10.変わらぬ想い

「あなたとこうしてお茶をするのも、久しぶりね」


 ダヴィドがイレーナのもとへ頻繁に来るようになって、シエルの足は途絶えた。どうしているのかと伯爵に尋ねても、彼は忙しいのだとそっけなく教えられた。もっと詳細に知りたかったが、その前にシエルのことはもう聞くなと不機嫌そうに釘を刺され、彼の機嫌を損ねたくなかったイレーナは口を閉ざすしかなかった。


「シエルには、もう会わないでくれ」


 ダヴィドはひどく不安そうな、焦がれるような目をしていた。会うなと言われても、彼の方から出向いているのだ。もっと言うならば、伯爵が彼にイレーナの相手をするよう命じたはずだ。そう思ったが、夫の態度に圧され、イレーナはわかったと頷いた。


 それから、シエルに会うことはなかった。もう二度と会うことはないのかもしれない。せめて最後に挨拶くらいしたかったとイレーナが思っていた時、彼は現れた。


「伯爵は、何も言わなかった?」

「はい。マリアンヌさまの出産が終わるまで、しばらく代わりについていてくれと頼まれました」


 ――ああ、そういうこと。


 そしてダヴィドはしばらく訪れない。それにほっとしたような、胸が痛むような、いろんな感情が混ざり合った気分になった。都合がいい時だけシエルを利用することにも、罪悪感が募った。


「私のことならば、気にしないで下さい」


 シエルがイレーナを労わるように微笑んだ。けれどその優しさが辛かった。


「私が長いことお会いできなかったのは、家のこともあったからです」

「ご家族に何かあったの?」

「婚約を解消したんです」


 イレーナは言葉を失った。


「どうして……」


 まさか伯爵に何か言われたのだろうか。自分たちに関わったばかりで、こうなったのだろうか。青ざめていくイレーナに、シエルが安心させるように言った。


「こちらの家とは何も関係ありません。私と彼女の問題です」


 だがそう言われても、イレーナは納得できなかった。もっときちんと説明して欲しかった。


「シエル」

「……イレーナ様。以前、私が忘れられない人がいると言ったことを覚えていますか」

「え、ええ」


 シエルはイレーナをじっと見つめた。イレーナはそれに戸惑い、彼が何を望んでいるのだろうと思った。そんなイレーナの態度に、ふっとシエルが微笑む。


「彼女にも、私と同じように忘れられない人がいたようです」

「……だからあなたとの婚約を解消したいと?」

「はい」


 以前のイレーナならば、何も思いはしなかった。たとえシエルがどんなに優しい青年でも、容姿が優れていようと、彼の婚約者が彼と別れたがっている事実はイレーナには何ら関係のないことであった。


 けれど今は、シエルと別れたいと申し出た女性に対して僅かな苛立ちがこみ上げてきた。いったい彼に何の非があるというか。素晴らしい青年であるのになぜ他の男に目移りするのか――彼にも忘れがたい人がいるということも忘れ、イレーナは相手の女性を問い詰めたくなった。


 それだけイレーナにとってシエルは心を許した存在となっていた。いや、それも少し違う。今まで誰にも興味を持てなかったイレーナの心を、シエルが初めて揺さぶったのだ。それはダヴィドやマリアンヌとも違う、もっと特別なものであった。


 ――不思議な人。


「それで、あなたはどうしたの」


 イレーナは相手の女性を罵りたい誘惑を抑え、努めて冷静な口調で話の続きを促した。シエルはティーカップに注がれた紅茶にじっと目を落としたまま口を開く。


「私が婚約に乗り気でないことも、彼女は気づいていました。そして自分にも、好きな人がいると告白されました。それがきっかけで、彼女といろいろな話をしました。お互いの好きな人の話や、これからどうするべきか、何が正しいのかと」


