7.兄弟

 懐かしい人が、イレーナを訪ねてきた。


「イレーナ。元気だったか?」


 イレーナと同じダークブラウンの髪色をきれいに後ろで撫でつけた青年が微笑んだ。目元はイレーナと違ってほんの少し下がっているので笑うとさらに優しい印象を与える。イレーナの兄、リュシアンであった。


「久しぶりすぎて俺の顔を忘れてしまったんじゃないか?」


 朗らかな声に、イレーナは自然と口元に笑みを浮かべていた。


「お兄様ったら。相変わらずお元気そうで何より」

「お前はどうなんだ?」


 気遣う眼差しでそっとリュシアンはイレーナの頬を撫でた。


「少し痩せたんじゃないか?」

「いいえ。むしろ食べ過ぎてしまったくらいよ」

「ならいいんだが……おまえに結婚は荷が重いんじゃないかと心配だったんだ」


 イレーナの性格を兄であるリュシアンはよく知っている。


「お兄様こそ、結婚生活は上手くいっているの?」

「無事に、と建前でも言っておくべきなんだろうな」


 疲れたような笑みを浮かべる兄に、イレーナは眉根を寄せる。


「お義姉さまと……上手くいっていないの?」

「表では上手くいってるさ」


 見えないところでは上手くいっていないらしい。


 リュシアンは長い脚を毛の長い絨毯に放り出し、深く長椅子に腰かけた。イレーナの前だけで見せるくつろいだ姿だった。だが今はどこか投げやりにも見え、イレーナを不安にさせた。


「俺には結婚なんか向いてなかったんだろうなってこの頃つくづく思うんだ」


 イレーナは兄を慰めるように隣に腰を下ろした。


「そんなことないわ。お兄様はとても優しくて、紳士的じゃない」


 実際兄は社交界でいつも異性の視線を独り占めしていた。誰もが彼から結婚を申し込んで欲しいと、妹であるイレーナに近づく令嬢が大勢いたものだ。


「女を見ると、いつもあの人の姿が頭を過るよ」


 おまえもそうだろう? と乾いた声でリュシアンは言った。そうね、とイレーナは曖昧に頷き、テーブルへと視線を逸らした。


 冷めた紅茶に、母を連想した。何かを見るたびに母を思い出す。


「あの人の機嫌を損なわないにはどうしたらいいか、そればっかり考えてきた。おかげで女性の扱いにもすっかり慣れてしまったというわけさ」


 母には長いこと子どもができなかった。ようやく宿ったかと思えばそれは女の子で、イレーナだった。母の絶望は大きかった。その後も、女ばかりが生まれた。


 家を継ぐのは男。そう決めていた父はある日突然リュシアンを屋敷へ連れてきた。お前たちの兄だと言って。


 イレーナよりも三つ上の子ども。なかなか子どもができない母に隠れて、父はきちんと愛人に子を産ませていた。その事実を知った母の心は荒れ狂って、愛人の子だったリュシアンに辛く当たった。

 それでも決定的な間違いを起さなかったのは、彼が跡取り息子だと夫に釘を刺されていたからだ。


 非道な父を、母は愛していた。だから代わりに兄が母の憎しみを背負いつつ、その苦痛に耐えながら屋敷で育った。その姿をイレーナはずっと見てきた。


 ――かわいそうなお兄様。


「でも、おかげでお義姉様のような素晴らしい女性と結婚できたわ」

「そう、素晴らしい女性。俺の本当の母上ように、な」


 不安がよぎる。


「違うの?」

「魅力的すぎて、俺一人ではご満足いただけないようだ」

「そんな……」


 リュシアンの妻はイレーナもよく知っている。いかにも貞淑で、身持ちが固い女性に見えた。


「お兄様はそれを知って……どうするの?」

「どうもしないさ。見てみぬ振り、知らぬ振り、さ。まあ、子どもができたら考えないといけないけどな」

「……」

「それも俺の子であるか怪しいけどな」


 リュシアンがイレーナを見つめ、彼女はその暗さに胸がつまった。辛い立場に負けず、いつも照り返すように輝いていた兄の目。けれど今、その輝きはどこにもなかった。


 リュシアンとイレーナはたしかに兄妹だ。同じ血が流れている。けれどそれは片方だけだった。しかも母を狂わせた女の血がリュシアンには流れていた。その血に苦しめられ、自分はそうなるまいと彼はずっと逆らい続けてきた。それなのに――


「お兄様……」

「結婚って、人を好きなるって何なんだろうな、イレーナ」


 ――本当に……。


「お前に辛い思いばかりさせて……俺だけ安全な所にいて、それに報いるために頑張ってきたつもりだが、人の気持ちばかりは上手くいかない」


 俺なんかが兄でごめんな、というリュシアンの言葉があまりにも切なくて、イレーナはそっと手を重ねた。


「時々、俺は本当におまえの兄なのか不安になるんだ。父上の血すら、引いてないんじゃないかって。俺は誰か別の――」

「そんなことおっしゃらないで、お兄様」


 たしかに半分だけだ。でもリュシアンは間違いなくイレーナの兄であった。


「お兄様は私の自慢のお兄様よ」

「だが俺は……」

「たとえ確かな証拠がなくとも、どんな生まれであろうと、かけがえのない時を一緒に過ごした、ただ一人の私のお兄様よ」


 そう言ってちょうだいな、と懇願するように見つめ返せば、兄は困ったように肩を竦めた。


「そうだな、イレーナ。おまえの言うとおりだ。俺がどうかしていた。俺は間違いなくおまえの兄だ」

「そうよ。しっかりしてくださいな」

「ああ……ありがとう。俺が信じられるのは、もうお前くらいだよ、イレーナ」

「……いつも叱っていた婆やもよ」


 違いない、とようやく兄は屈託ない表情で笑ってくれた。



 それからひとしきり話に花が咲き、どっぷりと暗くなった頃、そろそろ帰るかと兄は腰を上げた。もう遅いし泊まっていけば、というイレーナの誘いにもリュシアンは首を振った。イレーナは寂しく思ったものの、いろいろあるのだろうとまた来てねと微笑んだ。


「イレーナ。辛くなったらいつでも帰ってきていいからな」

「お兄様。それでは私が伯爵と別れたがっているみたいよ」

「実際そうだろう?」


 お兄様……とイレーナは困ったように兄を見つめた。リュシアンの顔は真剣だった。


「伯爵は俺の訪問を知っているはずだが、とうとう挨拶に来てくれなかったな」

「それは……今は、お忙しい時ですもの」


 伯爵の愛するマリアンヌは、社交界では有名な人間だ。兄が知らないわけがない。そもそも知っていながらイレーナは嫁いできた。それは兄の一存というより、イレーナの父が決めたことだった。


「おまえには、辛い思いをさせた。もう、怖い思いはさせたくない。父上ももう昔のように若くない。俺が爵位を継げば、誰も文句は言えない……だから、逃げたいと思ったら、いつでも逃げていいんだぞ」


 そういって抱きしめてくれた兄に、イレーナは胸が締め付けられた。逃げてもいい。それは兄がずっと誰かに言って欲しかった言葉ではないかと思ったからだ。


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