょうのことだ。」

「ウチの息子の?」

「いいや、十二弟子の方だ。」

「ああ、兄さんの方。」

 福銭ふくせんは暫くの間まだ躊躇っていたが、突然おいおいと泣き出し、平伏して、懺悔を始めた。

「まだメシアひこばえさまが人間として生きておられた頃、私は教団が財政難である事を知っていた。澹仰だけが、計算が出来る訳ではなかったからだ。だが私達は、昼間、メシアひこばえさまをお守りしているのを理由に、断食や節約を嫌がった。すると、嗣跟つぐくびすが、ああ、いや、そうではない。嗣跟つぐくびすが悪いのでは内。皆悪かったのだ。だが私が聞いたのは嗣跟つぐくびすからだったのだ。嗣跟つぐくびすが、面白い体験を買わないかと言ってきたのだ。十二弟子のうち、他にも双生や武右なんかも誘われていた。正直、貴方と澹仰以外の全員に、声がかかっていたと思う。私は日々の仕事に疲れていて、その誘いに乗った。乗ってしまった。中を明けてみたら、それは仲間であるはずの瞻仰せんぎょうを嘲笑い、集団で陵辱するための集まりだった。瞻仰せんぎょうは、自分から言い出したと言った。そして、自分の身体を好きに弄ぶ代わりに、断食をしてほしいと言い出した。私は耳を疑った。信じてくれ、本当に耳を疑ったのだ。断食を擦るためだけに、身体を売ると言い出したのが、とてもとても信じられなかった。だが私は、瞻仰せんぎょうの身体に魅了されてしまった。睾丸が無く、陰茎の歪んでいる他、女よりも美しい肌や、まろい尻や星々のような長い髪が隠す、艶めかしい身体に欲情してしまった。毎夜毎夜、くじでその日の一人目が決まる。私も何度か、一人目になったことがある。瞻仰せんぎょうを、私の妻にさせた。男である瞻仰せんぎょうに、私の妻もしたことがないようなことをさせたのだ。必要ならばそれらの淫らな行いも全て白状する。この二十年間、ずっとずっと心の膿になって突き刺さっていた。必要ならここで殺してくれても構わない。短剣も保ってきている。ありのままの言葉を聞かせてくれ、きびす瞻仰せんぎょうの弟として、私を裁いてほしい。十二弟子の中でその資格があるのは、貴方だけなのだ。」

「いいや、裁かないよ。お前を赦す、福銭ふくせん。」

 寸暇を与えず、私が答えたので、福銭ふくせんは驚いて顔を上げた。

「何故………。私は、あんなに酷い事を―――。」

「知っていたよ、福銭ふくせん。だって、あの時、あの三百デナリの香油を巡って、澹仰が不正を咎められたとき、その不正を澹仰に頼み込んでいたのは、私なんだから。」

「何故、知っていたのです。」

「信じられないかも知れないけれど、夢を見たんだよ。それこそ、瞻仰せんぎょうの霊に呼ばれたのかも知れないけれどね。一度そのように疑惑を持ってしまったら、仲間達皆が、淫行三昧のように思えたよ。でも―――皆、その罪を告白すること無く、逝ってしまった。天の国に行けると、確信してね。…正直に懺悔してくれたのは、君だけだ、福銭ふくせん。だから赦す。」

 福銭ふくせんは大声で泣いた。私は福銭ふくせんを抱きしめて、静かに泣いた。

 救われたのは、私の方だ。誰か一人でも、瞻仰せんぎょうの孤独を知っている人はいないのか、ずっと探していたのだから。

「メシアひこばえは、娼婦も家族とされた。明日の説教では、神殿で暮らす少年達のことも話そう。私はここから動けないから、福銭ふくせん、君が神殿娼婦のいる国に行って、彼等と食事をしてくれるね?」

「おお、勿論だとも。毎日でも王宮のような晩餐会をしよう。」

 それは剛胆だ、と、笑おうとしたとき、階下で悲鳴が聞こえた。途端に、私の身体が凍り付く。否や、若枝わかえは美しいが、もう三十代だ。襲われるはずがない。襲われるはずが―――。

