『Life』

@Jqn

第1話

 大規模魔法によって築かれた高く堅牢な防壁が、その内に暮らす様々な人々を見守り続けている巨大都市———アルヒエンド。


 この街の別名は〝冒険者の街〟だ。またの名を〝迷宮都市〟とも呼ぶ。


 都市を中心として周囲に点在する幾つかのダンジョンや、大型の魔物が数多く棲息する人類未踏破エリア———〝大密林〟と隣接する危険地帯に、この都市は存在している。

 さらに、都市の地下に広がっている〝大迷宮〟と呼ばれる広大なダンジョンへの入口を街中に有し、様々な思惑で様々な人々が集い溢れる街。


 大迷宮を攻略するために築かれた拠点がどんどんと巨大化していき、いつしか街となり、そして都市となった。いにしえの遺物や記憶が、今もなお埋もれていると言われる場所。


 訪れる人々に富と名声を等しく与え、また容赦なく、そのすべてを呑み込む大迷宮を有したこの街は、世界唯一の独立都市でもあり、様々な国々から多くの人々が集まり、そして消えゆく場所でもある。


 多国籍。いや、無国籍と呼んだ方が相応しい。但し、無法地帯ではない。

 様々な文化と人種とが秩序を保って共存している、非常に活気に溢れた都市だ。

 それがアルヒエンド。はじまりと終わりを告げる街とも呼ばれている。





 街の中心部から東西南北へと伸びる大通り。その通りを分断するように流れる大きな水路と、無数の馬車が行き交う街を見渡せば、様々な系統の衣服を身にまとった様々な人種の人々が混沌と行き交っている様子もうかがえる。

 地域的な身体的特徴を持った様々な国から訪れる人族を始め、動物的特徴を色濃く持った獣人族。森の王族と謳われる耳長族。酒と鍛冶を愛するドワーフ族など、実に様々だ。

 幼い子供から、腰の曲がった年寄り。若い冒険者や恰幅の良い商人。騎士と貴族や、どこかの王族。華やかな踊り子や妖しい奇術師。大所帯の旅の一座。大人しい種となる動物や魔物の販売をしている業者もあれば、騎獣と呼ばれる馬車引く中型の魔物を取り合っている店もある。年齢や職業を見ても多種多様な人々がこの街には溢れている。また、誰かのペットや野良の小動物の姿も多く見受けられ、上空を見上げれば色鮮やかな鳥の群れが飛び交っている。


 建築様式は様々で、統一感などは既になく、改築と増築を繰り返した形跡が随所で見られ、建築様式などクソ喰らえと言いたげな建物も多い。ただ、大小様々な水車が多い街として、この都市は有名だといえる。

 今まさに新築の建造物が打ち立てられている場所も街の各所に点在し、人口が増えるに連れ、建物の高さは増していくばかりだ。


 巨大な商店や宿。貴族が住う邸宅。高い尖塔が特徴的な教会。大衆が集う飲食店や娯楽店。手入れの行き届いた庭園や広場。怪しい露天が立ち並ぶ路地や、欲望渦巻く歓楽街。地下に向かって掘り続けられている共同地下墓地。網の目のように街の至る所に流れる水路と、そこに架かる橋。長閑のどかな音を奏でて回り続けている水車。


 とにかく、色彩豊かで猥雑わいざつで、様々な音色に溢れ、日陰も多く隘路あいろも多い街並み。それがアルヒエンドだ。






 そんな街での生活も、早くも一年が過ぎようとしていた。

 生まれた土地を離れ、この巨大な都市を訪れ、そして冒険者として働き出して一年。下積み時代もそろそろ卒業か、といった頃のことだった————






 虫のが絶え間なく響いている深い森。樹上から見上げた夜空には、二つの月が、今宵も浮かんでいた。


 大きな赤い三日月はレヴェア。小さな水色の上弦の月はターム。それぞれが火と水の女神の名を冠した美しい月だ。その周囲を彩る満天の空は、まるで宝石を散りばめた黒衣のドレスのように輝いている。

