第二十三節 瞻仰(せんぎょう)との別れ

 それから暫くの間、夜通し若枝わかえは私に抱いてもらおうと、やれ薬だの食べ物だのと手を出していたが、私が、というより、私の身体がその気になることはなかった。若枝わかえが一晩、必死に執着すれば、むっくり芯を保つことはあった。だが、若枝わかえを妻にしようとすると、ふにゃりと元に戻ってしまう。若枝わかえはその度に悲しそうな顔をするのだが、そもそも自分で刺激しても禄に役に立たないだけでも屈辱なのに、この上更に、女性の手と胸と口と、と、文字通り全身を使わせても、ふにゃふにゃで、若枝わかえに返してやれるものが何もない、というのが悔しくて堪らなかった。しかし、若枝わかえはもっと

その手に詳しい占い師に頼ろうとしたときは、メシア蘖が止めている、と言うより以前に、他人に私が不能であると知られるのが嫌で、流石に止めた。

 それ以外にも、私には大きな課題があった。若枝わかえにばかり構っている訳にもいかず、しかし若枝わかえを他の男の前に曝す訳にもいかず、私は最悪の記憶が残る部屋を、綺麗さっぱり、女達と模様替えするように言いつけて、そちらの問題に取りかかった。

 問題というのは、瞻仰せんぎょうのことだ。

 瞻仰せんぎょうは長らくの心労から漸く解放されたからか、ずっと眠り続けていた。若枝わかえはその看病も欠かさなかった。私としても、あの部屋にずっと籠もっているよりも、愛する父親の傍に居た方が良いと思い、好きなようにさせていた。

 私の前で瞻仰せんぎょうを激しく罵った手前、エルサレム教団では、瞻仰せんぎょうの追放を望む声が多かった。私としては清々したが、あの後嗣跟は斬首にて処刑されたのだ。アレがどこまで、エルサレム教団で珍重されていたのかは、悔しいが私も理解している。圧倒的な存在感と決断力、牽引力は、私には無い者だった。もし瞻仰せんぎょうのことがなかったら、私は即座に嗣跟に座を譲っていただろう。

きびす司教、やはりあの瞻仰せんぎょうは追い出すべきです。追い出してください、あれは悪霊に取り憑かれています。」

 うるさい。

きびす司教、今眠り続けて動かないのは、悪霊に霊を盗まれたからです。どうか追い出してください。エルサレム教団の為です。」

 うるさい。うるさい。

「嗣跟さんを売り渡したではありませんか! 嗣跟さんがきびす司教に忠節だったから、今回は免れたのです。いつきびす司教を売り渡すか分かりません。」

「聞けば、瞻仰せんぎょうはその昔、疚しい仕事をしていたというではありませんか! メシア蘖さまは娼婦を受け入れたのであって、悔い改めない魂は滅ぼされます! このままではエルサレム教団もろとも滅ぼされて―――。」

「ヒコはそんなことは言っていない!!!」

 耐えられなくなり、私が声を荒げると、皆一様に凍り付いた。そして平伏して、私に赦しを請うた。

 違う、そうじゃない。私は確かにメシア蘖の兄だった。だが直系ではなく遠縁だったし、彼等の言う理屈で言うなら、私だってきんと同じく、救うに値しないモノだった。

 彼等が瞻仰せんぎょうの次に私を追い出すつもりなのかはどうでも良い。役立たずには役立たずなりの利用価値がある。謦がそういう扱いを、村で受けていたから知っている。もし謦のような扱いを受けるために私が選ばれたのなら、メシア蘖の意向で選ばれたのなら、これほど皮肉の効いた話もない。

 それは、別に良い。どうでもいい。

 ただ、私のおとうとの名前を使って、私の瞻仰せんぎょうを追い出そうというのが気にくわない。

「すみません、少々祈らせてください。皆さんも祈ってください。瞻仰せんぎょうに悪霊が取り憑いたというなら、その悪霊が追い出されますように。信仰があるなら、皆さんにも出来ます。」