 互いに婚約者であるのに、それぞれの好きな相手の話をする。


 一般常識に疎いイレーナでも、それはとても珍しいことだと思った。普通なら、気恥ずかしさとか、自分以外に好意を抱いている嫌悪感とかでなかなか素直になれないはずだ。イレーナだって、ダヴィドに自分のことを話すのは最初とても抵抗があった。今でも、そんな気持ちに駆られる時がある。それくらい難しいことなのだ。本来は。


「あなたはとても大人ね……」


 自分なんかよりもずっと。イレーナが感嘆したように言うと、シエルは違いますと首を振った。


「彼女が大人だったんです。自ら歩み寄ろうとしてくれた。それで、私も勇気が出せたんです」


 二人とも大人だと思った。自分には関係ないと逃げ続けていたイレーナとは違う。


「話し合って、婚約を解消することに決めたの?」

「はい。ずいぶんと、話しました。いっそお互い割り切って、愛人を持つという関係はどうかという提案も出ました」


 ですが、と彼は続けた。


「やはりすぐに無理だとお互いに思いました。そんな関係はいつか必ずほころびが生じる。誰かが必ず苦しい思いをするはずだと」

「……」


 二人の結論は正しい。


 イレーナたちがいい例だ。兄も、その例に漏れない。割り切ったつもりでも、一緒にいれば自然と情が湧いてくる。情が湧けば、相手が気になる。気になって、やがて執着する。執着は好意の証だ。好意を抱けば、自分以外といる相手に嫉妬して、身が焦がれるような苦しみを味わうようになる。そんなの、耐えられない。


「……では、あなたたちはお互いに別れて、それぞれの道を歩むことに決めたのね?」

「はい」

「ご両親は納得したの?」


 結婚は両家を結びつけるようなものだ。いくら当人たちが納得しても、双方の親が承諾するとは限らない。反対されてしまえば、そこで終わりだ。


「最初はもっとよく考えろと言われました。ですがもともと私は三男ですし、家を継ぐのは兄たちです。最終的には納得してくれました」

「彼女のご両親は?」


 シエルは男だ。それに彼はまだ若い。今回婚約を見送っても、まだ大丈夫だろうと彼の家族は考えたのだろう。


 でも女は違う。


 年齢を重ねていくたび、女性としての価値が失われていく。夫に抱かれ、子どもを産むという役割も果たせないままだ。そんな残酷な事実を知っている親が、娘の我儘を受け入れるだろうか。


「大丈夫です。彼女も末の娘で、両親にはとりわけ可愛がられているようで……泣きながら私との婚約を解消したいと願い出たら、おまえが本当に好きな相手と結婚しなさいと許してもらえたそうです」

「……そう」


 案外したたかな女性なのかもしれない。顔も素性も知らない相手にイレーナは呆れたような、尊敬するような、複雑な気持ちを抱いた。


「でも二人とも、すごいわね」


 自分たちで考えて、自分たちで行動した。そんな若い二人の行動力が、イレーナにはただただ眩しく映った。


 ――私はただ受け入れるだけだった。流されるだけだった。


 他に道がないと諦めていたこともある。でも心のどこかでどうでもいいときちんと向き合っていなかった。いい加減な気持ちで、今の現実がある。


 ――もっと抗えば、何か違っていたのかしら。


 だがそれはとても勇気のいることであった。失敗すれば、さらなる怒りを買えば――そんな戸惑いがイレーナの足を踏みとどまらせる。


「怖くはない?」


 シエルも相手の女性も、どうしてそんなに強いのだろう。自分とは何が違うのだろう。イレーナは知りたかった。


「……私も彼女も、まだ若いです。この答えはもしかしたら間違いだと他の誰かは指摘するかもしれません。それでも――」

「それでも?」


 イレーナを見るシエルの表情はとても穏やかで、澄んだ空のようであった。


「そばで支えてあげたいと、今は思うのです」


 ――ああ、彼はその人のことが本当に好きなんだ。


 シエルの真っ直ぐな気持ち。誰か一人だけをずっと想う気持ち。すれ違って歪んでしまう思いもあるけれど、彼のように汚れない、きれいな思いもあるのだとイレーナは初めて気づいた。


 たとえそれが自分に向けられるものだったとしても。


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