 無数の星々が集まり、川のようにも見えるその光景は、息を呑むほどに美しいけど見惚れているわけにもいかない。何故ならここは、危険な大密林の一画なのだから。


 じりじりと足元から這い上がってくるような不安を吹き飛ばすように、呼気を短く吐き出す。その音で、暫く前から肩で羽を休めていた細長い昆虫が大きな翅を広げ、ふわりと肩から飛び立った。

 折り畳んでいた翅は広げると蝶のように大きく優雅だ。羽ばたくと全体が仄かに白く発光する美しい昆虫はその長い尾を、まるで残光のように残しながら、ひらり、ひらりと波間を泳ぐように飛んで行く。その様子を眺める。そうして心気を落ち着かせると、左手で女神に捧げる聖印を描き、目蓋を閉じ、右手の掌を、天へと掲げるようにして持ち上げた。


「女神ステルニクスよ。幼き少女の願いを叶えるため、わたしに闇に潜む力をお与えください」


 ————煩いほどに虫の音が響く中、風を切るような音が、一瞬聞こえた。


 その瞬間、願いが聞き入れられたことを自覚する。ゆっくりと目蓋を開くと、掌に乗せていたはずの五枚の銀貨は、忽然とどこかに消えていた。


 種族柄、夜目は利く方だ。月明かりがある今宵は、視界に問題はない。

 聴覚と嗅覚も人族より優れている自信はある。周囲から聞こえてくる音の中に不穏な成分はなく、おかしな匂いもない。大丈夫、周囲は安全だ。


 下を見下ろし、下手すれば骨折するほどに高い樹上から飛び降りる。種族柄、高所からの着地は得意だ。一〇メートルほどの高さなら特に問題はない。

 腰から提げた剣の鞘を地面と水平になるよう押さつつ着地すると、枝を踏み抜く感触が足裏から伝わった。けれど、耳にはあるかなきの微かな音だけが届いていた。状況から得られるはずの情報と聴覚で感じた情報に大きな差異があることを図らずして認識すると「よし」と小さく呟く。その声も、殆ど耳には届かなかった。女神様から与えられた加護のお陰だ。


 時刻は午前三時頃。空がうっすらと色付き始めるまで、あと一時間といったところだ。

 そんな時間になるまで暗く危険な森の中に潜んでいた理由は、冒険者として依頼を受けたからだ。そして、討伐対象が寝静まるのを待っていたからになる。


 依頼主は幼い少女。その対価は銅貨一枚。一〇〇ルクス。という、あり得ないほどに破格の安さだ。でも、時にはお金より大事なものがあると、ぼくは思っている。


 背中に背負う鞄の革ベルトを身体にしっかりと巻き付けると腰の鞘から剣を引き抜く。

 使い慣れ、修繕を繰り返してきた、この一年間ぼくの相棒として共に働き続けてくれた両刃の剣を眺める。致命的な傷みがないかを、細い筋となって降り注ぐ僅かな月明かりに照らしながら確認すると、前方に延々と広がっている深く暗い森を進み始めた。


 鬱蒼と草木が生い茂る道なき道に獣道が現れ、それが次第に小道へと変わる。進むに連れ、次々と様々な昆虫が飛び立ち森の奥へと消えて行く。その微かな羽音はしっかりと耳に届いていた。

 草木を掻き分けるよにして進んで行くと自然の匂いに満ち溢れた清浄な大気の中に、不快な成分が微かに混ざり始めた。

 煩いほどに虫の音が響く中、極力音を立てない動きで進み続けていると、目当ての場所はすぐに視界に入った。


 低い位置に見える、枯れた枝葉や草などで作られた簡素な壁と屋根が七つ。その中央付近の地面からは細い煙が立ち昇っていた。

 少し右へと移動して焚火の状況を確認してみると、微かに残る火種が、小さな赤い光を発しているのが見えた。その他に光源となるものは周囲にはない。その場所の上空を覆う、背の高い樹々の枝葉で一画は漆黒の闇と殆ど変わらないはずだ。でも、ぼくには見えている。


 息を殺して慎重に歩みを進める。

 耳を澄ませ、邪魔な虫の音を意識から排除しながら、屋根の下から届く微かな寝息だけに意識を集中させた。

 入口側からチラリと中の様子を窺う。そこで寝ていた三体の影を見て、別の屋根を目指して素早く移動する。


 鼓動が徐々に高まっていた。焦る気持ちと不安を押し出すように、一度大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出していく。


