第二十四節 家族のいみ

 それから半年ほど経って、若枝わかえは男子を産んだ。見たところ、どこも異常がない。健康で元気な男の子だ。産婆によると、あっさりと生まれてきたらしい。それでも若枝わかえは疲れているはずだし、乳をやるのも体力を使うので、気をつけてあげなさい、と、言った。

若枝わかえにそっくりの目元だね。」

「ええ、そうですね。よく飲みますよ。」

 誰もが、『きびす司教によく似た凜々しいお顔立ち』と誉め讃え、母と同じくらいに、若枝わかえを大切にした。ただ、きんと和は、若枝わかえがどんな目に遭ったのかしらない。知らないが、あの迫害の時に居合わせていたので、少なくとも和は、若枝わかえの子の父親が、私とは限らないことに勘付いていたようだった。

「キビ兄は立派だよ。それだけで、父親だよ。」

 誰もが寝静まったころ、和が私に言った。眠る赤子と、若枝わかえを休ませる為に別室で仕事をしていた時、葡萄酒を保ってきてくれた時だった。

「名前、そういえばどうするの?」

若枝わかえは二人産みたいんだってさ。一人目がおいらの子、二人目が瞻仰せんぎょうの子。」

「ああ、そっか。そしたら、セン兄にも子孫が出来るのか。」

「そそそ。うーん、だけど何て名前がいいかな………。」

「………。ねえ、そしたら、わたしときんで候補あげていい? どうせ忙しくて考える暇も無くて、若枝わかえさんはお乳をやるので忙しいんでしょ?」

 図星である。

 真実はどうあれ、私は生まれたからには、子供はどんな子であったとしても、私の子だと言い張るつもりだった。それは弟妹に対しても同じだ。

 妹と言えば、メシア蘖復活の折に、カナに手紙を書いた。私がエルサレム司教になったことも手紙に書いたし、何だったら婚約したことも書いた。だが、一向に雅からの返事はない。便りがないくらいに充実しているだけなのか、それとも、手紙を読むことが出来ない状況なのか―――。

 頭がぐるぐるしてきた。止めよう、今日は寝よう。と、私は葡萄酒を一気飲みし、そっと自室に戻った。

 寝床に戻ると、若枝わかえが片乳を出し、座ったまま眠っていた。赤ん坊は口元が白い。赤ん坊は綺麗にするとして、若枝わかえの身体に触れても大丈夫だろうか。私は考えた末に、赤ん坊を先に横にし、若枝わかえを服の上から抱き上げて、横にならせた。それでも起きる気配がないので、私は服の上から、あまり刺激しないように、そっとしまい込んだ。

 いつぞや見た乳房とは、全く違う大きさと形。私は少し、気分が軽くなり、そしてすぐに、重くなった。

 やめだやめだ。寝ようとしたではないか。


 翌朝、激しい物音で目が覚めた。すわ、また揉め事か、と思って、身体がぐっしょりと濡れたようになる。階下で、激しい言い争いから発展し、物が投げられているらしい。

「なんだなんだ、どうしたんだ!」

きびす司教! なんということをさせたのですか!!」

 男弟子の一人が、小さく蹲っている女を指さして言った。寝ぼけた視界がはっきりしてくると、それが若枝わかえだと気付いた。

若枝わかえ! ―――何を考えている! 私の妻だぞ!!」

 震えている若枝わかえを抱き上げると、若枝わかえの胸の中で、赤子はすやすやと眠っていた。

「そうです、貴方の妻です。貴方の妻が、不貞を犯していたのです! その男の子は、司教の子供ではありません。貴方は騙されています!」

 途端に、あの無残な光景が蘇る。しかし、私がここで吐き戻してしまったら、それは肯定と同じだ。若枝わかえの身体を強く抱き締めて庇うと、押しつぶされたらしい赤ん坊が泣き出した。