「どうした!?」

 杖を持って、階段を降りると、若枝わかえ継蘖けいげつ瞻仰せんぎょうの前に、刃物を持った男達がいた。若枝わかえは震えながら、二人の息子を背中に庇っている。

「な、何者です!」

「お前がきびす司教の婢だな!?」

「妻です!」

「会堂で、女達をたきつけているのはお前か! 男に刃向かえと言っているのはお前か!」

 こんな光景は、かつて見たことがある。私の苦しい記憶だ。だが、若枝わかえにとってはもっと苦しい記憶だ。

 具体的に思い出す前に、身体が動いた。いつも持っている歩行用の杖とは違う、護身用の棒を構えて、暴漢の腕を叩き折った。

「何の用かは知らないが、今帰るなら不問にする。誰か一人、指一本でも触れたなら、お前達は永遠にエルサレムの呪いを受けるぞ!」

 大柄な男が、仰々しくお辞儀をした。

「部下が突然無粋な真似をして申し訳ございません。しかしきびす司教、これもメシアひこばえさまを想うが故。お許し頂きたい。」

「………。」

 私は三人に目配せをして、二階に上がらせた。福銭ふくせんがその後ろを護って上っていく。私は慎重に階段を背にして、棒の先を下ろした。

「何故こんな真似をした?」

 すると、彼等は先ほどまでの横柄な態度はどこへやら、跪いて言った。

きびす司教さま、どうかイスラエル、いえ、東はインド、西はローマまでの全ての教会に、女は男に仕えるべしと手紙を送ってください。各地で女達が、やりたい放題で放蕩の限りです。男達も惑わされ、教会は乱れています。私達はその元凶を探るべく、こうして旅をして参りました。するとどうしたことでしょうか、貴方に仕える女が、発起人ではありませんか! 何故割礼の神秘を否定させるのですか、何故女の頭が男であることを忘れさせるのですか。」

「お前………。お前ェェェェ!!!」

 確証は無かった。だが、疑いも無かった。こいつが、こいつらが、二十年前、若枝わかえを二度も陵辱した奴らだ。あの偽預言者共だ!!

「生きていたのか!! 生きていたのか、この人間の屑め!!」

「お、お止めください! きびす司教、私は戦いに来たのでは―――。」

「お前のせいで妻がどれだけ苦しんだと思っている!! お前のせいで私の弟と妹は死んだ!! お前達が塩を撒いたせいで、妹は全身の皮膚が死んで死んだ! 弟はそれが引き金になって心労で胸が裂けた!! お前が、お前達のその考えが! まだ生きていたのか!! ここで殺してやる!!」

「お待ちください! 塩とは何のことですか! 私どもは初めてここへ、」

「忘れるものか、忘れるものか、その口上、理屈、敵意! あの時の私は甘かった。今ここで、私は私の妻と子のために、メシアひこばえの弟子であることを止める!! 地獄へ道連れだ、この偽預言者共!!!」

「お、お止めください! 誤解、誤解です! 私達はメシアひこばえさまの―――ふぐっ。」

 私は棒で打ち据えて、動けなくした後、杖を手放し、思い切りその後頭部に棒を振り下ろした。自分の脚が浮かぶほどに振り下ろした。棒は折れなかったが、男の頭は割れ、血を吹いて動かなくなった。

「噂は本当だった! きびす司教、貴方は悪霊に惑わされている!」

「あの女が元凶だ、祭司の孫娘でありながら、母親を娼婦にしたあの悪魔!」

「殺せ! 殺せ! 殺してしまえ、神の真理のために!!」

「やってみろ、私がその前に殺してやる!」

「駄目だ、きびす! 一度上に上がれ!!」

 しかし、二階から福銭ふくせんが呼びかけてきた。私は大きく棒を振り回し、僅かに追い払った後、大急ぎで二階に行った。こっちこっち、と、福銭ふくせんが部屋に呼んでいる。

福銭ふくせん、何か策が―――ぐぅ!?」

 福銭ふくせんの、汗の臭いがした。加齢臭だ。

 福銭ふくせんが、私の胸の下で小さくなっている。

 福銭ふくせんは、泣いている。

「ごめん、ごめんよ、きびす。―――ユダヤ人ヘブライストをまとめるためだ、妻と共に死んでくれ。」

きびすさま!!」

「お父さん!!」

 三人の声で、何とか意識を保つ。福銭ふくせんの肩を棒で叩くと、腹に刺さった短剣が少し抉れた。確かこういうのは、抜いてはいけないのだ。私は倒れて震え泣いている。恐らく本意ではなかったのだろう。実際、傷こそ深いが、腹の中心ではないし、首でも胸でもない。だが―――。