 三つ目の屋根の下に、最初に倒そうと狙いを付けていた魔物の姿を視認した。その時、開口部のすぐ傍に転がっていた錆び付いた剣が目に止まった。その剣を、そっと手に取ってから、入口から反対側の壁裏へと回り込んだ。


 細い枝と枝の隙間から剣の切先を差し入れ、狙いを定めると、一気に体重を掛けて魔法を使う厄介なゴブリンの胸を貫いた。くぐもった声が上がり、暴れた拍子で屋根が崩れ落ちる。こちらの存在を明確に認識される前にその場から素早く離れ、別の屋根の影に身を潜めた。


 ぎゃあぎゃあと耳障りな声が森に響く。ぞろぞろと屋根の下からゴブリンたちが姿を現す。消えかかっていた焚火に枝が足され、仄かな灯りが闇を少しだけ遠ざけた。


 それぞれが武器を手にし、周囲を警戒するゴブリン。遠くに小石を投げて音を立てると、視線はそちらへと集中した。


 勢いを増している炎により生まれた濃密な闇の中を進み、無防備な背中を晒しているゴブリンへと手を伸ばした。顎を持ち上げるようにして身体を反らした瞬間、その背中に剣を突き立てる。

 左手で口を閉じさせたままズルズルと引き摺るようにして後退し、力を失いつつある身体を移動させ死角となる場所に静かに横たえる。そうして闇に乗じて移動して、また別の個体を静かにたおした。


 三体を斃し、残りは十二体。

 騒ぎ立てているゴブリンを横目に見ながら森の中を素早く移動し、一番背後側に立っていたゴブリンの背中に静かに剣を突き刺した。

 その瞬間、別のゴブリンがこちらへと視線を向け、声を上げた。しまったと思いつつ、剣を突き刺していたゴブリンの背中を蹴る。その力を利用して突き刺さった剣を引き抜きながら、同時に拾っていた剣の柄に左手の指を掛け腰のベルトの隙間から引き抜いた。直後には、左の一体に向かってその剣を突き入れていた。そこからは、乱戦の始まりだった。


 振り下ろされる棍棒を受け流して左手の剣をその腹部に突き入れ。引き戻した腕で振り下ろされていた剣を受け止めると、下から跳ね上げた右手で握る剣でゴブリンの腕を切り飛ばす。

 直後、横に飛んで地面を転がる。左肩を掠めた槍に注意しながら目の前に迫ったゴブリンと入れ違うようにして右を抜け、その胴を薙ぎ払う。

 上空に跳び上がっていたゴブリンが上段から棍棒を振り下ろす。逆手に握り変えた左手の剣で受け流し、その背後から突き出された槍を右手の剣で払い除け、後ろに跳んで距離を離した。


 気付けば炎が大きくなっていた。パキパキと枝が爆ぜる音が聞こえる。

 崩れた屋根などが薪として投げ込まれたようだ。夜目が利くという優位性はもう殆ど存在しない。優位性があるとすれば、女神様から一時的に与えられた加護によって、殆ど音を立てずに移動ができ、闇に紛れることができるくらいだ。ただ、その有効期限はそう長くはない。


 二体一組となったゴブリンが連携しながら次々と襲い掛かってくる。

 突き出される剣を受け流すと、そこに二体目の斬り下ろし攻撃が放たれる。それを身を引いてかわす。すると直後には剣を振り下ろしたばかりの二体目の頭上を掠めるような位置を剣が抜け、横薙ぎの攻撃が迫った。

 付け入る隙の少ない動きだ。無理をすれば反撃は可能だけど、下手をすれば深傷を負う。そうなれば一瞬で殺されかねない。暫く躱すことだけに専念し、大きな隙が生まれるのを待つしかなかった。


 種族柄、素早く動くのは得意だ。そのうえ体格も小柄な方だ。それに、一年間、いや、その前から身体だけは鍛え続けている。体力にもそれなりに自信はあった。


 全体を俯瞰ふかんするような意識で三組六体。三位一体といえる動きを正確に把握する。視覚だけじゃない。聴覚や、経験からくる直感的なものをフルに動員し、頭の中に六体の動きを思い浮かべながら最善の一手を選択していく。