「泣かせるな! 耳が穢れる!」

「黙れ!! 若枝わかえ、部屋に行っていなさい。和、ついていって。」

 若枝わかえへの罵声が、赤ん坊の泣き声を上回る。和よりも弱々しい泣き声だ。何人かが若枝わかえを追いかけようと舌ので、慌ててきんと二人で階段を塞ぐ。

「謂れのない中傷をするな、何を根拠にそんな事を言っている! まだ子供が産まれたばかりだぞ!」

 大丈夫だ、と、私は心の中で繰り返す。

 あの迫害の日は、慎みの期間が終わる、まさにその日だった。その日に出来た子だと言い張れば、どんな計算をしても証明しようが無いはずだ。あの時、あの場にいたのは私達だけだった。だから誰も、助けが入らなかったのだ。私は無様にも、途中で意識を奪われ、若枝わかえが解放されるまで、共に苦しむことすら出来なかった。

きびす司教、今のやりとりを見ていて、何も気付かなかったのですか?」

「何のことだ。」

 大丈夫、大丈夫だ。誤魔化せるはずだ。

「アレは、私どもの声には泣かなかったのに、司教に押しつぶされて泣き出しました。」

「耳が聞こえていないのです! メシア蘖さまの血を遠回りにも引いている子が、穢れているのです!」

「そんな穢れた子供が、メシアの家系から出るはずがない!」

きびす司教を侮辱したのです、あの女は!」

きびす司教に不貞を働いたから、祖先ははおやの罪があの子に現れたのです!」

きびす司教の子供が穢れるなんて、有り得ない!」

「有り得ない、有り得ない、有り得てはいけない!! そんな子供は、産まれてはならない!!」

 なんだ。

 なんだ、これは。

 何を言われているんだ、私は。

 一番辛いのは若枝わかえのはずだ。望んでいた男に嫁げず、二番手の男に嫁げず、望まないままに孕まされた。女の役割を無責任に押しつけられ、それでも産んで良いかと許可を取ってきた。持ち主の許可無く孕んだ自分を、赦してくれと言ってきた。苦しい思いをして、命を賭けて産んで、それなのに忙しいからと父親から名付けてもらえない、可哀相な赤ん坊の、母親のはずだ。

 しかも、彼女が本当に、婚約者以外の者に暴かれたことを指摘している者はいなかった。穢れた子供が産まれたから、不貞を犯したと言われている。順序が逆だ。しかし皆、それが正当性があると思っている。若枝わかえは、現実と妄想と、二重に陵辱されている。

 なのに、何故彼女が責められている? 何故、何故、何故―――。

 ああ、そうか、と、思った。分かったよ、と、心の中でメシア蘖に、否、ヒコに言った。

 お前が、家庭を持たなかった理由。男狂いだと噂されても、お気に入りの女を作らず、私達に甘えていた理由。舌っ足らずな言葉で、瞻仰せんぎょうを『にっちゃ』と陰で呼んでいた理由。

 蘖自身が、穢れていなければならなかったのだ。穢れているように見えなければならなかったのだ。子供の悪霊が取り憑いているかのように、大酒飲みで大食いの悪霊が取り憑いているかのように、敢えて振る舞っていたのだ。

何故なら、どの家にどんな穢れが産まれても、それは罪ではなく、神の栄光のためだからだ。

 どんな子供にも、メシア蘖が語りかけ、時には自分の姿が見えるように、最前列に座らせた。悪霊の憑いた子は当然癒やし、寡の息子だろうと金持ちの娘だろうと、大切な子供が死んだならば生き返らせた。全ての子供は、生まれてきて、生きていい者なのだ。

 だから、メシア蘖の子孫に相応しくない子供と呼ばれる者がいないように、蘖は自分の人間としての自由を捨てたのだ。全ての女の産む子供の父になるために、誰一人として選ばなかったのだ。

「………。そうか。」

 そうだ、あの子は神の子だ。母は最後の最後まで、蘖の本当の父を語らなかった。だからこそ蘖は、私生児として、私達穢れた子供と同じように年長者に特に蔑まれながら、それが当たり前の、取るに足らない生活をしていた。

