第二十七節 うしないえたもの

 私は絶句した。怒りというものは、燃え上がるものだと思っていた。だが今、私の身体を満たしている怒りは、雪のように冷たく白い。全身が真っ白になるかのような怒りだ。

若枝わかえ。」

「…はい。」

「………。オスロエネに行くと良い、瞻仰せんぎょうがいる。」

「…はい、分かりましたわ、きびすさま。」

「勘―――。」

 勘違いしないで、と、続けようとして、若枝わかえはするりと私の腕から抜け落ち、ガタガタの、しかししっかりとした足取りで、二階へ上がっていった。

 ああ、そうか。絶望したのは、私だけでは無かったのだ。若枝わかえもまた、自分を二度も暴漢に委ねさせた自分の夫に、絶望したのだ。

 そうだ、離縁しよう。私では守れない。脚の骨の足りない私では、守れない。瞻仰せんぎょうの方が余程、若枝わかえを大切に出来るはずだ。

 預けられたのに、任されたのに、私では出来なかった。

「ごめんなさい…ごめんなさい…。」

 神の声すら、私を慰めてはくれなかった。私はいつの間にか、その場で眠ってしまった。


 ぺたぺた。ぺちぺち………。

「おーちゃ、おーちゃ。」

「ん…?」

 頬を叩かれ、私は目を覚ました。ぼやけた、少し陰った視界の中に、継蘖けいげつがいる。

「どうした、腹が減ったか。」

「おーちゃ。」

若枝わかえかず、夕飯は―――。」

 そこまで言って、誰も居ないことに気付き、私は何があったのかを思い出して、瓶の中に吐き戻した。

「おーちゃ、おーちゃ。」

 継蘖けいげつなりに心配しているのか、私の背中をさするように、継蘖けいげつが脹脛をさすっている。


「おとちゃん。」

「………!」


 一瞬で吐き気が治まった。

 継蘖けいげつが、喋った。喋ったはずだ。

継蘖けいげつ、もう一回言ってごらん、何て言った?」

「おとちゃん。」

継蘖けいげつ、私は誰か分かるか?」

「おとちゃん!」

 答えた。継蘖けいげつの耳が、聞こえている! 私は継蘖けいげつに何度も、「おとちゃん」と言わせ、抱き上げて二階へ駆け上がった。

若枝わかえ! かず! きん! 継蘖けいげつが喋ったぞ!! この子の耳が開かれた!! 私達の祈りが届いたんだ!! 信仰が満ちたんだ!!」

 ところが、二階に若枝わかえはいなかった。かずも、きんも。一階にいないなら、二階にいるはずなのに。

 そこで、だんだんと眠る前のことを思い出してきた。そうだ、若枝わかえはオスロエネに行く準備のために、誰かの家に行っているのかもしれない。

 ―――誰かって誰だ? 若枝わかえは三年前から孤立していると、言っていたではないか。

 まさか、こんな短時間に、もう出たのか? そう思い、私は部屋の中を探した。

 無かった。若枝わかえの服は、何も無かった。本当に出て行ったらしい。ではきんかずは、医者から帰っていないのだろうか?

 急な不安に襲われ、私はエルサレム中の医者を探した。しかし、いなかった。きんかずは、どこにもいなかった。

「おとちゃん?」

「………。帰ろうか、継蘖けいげつ。」

「う!」

「夕方、会堂に連れて行ってあげよう。説教を聞かせてあげるからね。」

「う! う!」

 ―――ああ、どうして私は、いつも間違えるのだろうか。エルサレム司教なのに。


 結論から言うと、私の説教は大失敗だった。私の息子の耳のことは皆知っていたが、継蘖けいげつは突然見た大勢の人で、驚いて泣き出してしまい、私の事を「おとちゃん」とは呼べなかったのだ。聴衆の心が冷めていくのを肌に感じるのは、とても恐ろしい事だった。いつもなら若枝わかえが傍に居て、私がトチったりした時は、助けてくれる。だがm今回はそれがない。見かねた女弟子の一人が、継蘖けいげつをあやして笑わせると、漸く聴衆は、継蘖けいげつが女弟子の声に反応している様子を見ることが出来たが、その時には聴衆は半分も残っていなかった。

 しかしその女弟子は、継蘖けいげつの耳のことを喜んでくれたので、晩餐に呼んでくれた。私はともかく賭して、継蘖けいげつは今日沢山泣いて、腹が減っているだろうから、と、受け入れて、晩餐に参加した。