 囲まれてしまわないよう退がりながら攻撃を躱し、受け流し、蹴り、斬りつけ、時には相手の懐に飛び込むようにして攻撃を躱す。一度に襲い掛かるには無理のある数を逆手に取り、その死角を上手く利用し、同士討ちを誘うような動きで躊躇いを芽生えさせる。


 決定的な反撃のチャンスは未だない。流石は大密林で生き抜いているだけのことはある。他の土地のゴブリンより数段は連携の練度が高く明らかに強かった。でも、それは想定内のことだ。


 ならばと、さらに後退しながら徐々に暗い森の中へと相手を誘い出していき、そうして草木が生み出す闇に溶け込むように身体を低くして素早く駆け、太い樹木の陰に身を潜めた。すぐに腰に提げていた皮袋を手に取り水を一口含む。喉はカラカラだった。これでまだまだ戦える。その場所から様子を窺い続け、視線が外れたとこで体勢を低くしたまま飛び出して別の木の陰に飛び込んだ。


 暫く様子を窺っていると二体が集落の方へと走った。残った二組は周囲を警戒しながら退がっている。それを認識した時には森を回り込むように走り出していて、焚火に手を伸ばしていたゴブリンに側面から襲い掛かっていた。一体は炎の中へと背中を踏み倒し、踏み倒したゴブリンの背中を踏み台に前方に跳び、もう一体の首を貫く。


 人族より優れた聴覚によって背後から迫る足音を認識しながら、首に傷を負ったゴブリンを地面に蹴転がし、炎を纏いながら地面をのたうち回って火を消そうとしていたゴブリンに一瞬視線を向けた。武器は持っていない。簡素な衣服に移った火も消えてはいない。まだ大丈夫だ。

 振り返り様に右手の剣を下から跳ね上げる。粗末な造りの屋根や壁が宙を舞い、それで僅かに時間を稼ぐことに成功する。地面を転げようやく火を鎮火させ今にも起き上がろうとしていた一体に素早く駆け寄ると左手の剣を突き刺した。


 残りは四体。ここまでくれば勝ちが確定したと言ってもいい。油断はしないけど、心に余裕が生まれるのは感じていた。


 槍を使う一番厄介なゴブリンをどうにか無傷で斃し終え、その相方として煩く動き回っていたゴブリンも斃した。残った二体と向かい合う。バクバクと煩いほどに鳴り響いていた鼓動の音が鎮まっていくのを明確に意識していた。


 勢いを弱めた炎が、森の樹々を淡く照らしているのが見えた。

 虫の音も聞こえている。大丈夫だ。周囲に異変は感じられない。

 呼気を整えて一歩踏み出す。顎先から滴った汗が踏み出した脚の太腿で弾けた。

 二体はじりじりと後退しながら棍棒と錆びた剣をそれぞれに構える。

 右へと動く素振りを見せ、左手の剣を投げた。金属質な音が響いた頃には棍棒を受け流しながらゴブリンの胴体を薙いでいた。


 投げた剣を受け損ね肩に浅い傷を負った最後の一体となったゴブリンが奇声を上げる。

 叫んでも無駄だと一歩踏み出すと、ゴブリンは背を向けて走り出した。その背中を視線だけで追っていると、空がかなり白んでいることに初めて気付いた。二時間以上は戦っていたようだ。


 戦闘はもう終わりだ。あとは戦利品を回収し、討伐証明部位を剥ぎ取って村に戻ればいい。ゴブリン一体を見逃したところで特に問題はない。この森では長くは生きてはいけないからだ。荒い息を吐き出してから腰の鞘に剣を納める。


 その後、ゴブリンたちが掻き集めた戦利品の確認をしていると、逃げたゴブリンのものと思われる声が遠くから響いた。早速別の魔物にでも出会したかと身構えていると、闇を横切る影が一瞬見えた気がした。目を細めるが、足元の炎が強すぎて森の奥が見通せない。数歩、横に移動しながら視線を向け続けていると、闇の中にキラリと光るものが見えた。