 そういうと、彼等は平伏を止め、互いに顔を見合わせた。

「司教様のお祈りに適う程の信仰を持てるように、祈ります。」

「………。」

 私は瞻仰せんぎょうを寝かせている部屋に行った。


 ところが、部屋に前に来たとき、喧嘩が聞こえた。ここでもやってるのか、と、私は胸が苦しくなる。中に入るのが億劫だ。桂冠が殉教した今、これを仲裁するのは私の役目だ。

 況して、彼等は十二弟子だ。他の信者達では、仲裁は不可能だ。

「なんでだよ、神授! きびすの祈りの邪魔だ、殺してもらおうよ!」

「駄目に決まってるでしょ! 駒桜ちゃん、落ち着くんだ!」

「僕がここで、なら絞め殺してやる!」

 慌てて私は扉を開けた。羽交い締めしている神授が、徐々に徐々に、駒桜を通して悪霊に引き摺られ、瞻仰せんぎょうの首に近づいていく。神授諸共、駒桜を杖で打ちのめした。

「何考えてる! 何でもかんでも悪霊のせいにするな、今のはお前の悪い心そのものじゃないか!」

「悪霊を追い出すんだから、正しい心に決まってるじゃないか! 司教なのにそんなのもわかんないの!?」

「駒桜ちゃん、止めなさい!」

「―――おいおい、目が覚めちまったよ、なんだ一体。」

 その時、重たく気怠い声がした。一瞬静寂に包まれたかと思うと、駒桜は立ち上がって、足下に纏わり付く神授も意に介さず、鮮魚運に掴みあげ、激しく揺さぶった。

 それを見て、私の身体が重くなる。苦しい。

「淫売の分際で、よくも嗣跟つぐくびすを売ったな!? いくら貰ったんだよ!!」

 嗚呼、お前も。

 駒桜、お前も、瞻仰せんぎょうを買っていたのか。嗣跟の甘言に惑わされて、買っていたのか。

「ペッ。―――ハッ! いくらだって? あいつにそんな価値あるもんか、タダで引き渡してやったよ。あんな穢れた金、受け取れるか!」

澹仰せんごうの真似事をして、本当に裏切り者に成り下がるなんてな! とっとと荷物纏めて出てけ!」

「ハン、お前がどう思おうと知ったことじゃないね! ぼくの定めた権威が命じない限り、ぼくはここを動かないよ。―――分かったら出てけ、まだ身体が重いんだ。」

瞻仰せんぎょうは唾を拭う駒桜に背を向けて、もう一度横になった。神授が嫌悪感を丸出しにして、攻撃を止めた隙を突き、駒桜諸共部屋から出て行く。そして、文字通り駒桜を締め出して、戻ってきた。私の事を案じてくれているんだろう。