 帰ってくると、灯火がついていた。きんかずが帰って来ていたのだ。

きん! かず! 良い知らせがあるぞ!」

 若枝わかえがいないことを咎められるのが怖かった、というのも事実だ。だが、それよりも、継蘖けいげつのことを話したかった。もう、あの話はしたくなかったのだ。

 一階には誰もいなかった。きんかずの部屋に走り込むと、寝床で、包帯を何時もより多く巻いたかずと、そのすぐ隣に、薬湯を保ったきんが転た寝をしていた。

きん? かず? 大丈夫か?」

「!」

 かずが身じろぐ。どうやら皮膚の表面が血で固まり、うまく動けないらしい。

「無理しなくていい。きん、お疲れ様。ちゃんと寝床で寝なさい。」

「………。」

 私が近づいても、きんは動かなかった。継蘖けいげつを下ろし、私はきんの手元の薬湯を退けて、揺さぶり起こそうとして―――悲鳴を飲み込んだ。

「は…っは…っは…っ。」

「おとちゃん?」

継蘖けいげつ、部屋に行っていなさい。お部屋、分かる?」

「う!」

 継蘖けいげつはそう言って、てちてちと部屋を出ると、隣の部屋に入っていく音がした。

「? ?」

 かずが身じろぐ。包帯は目元も口も覆っているから、喋れないし、見えないのだろう。今はその方が都合が良い。

かず、この薬湯、塗った方が良い?」

 かずは身じろいで頷いた。包帯をそっと取ろうとすると、ベリベリと音がする。包帯と薬湯と体液が固まってしまっているのだ。本来は、こうならないように、包帯を取り替えなければいけないはずなのに、それが成されていない。

かず、ここはちょっと不潔な寝床だから、移動するよ。」

「?」

 かずは状況が分かっていないらしい。皮膚を動かさないように気をつけながら、そっと抱き上げて、私達の部屋の、若枝わかえが使っている寝床に寝かせた。

「おとちゃん、おとちゃん!」

 継蘖けいげつが嬉しそうに纏わり付いてくる。私はかずを指さし、教えた。

「おばちゃん。」

「おわたん。」

「おばちゃん。」

「おばたん!」

「そう、やっぱり聞こえてるんだね………。」

 私はかずに一言言って、部屋に鍵をかけると、近くの家にいる医者を呼びに行った。きんを見せるためだ。


 僅かに部屋を開けている間に、随分と虫が集まってきていた。医者は灯火をよく近づけて、きんの様子をよく調べ、言った。

「心労ですな。あまりのことに、神が憐れんで下さったのです。」

「心労………。」

「…メシアひこばえさまが、妹御と共に病を癒やしてくださっていたのなら、このような亡くなり方はしなかったでしょうに…。お労しい……。」

「………。それは、どういう………。」

「司教様、貴方は恵まれすぎた。メシアひこばえさまに見捨てられた者達のことを、忘れていたのです。慢性的な罵詈雑言は、人を殺します。それも、突然に。全く予期せぬ時に、突然、神に憐れまれて連れていかれたり、人々の罵詈雑言を神が聞き入れ、撃たれたりするのです。」

「…神は、中傷なんて信じない。」

「おお、それもそうでした。」

 皮肉るように、医者は言った。

「お気をつけなされ。今や破竹の勢いのナザレ派。誰がどのように妬み、悪霊を送っているか分かりませぬ故……。」

「………。」

 きんが死んだ事は、かずには言えない。もう既に旅立った若枝わかえにも言えない。もし誰かに言ったとて、誰がきんの為に悲しんでくれるだろうか、彼等が殺したも同然なのに。

瞻仰せんぎょう………。ヒコ………。何故、私の傍にいてくれなかったんだ………?」

 何故こんな無能に、エルサレム司教なんていう座を与えたんだ…?

「神よ、何故私の家族を、こんなにも打ちのめすのですか…? 貴方の一人子を拷問死させるだけでは、足りなかったのですか………?」

 神は答えない。メシアひこばえも勿論答えない。

 神は、その一人子をお与えになり、全ての民を救われた。

 私達は、きんの命、若枝わかえの尊厳、かずの皮膚とその命を捧げ、継蘖けいげつの耳を救った。私一人の信仰では、足りなかったから。 

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