 焚火の炎をその瞳に宿らせた双眸だった。ぼくの目線よりもかなり高い位置で煌めき、炎に照らされて分厚い胸板が赤く浮かび上がった。

 太い腕の先には立派な片刃の剣が握られていた。その背後に、無数に連なる影が、赤く色付きながら暗い森の中に浮かび上がり続けている。


 新手のゴブリンの一団だった。

 しかも、先頭の一体はゴブリンの上位種だ。今のぼくには荷が重い相手としかいえない。



 ————この依頼を受け、依頼主である少女が暮らしている村の大人たちから話を聞いた時、ゴブリンの個体数は十数体だろうと聞いていた。まだ明るいうちに確認してみたけど、それは間違いなかった。まさか、別の集落が近くにあるなんて、考えてもいなかった。もしかするとさらに別の集落が近くに幾つか点在しているのかもしれない。もしそうだとするとそれは由々しき事態だ。一刻も早く街へと戻りギルドに報告するべき案件になる。


 そう、頭ではわかっていても身体は動かなかった。


 このまま引けば、少女が住む村が襲われてしまう危険性が高いからだ。いや、確実に襲われると考えた方がいい。ぼくが逃げ切ったとしても、それは起こる。無理して知らない場所を進めば回避できるかもしれないけど、ゴブリンは仲間意識は強い魔物だ。この状況ですんなりと忘れてくれることなどはない。人の集落を探してかたきを取るべく動くはずだ。


 他に現状を打開できる方法を考えてはみたけど、やっぱりダメだ。打つ手がない。

 ゴブリンの集団を引き連れたままでは戻ることはできない。だからといって遠回りして森を抜けるもは余りにも危険だ。他の魔物と遭遇でもすれば、ぼくの命など一瞬で散ってしまうだろう。ここはある意味、ゴブリンの縄張りだったからこそ安全な場所だと考えた方がいい。


 淡い炎に照らされた一団は三〇体ほどだった。その中で、ぼくを威嚇するように特に騒いでいた二体がいた。


 一体は左肩に真新しい傷を負っていた。投げた剣を受けた時に負った傷で間違いない。その隣りの個体は怪我などは負っている様子は見受けられなかったけど、この場所に来て、一番最初に覗いた屋根の下で寝ていたゴブリンと、まったく同じ格好だったことに気付く。

 どこかの時点で仲間を呼びに走っていたのだろう。まさか、まだ数が多い時点で逃げ出す個体がいるなんて、考えてもいなかった。ゴブリン最大の脅威はその数だ。数的有利の時は、残虐に、獰猛に、殺戮を楽しむように向かってくるのが普通なんだ。


 状況は絶体絶命。逃げることはできない。仮に逃げたとしても高い確率で死ぬ。

 銅貨一枚の依頼にしては、あまりにも厳しい状況だった。

 けれど、受けてしまった以上、ぼくにはゴブリンを斃す義務がある。喩えそれが正式にギルドを介していない依頼だったとしてもだ。斃してくるよと、あの幼い少女と約束したのだ。いまさら背中を見せて逃げるわけにはいかない。




 ————想い描け




 不意に、頭の中で時折り聞こえることがある、不思議な声が鳴り響いた気がした。

 その声に突き動かされるようにして剣を構えながらじりじりと横に動き、地面に転がっていた錆び付いた剣を拾い上げた。そうして、死地へと自ら飛び込み、激しく長い戦闘を開始させた。







 もう一歩も動けないほどに体力を消耗し、視界も霞んで、周囲の状況があまり見えないほどに視力も、精神も、全てが疲弊していた。


 気が付けば、朝陽は地面から顔を出し、植物と小さな生命に溢れた世界を黄金色に染め上げていた。


 森を漂う白い靄が明るく照らされ黄金色に染まっている。樹木から伸びる枝葉の若葉は色付き、朝露を纏う小さな草花はキラキラと輝いている。森の至る所に木の影が伸び、深い陰影を刻んでいる。その中をヒラヒラと舞う昆虫が漂い、そして影に呑まれ見えなくなった。


 右肩には割と深い傷を受けて血が流れ続けていた。

 右目の視界だけが赤いのは、上位種が放った一撃を受け切れなくて額のすぐ上を斬られたからだ。そこからも血は流れ続けていた。頭頂部に在る大事な耳が傷モノにならなかったのは不幸中の幸いだった。