「取れた! お母さん!」

きびすさま! しっかりしてください、きびすさま!!」

「………大丈夫だ、医者を、呼ぶほどでもない。それより………。下へ、行くな。」

 私は浅い呼吸を繰り返しながら、若枝わかえの手を借り、寝床に座った。血がじわじわと滲んでくる。良く見ると、継蘖けいげつ瞻仰せんぎょうは、申し訳程度に腕を縛られていた。

 縄を、縄を、切ってやらなければ。

 私は腹の短剣を抜き、息子たちの縄を切る。途端に、血が噴き出した。

 急所は狙っていなかった。だが、軽症な場所でもなかったようだ。私は腹を押さえて蹲る。二人の息子が上着を脱いで、私の腹の傷に押し当てた。泣いている。可哀相に。

「お父さん、くすり、薬はどこ!? 迫害された人達にあげた薬! どこにあるの! ねえ!」

 継蘖けいげつが言う。私が答えようとした時、地獄の炎が歩み寄る音がした。私は無言のまま三人を後ろに移動させる。先ほど頭をかち割った男とは別の男が、これ見よがしに薬と、何故か手紙を見せながら入ってきた。

「ここに一言、『女は男に仕え、男を立てろ』と、きびすさまが一筆、書いてくだされば、薬をお渡しします。」

 私が立ち上がろうとすると、それを抑えて若枝わかえが進み出た。

「それを煽動しているのは、私です。何故夫を狙ったのですか。」

「女がしゃしゃり出てくるな!」

「お母さん!」

 ドンッと若枝わかえの腹を、男が蹴飛ばす。瞻仰せんぎょう若枝わかえの元へ飛んでいって、ひしと抱き寄せた。男は本当に、若枝わかえには興味がないらしい。犯りたい盛りの男ではないのだろう。

「さあ、書いてください。これらの手紙は、テサロニケやコリント、アンティオキア、ローマにも送ります。これで秩序は護られます。」

「………。」

 二十年前の私なら、即答して断っていた。だが今は、状況が違う。若枝わかえがその命と引き替えに、文字通り命と引き替えに産んだ息子達みらいが在る。

 その彼等に、傷をつける訳にはいかない。こんな所で家族全員で殺される訳にはいかない。

 私が筆を受け取ろうとした時だった。

「駄目です!!!」

 若枝わかえが叫んだ。思わず手が止まる。若枝わかえは咳き込みながら、立ち上がって、見据えて言った。

「メシアひこばえさまは、娼婦とも取税人とも、晩餐をしました。貴方が否定してはいけません!」

「このズベが、そんなに殺されたいか!」

「殺すのなら殺しなさい、メシアひこばえさまの教えも精神も、その程度では潰えない!」

「殺すより惨い目に遭いたいか!」

 その言葉に、私が反応するよりも、若枝わかえが嘲笑した方が早かった。

「まあ! こんな三十代の年増でも犯したいと? 随分と自制心のない教団のご出身なのねえェ!」

「―――来い、新入り!!!」

 ぞろぞろとやってくる男達。

「やめ―――ガフッ!」

 激しく血を吐いて咳き込む。後頭部が、ぶつんぶつんと弾けるような音がする。いつの間にそんなに血が出ていたのか、私は堪えきれず、腹を押さえたまま前のめりに倒れ込んだ。

「へ、へい、兄貴!」

「喜べ。お前みたいな男に犯されてもいいっていう女だ。きびす司教に書いてくださいと懇願するまで、夜が明けても犯してやれ。お前が腹上死するか、この女が発狂するか、どちらかだ。」

「そ、そんな夢みてぇな女が!?」

「ああ、そこにいる。」

 若枝わかえの身体が強張るのは隠せなかった。だが、若枝わかえは、私の遠い記憶にある母のように、微笑んで言った。

継蘖けいげつ! 瞻仰せんぎょう!」

「は、はい!」

「お母さん!」

「―――よく見ておきな―――ぐっ!」

「うっひょおぉぉぉ! サイコーだぁ!」

 聞くも悍ましい歓喜の声。激しい嫌悪感に身震いする。止めようと、這いつくばる腕が震える。這いずると、傷口が裂ける。右脚を折り曲げて腹を浮かせようとすると、床に臓物が引っ張られる。

 ―――だが、だから、どうしたというのだ!

