3.生贄
それからもダヴィドは暇を見つけてはイレーナのもとへ訪れた。前回のように強引な行動はせず、少しずつ、距離を縮めようと世間話などをする。
けれどそれも、マリアンヌが呼んでいるという知らせで終わりを告げる。ため息をついて去っていく伯爵と、ほっと胸をなで下ろすイレーナ。そんな妻をちらりと見て、夫はまた来ると伝えた。
「無理していらっしゃる必要はありませんわ」
「……いいや。貴女は私の妻なのだから」
妻。ダヴィドにそう指摘されるたび、イレーナはまるで自分が頑丈な鎖で手足を繋がれているような錯覚に陥る。
――もう来ないでほしい。
ダヴィドがイレーナの元から去っていくたび、心がかき乱される。次はいつ来るのか。何を話すのか。また触れられたら今度こそ拒めない。どうすればいい。
――部屋にいなければ、彼と会うことはない。
イレーナは平穏を望んでいた。誰かに自分の心を荒らされるのはまっぴらごめんだった。
「イレーナ様。どこへお出かけですか」
今日はシエルが訪れていた。伯爵が訪れない日は、いつも彼がいる。
「公園へ。それから……買い物へも行くの」
散歩は貴族の日課だ。そして買い物へ行くのは、ダヴィドに贈られたものが似合わないからだった。あの突然の訪問以来、今まで何もしてこなかった非礼を詫びるように彼はイレーナに贈り物もするようになった。帽子や夜会用のドレス、手袋、ショール。どれも可愛らしいデザインのパステルカラーで、イレーナにというより、マリアンヌを想定して用意されたものに見えた。これらを着る勇気は、イレーナにはなかった。
――あの人には、何も見えていない。
結局伯爵は、マリアンヌのことしか頭にないのだ。そんな彼に心を開くのはひどく愚かなことに思えた。きっと、辛い思いをするだけだろう。
「お供します」
イレーナが支度の準備をしていると、シエルが当然のように言った。
「だめよ。あなたには婚約者がいるのでしょう?」
「ではお一人で行くつもりですか」
「ええ」
「私はダヴィド様にあなたにもしものことがないよう、言いつけられているんです。ですから、どうかおそばにいることを許してください」
懇願するように言ったシエルの顔を、イレーナはじっと見つめた。
「イレーナ様?」
「それは、嘘でしょう」
シエルは素直で、優しい。それゆえイレーナの言葉に動揺し、彼女の言葉が正しいと認めた。イレーナはそんな哀れな青年を慰めるようにふっと微笑んだ。
「あなたはあの人に、自分の代わりを果たしてくれと頼まれたのよ。自分はマリアンヌさまとよろしくやりたいから、寂しい妻の相手を、ってね」
別に珍しいことではない。もともとこの結婚も、家と家を結び付けるため、たっぷりと用意された持参金に広大な領地と屋敷を持つ伯爵が渋々納得してくれて成立したものだった。
そこにイレーナの美貌とか、若さとか、気立ての良さはまったく必要なかったのだ。そもそも伯爵にはすでにマリアンヌという愛しい女性が手元にいたのだから。
だからダヴィドが何より危惧したことは、イレーナが夫の愛をねだること。自分を愛して欲しい、マリアンヌのような愛人ではなく。そんな我儘を妻が言い出さないようにするため、ダヴィドは若くて美しい、代わりの生贄、シエルを用意したのだった。
勝手な人だ、と思う。都合のいい時だけ妻という役割を求めて、最愛の人が恋しくなったら手放して。イレーナが逃げ出さないよう、他に監視させる。
「ごめんなさいね、シエル」
こんなことを、あなたにさせて。
イレーナの謝罪に、シエルは雷に撃たれたかのように体を硬直させた。空色の瞳が真ん丸と見開かれ、やがて絶望したように暗く染まってゆく。
「なぜ……あなたが謝るのですか」
「他に好きな人がいるのに、私のような女を相手にしなければならないから……それは、とても辛いことだと思うから」
「私はっ……!」
「ほんとうに、ごめんなさい」
目を伏せて、もう一度イレーナは謝った。シエルは絶句したように、黙り込んでしまった。
「そういうわけだから、散歩も、買い物も、他の人に付き合ってもらうわ」
重い沈黙に耐え切れず、イレーナは早口で言った。できれば彼には部屋を出て行ってもらいたかったが、いまだ呆然としたように突っ立っているので、仕方なしにイレーナが立ち去ることにした。すれ違った際、彼はイレーナの手を掴んだ。けれど言うべき言葉が見当たらないようで、結局離してしまった。
イレーナは今度こそ、部屋を後にしたのだった。
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