 身体中あちこちが痛むのは、棍棒の打撃を無数に受けたからだ。特に、左腕の痛みは酷い。盾として使わざるを得ない場面が多かったからだ。それでも骨も折れることもなく、ぼくは生きている。至る所に斬り傷も受けてはいたけど、その血は既に止まっていた。どうにか紙一重で躱し続けることができた証拠だ。どれかひとつでもまともに受けていたら、ぼくは生きてはいなかったかもしれない。


 そんな状態の全身を見下ろし、溜息を呑み込む。新しい服を買うだけでも大損だ。

 でも、やってよかったなと、地獄絵図としかいえない周囲の光景を見て思っていた。

 これだけの数がいたならば、今日、明日にでも人里が襲われていてもなんの不思議もない。ゴブリンは人族の女性を好んで襲うという恐ろしい習性を持っているからだ。


 拾った錆び付いた剣は早い段階で折れた。長い時を共に過ごした相棒も、修復が不可能な状態へと圧し折れてしまい、満身創痍で半死半生な状態に近かったけど、それでもぼくは生きていた。


 生きている。自分でも不思議なくらいだ。


 視界がうまく利かない中、周囲から聞こえる音に不穏な成分がないことを認識しながらも暫く立ったまま動けなかった。

 やっと終わったのだと、迫り来る脅威がないことを確信できるまで立ち続けていて、気が抜けた瞬間に両膝から崩れ落ちた。でも、身体を倒すわけにはいかない。地面に転がりでもすれば二度と立ち上がることができずに、そのまま眠りに落ちてしまうだろう。それは死を意味するといっていい。


 使っていた剣よりも高価そうな、刀身に少し反りがある片刃の剣が霞む視界に収まっていた。その遥か前方には燻る煙を上げ続けている焚火の跡がある。

 近くにあったその剣を拾い上げ、杖代わりに身体を起こす。拾った剣の状態を確認しようと、痛み続けている両手を持ち上げていた時だった。


「ちょっと、なんてことしてくれたのよ!」


 森の中にそんな声が響き渡り、思わず首を竦めていた。

 何かが近付く気配すら、まったく感じることができない状態だったことに、その時に初めて自覚することになったんだ。


 ドクドクと煩く鼓動する心臓の音が聞こえる中、慌てて振り返った動作はすごく緩慢で身体が思うように動いていなかった。そうして視線をようやく巡らさせた先の、霞んだ視界の中には幾つかの朧げなシルエットが浮かんでいた。

 その方向から突き進んで来る誰かの姿がある。何もできないままに目を細め、目の前へと立った人に胸ぐらを勢いよく掴まれた。胸ぐらを掴まれたことで踵が地面から僅かに離れる。そのまま全体重を預けてしまいたい欲求に苛まれている中、その人は口を開いていた。

 至近距離となっても霞んでいてその顔がはっきりとは見えてはいなかった。その女性の背丈は、ぼくより頭一つほどは高かそうだった。ただ、視線はそれほど差はなかった。ぼくの方が一段高くなったような場所に立っているからだ。


「私たちが受けた依頼を横から掻っ攫うなんて、いったいどういうつもりよ!」


 声を荒げた女性の手を、痛み、あまり力が入らない腕を動かして、どうにか払い除けると、視線を僅かに上げながら口を開く。手が離れた瞬間、膝から崩れそうになったけど、右手で持った剣を支えにしてどうにか倒れることだけは免れていた。


「言い掛かりはやめてくれ。こっちは疲れているんだ」


 普段ならもっと、柔らかい口調や態度で人には接するけど、相手が同業者なら話は別だ。へたに下手に出ると今後の活動に支障が出るし、悪い噂でも広まってしまえば、これまで地道に築き上げてきた信頼や信用を失うことに繋がりかねない。そうなれば、まだまだ駆け出しといえる冒険者にとっては命取りとなる。