 奮い立て。何度でも止めに入れ。若枝わかえは望んで犯されているのではない。若枝わかえは望んで耐える道を選んでいるだけだ。それなら、何度でも私が、耐えなくて良いようにしなければならないのだ。

「ぬ………。ぐ………。」

「書く気になられましたか? 手紙も筆もこちらに。」

「………、ろ。」

「何か仰いましたか?」

「………ろ。」

 男が苛々しながら顔を近づける。その瞬間、私は耳朶を掴み、一瞬だけ腹に力を込めて上半身を浮かせると、反対側の手で後頭部を掴み、男の顔面を床に、私の体重と腕力で、叩きつけた。一瞬で、顔面が潰れたらしく、先ほど、頭をかち割った時と同じような感覚が伝わってきて、鳥肌が立った。身の毛もよだつ感触とは、まさにこの事だ。

「いや~、このでこぼこちんこみると、婚約してても逃げ出すんだよね~、よかったなぁ、アンタみたいな女がいてくれて。メシアの弟子だもの、遊女は買えねえし~。あ~、気持ち~、ちょうどいいやぁ、メシアは性病の男にも救いを用意してくれてたんだな~。」

「………ッ!!!」

 若枝わかえの顔が、苦痛から憎しみに変わる。私も恐らく、若枝わかえと同じ者を心に思い浮かべた。これは、赦されてはいけない。

 ―――私達が、家族だからだッ!

「この、カタワがぁ!」

 あの屑の脚を噛み砕いてやろうと伸ばした手に、剣が突き刺さる。構うものか。

あいつは、一番侮辱してはならない方を、一番私達が赦せない人で侮辱したのだ!

「なんッッッでメシアの教団に、お前みたいな穢らわしい奴がいるんだよ!! 一際ダメな十二人だったくせに!! あの裏切者の家族が!!」

 男が剣を抜いた。血が噴き出し、私の顔に飛び散る。

「何で女だの包茎だのの言うこと聞かなきゃなんねェんだ! オレ達は惨めなままじゃないか!!!」

 ダンッ!!!

 息子達の悲鳴が聞こえる。若枝わかえが泣いている。全身が焼ける。

 なんだ? 何が起こったんだ? 何故私の身体は、動かないのだ? 悲鳴が、遠、い―――。


 泣き声が、聞こえる。

 継蘖けいげつの声、瞻仰せんぎょうの声、若枝わかえの声、それから―――これは、この一番近い泣き声。福銭ふくせんの声か?

 酷く、苦しそうで、のたうち回っている。今にも首をくくりそうだが、首をくくるための道具がない。死ぬ勇気も生きる恥もない、半端な者にしか分からない苦しみだ。

 行かなくては。福銭ふくせんを救いに。よく見えないが、福銭ふくせんの声が一番近くにあるのだ。一番近くにいるに違いない。

「悪霊だ! 悪霊が死体に入った! 逃げろ、殺される!」

 声が遠い。何を言っているのか、よく見えないので分からない。とにかく、今は福銭ふくせんだ。

 ここを上がって、扉を開けて………。何か、妙な感じもするが、今は考えるべき時ではない。

福銭ふくせん?」

「―――ひぃぃぃぃぃぃ!!! あ、悪霊!!! 十二弟子にまで憑きおった!!!」

「大丈夫か? 酷い声だぞ。」

「来るなアアア! わ、私は悪くない!! メシアひこばえさまが、私達を十分に教えてくれなかったのがいけないんだ!! 全ての国の民に広める力はくださっても、全ての国の民をまとめる力をくださらなかった!!!」

「よく分からないが………。なあ、福銭ふくせん、よく見えないんだ。そっち行くぞ?」

「助けてくれええええ!! お助けくださいひこばえさま!! どうか私にもう一度機会をください、澹仰の銀貨を受け取らなかったように、おゆるしください、お助けください、おねがいしますおねがいします、うわああああああ!!」

「落ち着け福銭ふくせん、話を―――。」

 しよう、と、言いかけたが、よろめいた。あ、と、咄嗟に、すぐ近くの何かに捕まる。ところがその何かも、一緒に崩れていった。

「あれ?」

「分かりました、ひこばえさま。私は向かいます。」

 福銭ふくせんの声が、すぐ近くに聞こえる。温かいが、妙に寒々しい。

「詫びたりないよ、きびす。」

 何のことだい、と、聞き返そうとして、身体がバラバラになるような、物凄い衝撃が正面からぶつかってきた。福銭ふくせんが、私の四肢をつなぎ止めてくれていたので、私の手足は無事だった。

 だが、首は飛んでいってしまったようだった。

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