言わなければ。言わなくちゃ。私が言わなければ、私が言われ続ける。私は右脚を折りたたんで正座をし、背筋を伸ばして、深呼吸した。

言わなければ。私が言われ続けるからではなく、瞻仰せんぎょうを護る為だ。仕方ないんだ。

―――私では、出来ないから。

瞻仰せんぎょう。」

「ん?」

 息が苦しい。私は言葉を発しているんだろうか。瞻仰せんぎょうはしかし、反応して、こちらを向き、身体を起こした。

「どこも怪我してなかったか? 疲れただろう、ぼくのことは良いから、お休み。」

「………。」

 そう言って、瞻仰せんぎょうは微笑み、私の頭を撫でた。涙が零れそうになるのを堪えて、私は言った。

瞻仰せんぎょう、その、おいらは、おいらはね。メシアの福音は、どんな人間にも普く伝えるべきだと思う。それは他のどんな職種の人間にも同じだ。」

 違うだろう、そうじゃない。私が言うべき言葉はそうじゃない。だが瞻仰せんぎょうは黙って聞いている。

「どんな外国人にも、それこそ、もしこの先、メシアの恵みで小鳥や鹿と話せる聖者がいるなら、彼等にだって、教えるべきだ。」

 これでもない。分かっているのに、言葉も考えられているのに、出てこない。

「仮に彼等が人祖の罪の裔でなかったとしてもだよ。それくらい素晴らしいことだと思うんだ、福音て。」

「そうだな、ぼくもそう思うよ。」

 瞻仰せんぎょうの同意が苦しい。瞻仰せんぎょうは恐らく、分かっている。どういう意図があるのか分からないが、私に言わせようとしている。

「だけど、だけどね。」

 言え。言え。言うんだ!

「おいら達は弱いんだ。メシアみたいに―――ひこばえみたいに、自分をしっかり保てないだ、一人では。」

 言えない。どうしても言えない。エルサレム教団の為に出て行ってくれなんて言えない。声に出したくない言葉が、涙となって流れていく。瞻仰せんぎょうの顔を見られない。私は瞻仰せんぎょうに縋り付いて泣いた。

「ごめん、ごめんね、ごめんなさい瞻仰せんぎょう。おいらでは無理だ、教会を纏められない。お願い、なんでも欲しいものも必要なものも、買ってあげるし、持ってっていいから―――。」

 ごめんなさい。ごめんなさい。弱くてごめんなさい。いつも護ってくれた、自慢の兄さん。大切な者を任せたいほどに大切だと、私のことを評価してくれた、優しい兄さん。

「明日の夜までに、ここを出て行って。」

 瞻仰せんぎょうの呼吸が乱れる。取り乱して私を罵るだろうか。

 だが、瞻仰せんぎょうは優しく私の背中をさすって答えた。

「そっか。言いにくいこと言わせたな。ごめん。明日と言わず、今から準備するよ。」

瞻仰せんぎょう、君が悪いわけじゃないのは分かってるんだ。神授しんじゅが一緒に行きたいって言ってる。神授しんじゅと一緒に行ってくれ。」

 私は咄嗟に、そう言ってしまった。神授のそういう意思を聞いたことはない。だが、司教命令だと言えば従うだろうし、瞻仰せんぎょうの長らくの友としても、拒否しないだろう。私がちらりと神授を見ると、神授は大きく頷いて、けれども悲しそうに笑った。

「それは楽しそうだ! 瞻仰せんぎょうちゃん、是非おじいちゃんと一緒に行ってくれ。」

 きっと神授は行きたくないのだろう。だからそんな悲しい顔をして、引きつった声で言うのだろう。ああ、ドコまでも駄目な人選だ。私は何もできない。

「せ―――。」

「身体、洗ってくる。」

 取り消そう、とした時、瞻仰せんぎょうは起き上がり、私の腕の中から、絹の衣が滑り落ちるように抜けて行った。

「神授、ごめん。自分勝手に決めて………。」

「なあに、おじいちゃんも瞻仰せんぎょうちゃんのことは心配だったから、寧ろきびすちゃんがそれを知っていて驚いただけさ。」

 神授は立ち上がれない私を助け起こし、しっかり目を合わせて言った。

瞻仰せんぎょうちゃんのことは任せて。若枝わかえちゃんとエルサレム教団を護るんだよ。教団員のためじゃない、君が、君の信仰のために、君の信仰を伝えるために、君のためだけに、護るんだ。」

「―――うう……っ。」

 年長者というのは、ただそれだけで、何かがあるのだろうか。瞻仰せんぎょうなど、誕生日もお互い分からないから、『始めにいた』というだけで、長男だっただけなのに。人によっては、私を『三男』と呼ぶ者もいたのに、それも私が、司教になってからいなくなった。

 私はすぐに若枝わかえに言って、私に献品された中で一番上等な服を、上下肌着問わず出させた。が、神授が、肌着は流石に、と、言うので、慌てて上着を追加した。野宿が多くなるだろうから、寒くないように。