 ぼくが受けた依頼は、確かに正式なものではない。でも、その依頼を受けた場所はギルドの中だったし、その話の内容はギルドの受付嬢のお姉さんも全てを聞いていた。正式じゃない理由は、単に少女にお金がなかったからにすぎない。だから非公式とはいえ、ぼくが少女の依頼を受けて、この場所に来たことはギルド側は認知している。それが一人だけだったとしても、認知はしている人はいる。


 目の前の女性が誰からの依頼を受けて、ここまで来たのかは知らない。けど、ぼくが街を出るまでは、この場所のゴブリンを討伐する依頼はなかったのは事実だ。あったのなら迷わず受けてここに来ている。


 正式にギルドから発行された依頼書を見せ、ぼくの行為が規約違反だと言い募る、弓を片手に持った女性。

 依頼があることを知っていて行動に移していれば確かに規約違反にはなる。けれど、依頼が発行された日付が今日の日付だったのを見て、一足遅かったなと鼻で笑っておくことにした。


「生憎、オレが北の村の住人から依頼を受けたのは昨日の朝のことだ。文句を言うのは御門違いってヤツだろ?」


 女性が持っていた依頼書。その依頼主は少女の住む村ではなく、南にある村からとなっていた。

 全部で五人くらいいそうな女性たちには悪いけど、ここは引いてもらうほかない。


 その場合、彼女たちの依頼は失敗扱いにはならないので移動に掛かった経費は出るし、ギルド側からも行き違いがあったことに対する謝意金が支給されるはずだ。無駄足だったことにはなるけど、失敗ではないのだ。めくじらを立てるほどのことでもないはずなんだ。


 でもまあ、目の前の女性が声を荒げる気持ちもわからないでもなかった。

 ぼくと同じで、同業者に舐められたりしたら冒険者は終わりだと思っているからだろう。女性なら尚更、その気持ちや危惧感は強いのかもしれない。彼女の行動はパーティのリーダーとしてならば当然の行為だ。ここで何も言わずに立ち去りでもすれば、今後は依頼を掠め取ってたとしても文句も言えないパーティだと、そうレッテルを貼られてしまうことに繋がりかねない。


 でもだ。終わってしまったものはしょうがない。それに、わざとやったことでもない。行き違いがあっただけの話だ。だから別の道を提案してみることにして口を開いた。今からこの場所で魔物を探して討伐し、その成果を手に街に戻れば収入はさらにプラスにもなるんだ。そう提案してみると勢いよく拒絶され、話は平行線のままに続いていくことになる。


 険悪といえる空気感で話は続いているけど、怪我の手当てくらいは許されるだろうと、戦いの最中に投げ捨てていたバックパックを拾いに行き、先ずは肩の治療から始めた。深夜から戦い通しでおよそ六時間。声を張るのも億劫なほどに疲れているのに、正直勘弁して欲しかったのは事実だ。


 暫く無駄としかいえない話を交わし、このままじゃ埒があかないと話を遮るように口を開いた。


「わかった。じゃあ、こうしよう」


 討伐証明を回収するのを手伝ってくれれば、六人で共闘して依頼を達成したことにしてもいい。但し、戦利品は全てゴブリンを斃したぼくのもの。そう提案した。

 そうすれば彼女たちも報酬と成果を手にできるし、当然ぼくも依頼を達成することで支払われる報酬を六等分した金額を受け取れることになる。そんな提案をした瞬間「巫山戯ないで!」と怒鳴られたけど、ほかに良い方法はないと思っていた。


「口裏を合わせるだけで済むだろ、何が不満なんだよ?」

「そんなの不正じゃない!はいわかりましたって言えるわけないでしょ!」

「……あ、そう。じゃあ残念だけど」


 視界が朧げなままに会話を重ね、結局交渉は破談し、女性たちは不機嫌さを隠そうともせずに去って行った。


 身体はまだ重いし、視界も不明瞭だけど、話をしている間に体力は少し回復した。傷の応急処置も安全といえる状態で行えたし、決して無駄な時間じゃなかったと思っておこう。いや寧ろ、現れてくれて有難いくらいの気持ちはあった。もし、彼女たちよりも先に魔物が現れていたらぼくは…。


 もう少し、喧嘩腰じゃなかったら別の結末もあったかもしれないのになと、討伐証明や戦利品を手早く回収して、溜息を吐き出してから森の少し先にある小さな村を目指した。

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