21.愛する人

 マリアンヌが愛した人は、彼女が出会った中で一番美しい人であった。そして誰よりも自分を愛してくれる人だった。


 一代限りの爵位を授かった父親は赴くままに女を漁り、その一人がマリアンヌの母となった。彼女を産んだ母はメイドから妾という立場に変わり、父の寵愛を受けることとなった。


 正妻である女性が事あるごと幼いマリアンヌや母を陥れようとわざと使用人の数を減らしたり、食事を抜かせたりしたが、その度に母が父に泣きつき、怒った父は正妻である彼女を冷たい女だと罵って罰を与えた。そんな女の泣いて許しを請う姿を、幼いマリアンヌは扉の隙間からいつも覗いていた。


 ――お母さま。どうしてあの人はあんな目にあうの?


 ――いいこと? マリアンヌ。私とお前が何不自由なく暮らせるのは、お前のお父様があの女よりも私たちのことを愛しているからよ。愛は何よりも、強い武器なの。


 母は事あるごとにそう言ってマリアンヌに微笑んだ。眩しい金色の髪に、宝石のように輝く緑の瞳。子ども心にも母は美しく、可憐であった。だからこそ父に愛された。そして娘である自分も愛してくれる。実の奥方よりも、その子どもよりも。


 見物だった。いつも母や自分を馬鹿にするような女が父を前にした時だけは臆病な姿になるのが。


 愉快だった。勉強もできて家を継ぐ権利もあるのに、たった一人の父親から愛されない異母兄の飢えた目が。


 男の愛さえ手に入ればどんな理不尽な立場でも覆せる。マリアンヌが育った環境はそういう所であった。


 父はマリアンヌを溺愛し、ありったけの宝石を買い与え、高価な生地のドレスを何着も仕立ててくれた。そうして年頃になったマリアンヌを社交界へと送り出したのだ。娘の美貌に目を奪われた貴公子がさらなる富をもたらしてくれることを願って。


 シャンデリアの光を浴びて、マリアンヌはよりいっそう輝いていた。その場にいた全員の視線が自分に注がれ、見目麗しい男性から次々とダンスを申し込まれ、まるで女王様にでもなったみたいだった。


 ――少し、夜風に当たりませんか。


 男性の熱っぽい眼差しは自分の美しさの虜になっている証であり、マリアンヌをこの上なく喜ばせた。


 ――ええ、もちろんです。


 マリアンヌは甘やかされ、淑女であるマナーをあまり知らなかった。男性にバルコニーに誘われることも、人気のない暗闇で何をされるかということも、どんな意味を持つのか彼女は何も知らされていなかった。


 男性の力は強かった。息が荒く、目がぎらぎらと輝いていた。お前もそのつもりだったんだろうという声が恐ろしく、マリアンヌは悲鳴を上げることさえできずにいた。このままでは、と絶望した彼女を救ってくれたのが、ダヴィドであった。


 あの時の彼は、本当にすてきだった。マリアンヌを襲おうとした手から守るように己の身体へと引き寄せてくれた力強さ。頬に当たる分厚い胸板。香水の香り。胸がときめき、マリアンヌはぎゅっとダヴィドに縋りついた。


 それを彼は怯えていると思ったのか、ますます強く抱きしめ、自分をこんなふうにした目の前の男を睨みつけた。一言二言の言葉を発しただけで、暴漢者は脱兎のごとく逃げて行った。


 ――レディ、お怪我は?


 安心させるように微笑んでくれた彼の表情。母が読んでくれた絵本の王子様のようにダヴィドはマリアンヌを颯爽と助け出してくれた。自分を愛してくれる人はこの人であり、自分が愛する人もこの人の他にはいないとマリアンヌはその時悟った。


 それからは、マリアンヌは自分のすべてをかけてダヴィドを愛した。彼と一緒に自分の運命を共にするつもりだった。彼の正式な妻にはなれないけれど、自分の母を見て育ってきたマリアンヌは構わないと微笑んだ。


 ――奥さんがいても、彼が愛するのはわたしだもの。


 ダヴィドの両親が息子を誑かした悪女だとマリアンヌのことを罵っても、まるで自分の存在が目に入らぬかのように使用人たちが冷たくあしらっても、ダヴィドが庇ってくれれば、マリアンヌを愛していると言ってくれれば何も問題はなかった。


 マリアンヌの心はどこまでも無垢だった。ただダヴィドを愛していただけ。


 だからダヴィドの妻となったイレーナの存在もマリアンヌは気にもしなかった。初めて彼女の姿を見た時、過去己の母を苦しめた正妻の存在を思い出したくらいだ。自分を見てもツンと澄ました表情は愛想がなく、ダヴィドが冷たい女だと吐き出した言葉がぴったりであった。


 ――可哀想なひと。


 愛されない人。そんなイレーナもいつしかマリアンヌに嫉妬の目を向けるのだろう。ダヴィドに愛されない自分を恨んで。彼の血をひいたマリアンヌの子どもを憎んで。


 マリアンヌはそう思っていた。イレーナを見下ろすのは間違いなく自分であると。


「それなのにどうしてこんなことになったの……!」


 侍女が用意してくれたティーカップを床に叩きつける。中の紅茶がこぼれ、絨毯に染みを作っていく。


「マリアンヌ様。どうか落ち着いて下さい」

「じゃあダヴィドさまを連れてきて!」

「それは……」

「今ここに! わたしのところへ!」


 まだ若い侍女は今にも泣きそうな顔でマリアンヌの癇癪を眺めていた。それがまた怒りを増長させる。


「嘘つき! お前は大ウソつきよ!」


 ガシャンとマリアンヌは落ちていたカップを窓へと投げつけた。侍女の悲鳴と、割れるカップの音が重なり合う。


「ぜんぶ、ぜんぶあの女のせいよ!」


 いつからだろう。いつからあの女はダヴィドの心を奪ったのだろう。どうして彼は自分ではなくあんな女に惹かれたのだろう。


「きっと騙されているだけ。本当はわたしのことが好きで……あの女に何か脅されているだけだわ……」


 ぶつぶつと文句を呟くマリアンヌを、もはや侍女が止める術はない。もっと頼りになる別の使用人を呼んで来なくてはと彼女はマリアンヌから逃げ出すように部屋を飛び出した。


 そんな侍女に気づかず、マリアンヌは己の髪をかきむしる。


「嘘よ。嘘よ。これは悪い夢なのよっ……」


 あんなに愛してくれたのに。彼の子どもまで身ごもったのに!


「取り返さなくちゃ……わたしの愛する人を……」


 マリアンヌはダヴィドを愛している。そしてダヴィドもマリアンヌを誰よりも愛さなくてはいけなかった。


「待ってて、ダヴィドさま。わたしが元に戻してあげる……わたしたちの愛は永遠だもの……」


 誰にも邪魔はさせない。邪魔をするならば、その存在を消すまでだ。


 ふらふらと部屋を出て行くマリアンヌ。彼女を引き止める者は誰もいなかった。


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