 そして私は、駒桜に、宣教の旅を命じた。罰とも何も言わず、ただ、『行け』とだけ。

 怒りは伝わらなかっただろうか。悲しみは伝わらなかっただろうか。

 だが駒桜は、無言で私を見つめ、すぐに、分かりました、と、準備に取りかかった。


 神授と若枝わかえの説得で、私は瞻仰せんぎょうきん、和とで、最後の晩餐をすることが出来た。給仕は、若枝わかえだけだ。私が司教になってから、ずっと無かった、兄弟としての時間に、私は本当に久しぶりに、何の気遣いもなく、瞻仰せんぎょう瞻仰せんぎょう、と、呼ぶ事が出来た。瞻仰せんぎょうも、私の事を、きびすきびす、と、呼び返してくれた。

きんも和も、『セン兄』と呼んだ。『亜母さん』とは呼ばなかった。

 皆分かっている。次に同じ食卓に着くときは、神の国で、メシア蘖が来るときだ。

 そして恐らく、その席に私達はいない。何故なら、穢れを癒やしてもらえなかったからだ。

「………。どうした、お前達。そんなに悲しそうな顔して。兄ちゃんの門出を祝ってくれよ。」

「………。」

 酒も進み、本音が漏れ出してくるころになっても、私達は心の淀みを言わなかった。

 どうして瞻仰せんぎょうが。どうして瞻仰せんぎょうだけが。名前を変えなければ成らないほどに、嫌われなければならないのか。とは、誰も言わなかったが、全員同じことを思っていたに違いない。

 和ときんは、久しぶりの『兄』に甘え疲れて眠ってしまったので、私は若枝わかえと一緒に、三人を見送ることにした。どこの方面に行くのかと聞くと、決めていないが、誰も行っていない北東方面に行ってみる、と言った。その方角の更に先に行くと、オスロエネという国がある。そこの国の王から、ナザレ派についての問い合わせの書簡が届いていた。向こうにもいつの間にか共同体が出来上がっているらしいので、私はそこに行って欲しい、と言った。

 歩き出すと言うとき、若枝わかえ瞻仰せんぎょうの裾を握った。

「ん?」

「先生…。」

 私は冷や汗が出た。何を言うのかと。

「いえ、お父さん。私を嫁がせてくれてありがとうございます。私、きっときびすさまと、エルサレム教会を守って見せます!」

 言わなかった。若枝わかえは、何も言わなかった。瞻仰せんぎょうは微笑んで、若枝わかえの額に口付けた。

「そうか。」

 そして、私の眼を見て言った。

 止めてくれ。見透かさないでくれ。

「頼むぞ、きびす。」

ごめんなさい。

「どうやらぼくは、いつの間にか娘の父親になってしまったらしいからな。」

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

「ああ、兄や義父なんて、おいらには無縁の人だと思ってたけどね。…若枝わかえのこと、本当にありがとう。この恵みを大切にする。」

「頼んだよ。」

 嗚呼、吐き気がする。


 それから何ヶ月も、私達は夫婦になることが出来なかった。きんも和も気付き始めていて、それぞれ調べようとしてくれたようだが、

「誰が穢れているお前達の子供なんか欲しがるんだ。そんなことより井戸水を汲んでこい!」

そう言って、教えてくれなかった、と、悔し泣きをされた。私としては夫婦の事情を家族に知られていたというのが大問題だったのだが、気持ちは受け止めることにした。


ところが、三ヶ月後、若枝わかえの妊娠が分かった。

私達が、夫婦にならないうちに。」

「ああ、吐き気がする。」

 若枝わかえはそう言って、悪阻に苦しんでいた。そしてその時になっても、私に何も言わなかったが、一言だけ、問いかけてきた。

「産んでも良いですか。私の罪が、この子に降りかからないように、お祈りしてくださいますか。」

 私は何も言えなかった。だが、私の方こそ、頼んだ。

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