 あの子にも出来るはずだ。蘖のような暮らしが。蘖のような生き方が。蘖のように、家族に愛される様に、神に愛される生き方が出来るはずだ。

「三日後に割礼の儀式をしてイスラエル人にする前に、殺しましょう!」

「それは無理だ。あの子には、名前がもうある。あの子はイスラエル人だ。」

「ではその名は!」

「名前はなんというのですか!」

 欽と和には申し訳ない、と思いながらも、私は言った。

継蘖けいげつ(けいげつ)。あの子の名前は、蘖と同源の名前だ。あの子は蘖の遺志を継ぐ子だ。お前達は知らないのか。蘖も、父親かけいが分からなかったんだ。」

「いいえ、いいえそんなはずはありません! メシアは大王の家から来ると預言に―――。」

継蘖けいげつが待っているから、私は行く。あの子が本当に何も聞こえていないのか、単に肝が据わっているのか分からないし、妻は乳をやらねばならない。乳の出が悪くなるようなことはしないでほしい。私の子だから。」

 私はそう強調し、二階へ上がった。勿論、二人の元へ行くためだ。扉を開ける前から、若枝わかえの啜り泣く声と、和の可愛いらしい高い声がする。あやしているのだろう。赤ん坊の泣き声は聞こえて来ない。

 ―――本当に、聞こえていないのだろうか。私は思い出したことがあったので、扉を開けた。

若枝わかえ、もしかしたらその子の耳が聞こえるようになるかも知れないぞ。」

「キビ兄、奇跡起こせるの!?」

 和の反応に、気落ちしないようにする。気落ちしていては、出来るものも出来ない。私は若枝わかえ継蘖けいげつを抱かせたまま、その小さな両耳に、人差し指を添えた。

「開け(エッファタ)。…坊や、お前の名前は継蘖けいげつだ。けいげつ、わかるかい? 聞こえるなら、こっちを向いてごらん。」

 私はそう語りかけたが、継蘖けいげつは眠たそうにしているだけだった。私は必死になって、和が名前のなかった頃を思い出す。和もこんな風に、呼びかけに無反応だったことは無かったか。

 だめだ、幼すぎて思い出せない。

「ね、眠いだけだよ! それより、きびす司教、けいげつって何? 名前? 決めたの?」

 和が作り物の笑顔で、私に問いかける。若枝わかえも続けた。

「ええ、今、きびすさまのお名前にしようか、お義父さまのお名前にしようか、迷っていたんです。どういう意味でつけられたのですか?」

 彼女達を悲しませてはいけない、と、私は歯を食いしばって、継蘖けいげつという名前の意味と由来を説明した。

 そして、ずっと涙を湛えている若枝わかえの隣に座り、言った。

「この子は確かに、私の子ではないかもしれない。なら、この子は私の妻の子だ。なら、私はこの子の父親だ。何も問題はない、この子は神の子だ。」

 ―――強姦された女性が産んだ子を、『神に預けられた子』と表現するのが、適切なのかどうか、私は今でも分からない。

 しかし若枝わかえは、それを聞いて大きく頷き、継蘖けいげつ継蘖けいげつ、と、語りかけながら乳をやり、眠らせた。私は信徒達のことがあったので、和と欽に、若枝わかえ継蘖けいげつを護るように、と、言いつけた。二人ともメシア蘖の使徒としての働きは出来なくなるが、と、言うと、顔を合わせて笑った。

「家族なんだから、当たり前でしょ!」

「司教である前に、兄ちゃんなんだから! おい達に任せといて!」

 メシア蘖は、この役目を二人に負わせる為に、忌み子と呼ばれ続けるように、その穢れを落とさなかったのだろうか………。

 その為に、若枝わかえは婚約期間の明ける日に、婚約者の前で、操を踏みにじられなければならなかったのだろうか………。


 継蘖けいげつは、すくすくと育った。肩を叩けば振り向くし、笑いかければ笑い返す。

「はい、継蘖けいげつくんは、なんさいになりましたかー?」

 とうとう嫁に行くことはなくなった和が、我が子のように、戸籍上の甥と遊ぶ。継蘖けいげつは、この誕生日で三歳になろうとしていた。

「あう! あーう!」


 ―――だが、その口から、意味のある言葉は、この三年間出ていない。私の信仰は、足りなかった。

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