9.罪悪感

 夏の暑さもすっかりどこかへ行ってしまい、物悲しい秋の季節となった。もうすぐ、マリアンヌの子どもが生まれる。


「イレーナ」


 それなのに伯爵はイレーナのもとにいた。笑みを浮かべ、イレーナを見ている。二人は隣同士、最初では考えられないほど近い距離で話していた。


 近頃ではマリアンヌの呼び出しも、伯爵は無視するようになった。そんな彼の変化に、イレーナ自身が一番困惑していた。


「イレーナ。どうして私は貴女ともっときちんと話をしようとしなかったのだろうな」


 伯爵の言葉にも、イレーナは曖昧に微笑んだ。


「仕方ありませんわ。私は面白い話をしませんもの」

「貴女と話すのはとても楽しいよ」

「……そんなことおっしゃるの、伯爵くらいですわ」

「そんなことない。もっと自信を持ちなさい」


 真っすぐと褒められ、くすぐったくなったイレーナは目を伏せた。どんな言葉で返すかわからず、ありがとうございますと小声でお礼を述べる。


「うん」


 そんなぎこちないイレーナの態度すら、ダヴィドは愛おしげに見ていた。


「今度、仕立屋を呼ぼうと思う」

「何かお作りになられるんですか?」

「……貴女にもう一度、似合う服を」


 イレーナが思わずダヴィドの顔を見ると、彼は叱られた子どものような顔をしていた。


「以前贈った服は、貴女には似合っていなかった」


 すまなかった、と謝られ、イレーナはまじまじと見つめた。


 ――あの伯爵が謝るだなんて……。


 悪いものでも食べたのだろうか。かつて彼に言われたこととまるっきり同じことをイレーナも思ってしまった。


 けれど考えてみれば、イレーナも彼に謝った。素直にこちらの気持ちを示せば、伯爵も歩み寄ろうとしてくれた。ただそれだけのことかもしれない。


「あなたに頼まれた仕立屋は、きっと最高級のものを用意するでしょうね」


 冗談まじりにそう言うと、伯爵はほっとしたように安堵の表情を浮かべ、ニヤリと笑った。


「ああ。私の財産が底をつくほど、素晴らしいドレスを貴女に献上しよう」

「期待していますわ」


 伯爵とはずいぶんと打ち解けた。話をすれば、彼は皮肉屋な所があるものの、ユーモアのある話し上手な人であった。イレーナの拙い話にも興味を持ち、そこから会話を広げてくれる。気づけばもう以前のように嫌悪感を抱く人でなかった。


 けれど、だからこそまた別の感情が胸を支配する。


「ダヴィド様。そろそろ時間ですわ」

「まだ大丈夫だろう」

「……マリアンヌ様のもとへは行かなくていいのですか」


 彼女への罪悪感だった。本来彼女のものだった伯爵を、イレーナが独占している。もうすぐ子が生まれるであろう女性の最愛の人を。


 以前は嫌味で言っていた言葉も、今はただ不安と心配からイレーナはダヴィドに言った。彼は一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに安心させるように言った。


「彼女には他の人間がついている」


 だから今は貴女のそばにいたい。


 そっと伯爵の手が重ねられ、イレーナは彼を見上げた。思ったよりもずっと近くに彼の整った顔があった。黒い瞳は吸い込まれそうなほど魅力的で、熱を帯びていた。


 イレーナは怖くなって思わず立ち上がった。背を向けて、彼から距離を置く。


「マリアンヌ様は、あなたにいて欲しいのですよ」

「……イレーナ」


 振り返ると、ダヴィドが何か思いつめたようにイレーナに迫っていた。とっさにイレーナは後退る。それを見て彼は傷ついた表情をする。そんな彼にイレーナもまた苦しくなる。


「……わかった。今日のところは戻ろう」


 そう言って、彼は部屋を出て行った。マリアンヌのいる離れへ向かうはずだ。イレーナは外を眺め、伯爵のことを考えた。


 しばらくして庭へと出た。枯れ葉がくるくると舞って、地面へ落ちていた。池の水はやっぱりひどく濁っていた。イレーナから話を聞いた伯爵が、近いうちに庭師を雇おうと言っていた。貴女もどういうのがいいか、考えておいてくれ。そう言った彼の表情はひどく穏やかで、慈しむような優しい目をしていた。


 それらは本来、マリアンヌへ向けられるものだった。彼女一人だけのものだった。


「イレーナ様」


 いつかと同じように、イレーナに話しかける者がいた。そう言えば以前もこんな時があった。もうずいぶんと前な気がする。


 あの時のイレーナは、何も怖くなかった。伯爵や愛人のマリアンヌとは別世界にいたからだ。変わったのは、イレーナが彼らの世界へ飛び込んだからだ。それから、彼ら二人の世界が狂い始めた。


