20.再会
見間違いか、けれどイレーナは深く考えるより先に庭へと足を向けていた。もう日も沈もうとしている冬の外は凍えるような寒さだった。そんな中彼は動かぬまま、己の身体を木に隠すようにしてイレーナの方を見ていた。そしてイレーナとの距離があと二、三歩で埋まろうとした瞬間に帽子をちらりと上へと上げたのだ。
「お久しぶりです。イレーナ様」
「シエル。どうしてこんなところに……」
それにその格好……とイレーナはシエルの全身を眺めた。いつも清潔な服装を着こなしている彼が、今はひどくみすぼらしい、汚れた格好をしていた。まるで本当の庭師のように。
「実はその、伯爵には禁じられていたのですが、どうしてもイレーナ様のことが気になってしまい……庭師の見習いならば、ばれないだろうかと思いまして」
まじまじと見つめるイレーナの視線に耐え切れなくなったのか、シエルの頬が赤く染まっていく。
「そんな格好をしてまで、私に会いに来てくれたの?」
「……はい。きっとマリアンヌ様のことで、心を痛めていらっしゃるだろうと思ったので」
「シエル……」
彼の言葉に、イレーナはなぜか泣きそうになった。そしてそのまま彼の胸に飛び込んでいきたくもなった。
「心配させて、ごめんなさい。……それから、ありがとう」
彼の優しさが嬉しかった。だからこそ、自分は大丈夫だと伝えたかった。
「シエル。私、この屋敷を出て行くわ」
イレーナの突然の告白に、シエルの目が真ん丸と見開かれた。
「伯爵はマリアンヌ様と別れて私とやり直したいと考えているみたい」
はっとしたようにシエルの表情が曇る。シエルはダヴィドがマリアンヌを選んでくれることを期待していたのだろうか。
「マリアンヌ様がここを追い出されれば、彼女は一人でノエル様を育てていくことになる」
「伯爵のことですから、使用人を何人かつけるかとは思いますが」
「でも、ノエル様の父親は奪われることになるわ」
「それは……」
それでもシエルの表情は、ダヴィドの選択が正しいと思っているようだった。
「イレーナ様。伯爵と離縁するということは、どういう理由であれ、妻に非があったと世間からはみなされます」
「ええ、わかっているわ」
シエルが言いたいことはわかる。彼が自分に辛い思いをさせたくないということも。
「非難の目に晒されることも、覚悟の上です」
「……ここを出て、どうなさるのですか」
「リュシアンお兄様の所へ、しばらく置いてもらうわ」
本当は頼りたくなかった。けれどこうなった以上、力を貸してもらおうとイレーナは思った。きっとたくさん迷惑をかけるだろう。兄だけでなく、彼の周囲の人間や、この屋敷の使用人にも。けれどイレーナは自分の意思を貫き通したかった。
「ダヴィド様と、離縁する。たとえそれが叶わなくとも、もう私はここにいたくない」
自分の存在がマリアンヌを追いつめた。この屋敷にい続ける限り、彼女の苦しみは終わらない。自分もまた、そんな彼女の存在に苦しむことだろう。
こんな苦しみの連鎖は断ち切らなければならない。
「シエルも、いろいろ心配してくれたのに、ごめんなさい」
イレーナは頭を下げた。シエルの顔を見るのが怖かった。
「顔を上げて下さい。イレーナ様」
恐る恐る言われた通りにすると、シエルは困ったようにイレーナを見ていた。
「謝らなくていいんです。私が好きでやっているので」
「でも……」
「それから、私はイレーナ様の味方です」
勇気づけるようにシエルがイレーナの両手を握った。いつも手袋をつけているのと違う、むき出しの彼の掌は冷たく、それでいて温かいとイレーナは思った。
「あなたがどんな道を選ぼうと、私はそれを応援します。だから胸を張って下さい」
「……ありがとう」
謝って、お礼を述べてばかりだ。涙が出そうで、イレーナは必死に耐えた。
「もう、大丈夫」
そっとシエルの手を離す。顔を上げて彼に微笑もうとして、ふとイレーナはまじまじと彼の顔を眺めた。そのまま一歩距離を置き、彼の全身に目をやる。
「イレーナ様……?」
「こうして改めて見ると、あなたのその格好、案外よく似合っているわ」
「え」
それはどういう意味で? と困惑するシエルにイレーナは感心したように言った。
「庭師のような格好でも、あなたはきちんと着こなしているという意味よ。すごいわ」
「はぁ……それはその、ありがとうございます?」
「シエルはどんな格好でも似合うのよ」
イレーナがそう言って微笑むと、シエルの頬がまた赤くなった。
「イレーナ様。揶揄うのはやめて下さい」
「揶揄ってなんかいないわ。心からそう思うもの」
耳まで赤くなるシエルに、以前彼が自分を褒めてくれたことを思い出す。彼もまた今の自分のような気持ちだったのだろうか。じっと見つめるイレーナの視線から逃げるようにコホンとシエルが咳払いした。
「あの、それで、いつ、お屋敷を出るつもりですか」
「なるべく早く出るつもり」
日中出かけるとなると、必ず誰かが付き添いとしてついてくる。使用人たちにばれると、そのままダヴィドの耳に入る恐れもあった。となると、みなが寝静まった夜が一番いいかもしれない。
「でしたら私もお供します」
「それは……」
「夜半出かけるとなると危険です。それにどうやってお兄様のお屋敷まで行くつもりですか?」
「馬で……」
「危険です」
にっこりとシエルは笑顔で遮った。
「私がお供します。それならば、いいでしょう。それから事前にお兄様にも知らせておいた方がよいと思うので、私がその役目を引き受けてもよろしいでしょうか」
「……いいの?」
「はい」
イレーナは一瞬迷ったものの、覚悟を決めたように頷いた。
「シエル。どうか私に力を貸してください」
「はい」
もちろんです、と彼は騎士のように自身の手を胸へと当てたのだった。
その後シエルと決行の日を決め、イレーナは緊張しながらその日を待ち続けた。ダヴィドが相変わらずイレーナを説得しようと訪れるが、イレーナは気のない態度で早く帰るよう接した。
焦れたような彼の態度も、必死でイレーナの気を引こうとする態度も、屋敷を出て行くまでの辛抱だと思えば我慢できた。というよりも屋敷を出て行くことの方が気になってしまい、心ここにあらずの状態であった。
――まさか私がこんなことをする日が来るなんて。
自分の大胆さにイレーナは驚き、怖くもあった。けれどもう後に引くわけにはいかない。どこまでもダヴィドと闘うのだとイレーナはカップを手に取り、それが空であることに気づいた。心を落ち着かせようと何度も口にしていたらしい。侍女が今この場にいないのも、代わりのお茶を持ってくるためだろう。
扉が開く音がして、誰かが入ってくる。侍女が戻って来た。そう思ってそちらを見たイレーナは、ひゅっと息を呑んだ。
「お久しぶりですわ。イレーナさま」
そこにいたのは、ずいぶんとやつれ果てたマリアンヌの姿だった。
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