「ねぇ、シエル。私は間違っていたのかしら」


 兄の話を聞いて、変わらなくてはと思った。ダヴィドと、夫婦になろうと思った。だからそのために、彼と向き合った。それで彼と打ち解けることができた。嫌悪感はなくなった。それでも、本当に正しかったのだろうか。


「イレーナ様は、間違っておりませんよ」


 シエルの声は優しかった。


「あなたは逃げずに正面から伯爵と向き合った。それはなかなかできることではありません」

「……マリアンヌ様が、一度私を訪ねてこようとなさったの」


 シエルの息を呑む気配がする。


「それで」

「愛人のくせに何を図々しく押しかけてきたのだと、使用人たちが怒って追い出したわ」

「当たり前です」


 シエルの声は珍しく苛立っているように聞こえた。どんな顔をしているのだろうとちょっと気になったが、イレーナは確かめることはしなかった。落ちていた葉っぱを掴み、池へと浮かべた。ひらひらと舞って、濁った水面に波紋が広がってゆく。


「会うことはなかったけれど、声は聞こえたの」


 ――彼女に会わせて! わたしはダヴィド様の子どもを身ごもっているのよ!


「彼女にとって、私は愛しい男を奪った悪女なのよね」

「それはマリアンヌ様の方でしょう」


 そう。イレーナの世話をしている他の使用人たちもみなそう言っていた。奥様が気に病むことは何もないのだと。正式な手続きも踏まず、いつまでも図々しく居座り続けている女。旦那様を誘惑した悪女。しょせんは愛人。悪いのはぜんぶマリアンヌだと。


 ――でも、本当にそうなのだろうか。


「伯爵は変わらないと思っていた。私は彼と友人のような関係を築ければそれでいいと思った。跡取りはマリアンヌ様の子にして、彼女にもできるだけのことをしてやりたいと。それが一番の解決策だと思っていた。だから……だからダヴィド様は、ずっとマリアンヌ様を愛し続けて下さいと」


 でも、とイレーナは顔を覆った。


 ――イレーナ。どうか私を許してくれ。私は貴女のことを誤解していた。マリアンヌを優先するあまり、貴女の妻としての地位をないがしろにしていた。私は貴女のことが……


 ――ダヴィドさまはこちらにいらっしゃるのでしょう!? わたしに会わせて! 彼を返して!


 ダヴィドもマリアンヌも、変わってしまった。イレーナが二人を変えてしまった。


「私、いつも間違えてしまうの。いつも、誰かを不幸にしてしまうの。ぜんぶ、私のせいなの」


 ――おまえが男だったら、こんなことにはならなかったのよ。

 ――ぜんぶ、おまえのせいよ。


 声が聞こえる。火がついたように泣き喚く赤ん坊の声と、じっとりとした恨みのこもった声。伸ばされる真っ白な手。


「イレーナ様」


 腕を引かれ、イレーナははっとした。シエルの青が、真っすぐとこちらを見ていた。


「あなたは何も悪くありません。マリアンヌ様と関係を持ったのは、ダヴィド様です。彼は関係を清算することもなく、ずるずると彼女を屋敷に引き留めた。それなのにあなたと結婚した。妻にした。あなたがダヴィド様の愛を求めることは、当たり前なのです。責められるべきはダヴィド様で、あなたは被害者だ」


「でも……!」


 しっかりしなさい、と手袋をはめたシエルの手がイレーナの頬を撫でた。


「イレーナ様は何も悪くありません。ご自分を責めるのはおやめなさい」


 イレーナの心は酷く荒れ狂っていた。迷子のように出口を見失っていた。そんな中でシエルの声や空色の瞳は静寂を取り戻し、こっちだと手を引いてくれる道標だった。


「――ごめんなさい。取り乱したわ」


 もう大丈夫だと、彼の手から顔を逸らした。


「すみません」

「どうしてあなたが謝るの」

「いいえ。あなたがダヴィド様と話すよう勧めたのは、私ですから」


 馬鹿ね、とイレーナは微笑んだ。


「そもそも夫婦の問題を何の関係もない、赤の他人であるあなたに相談したこと自体、おかしいのよ。あなたが胸を痛める必要はこれっぽっちもないの」

「……イレーナ様は時々残酷なことをおっしゃる」

「どういう意味?」

「いいえ、何でもありません」


 ここは冷えるので部屋へ戻りましょう、と彼はイレーナの背を押した。


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