風の末には―新選組前夜咄―

麦原穣

第1話

風の末に辿り着くのは、剣の境界の彼岸か此岸か。


それは後に幕末と呼ばれる時代のこと。

京の都は動乱の最中にあった。

今日も儚い月明かりが照らす路地に、不逞浪士の死体が二体転がる。

彼らは先程商家に押し入り、抜身の刀を振りかざしながら金を貸せと喚いていた。そこで折悪しく巡察中の新選組と遭遇し、逃走を図っていたのだった。

彼らを斬り倒した若者は、浅葱色の袖口に白いだんだら模様を染め抜いた羽織を翻し、足元の死体を一瞥もせず、月を見上げながらフッと息を吐いた。

そしてそっと呟く。


「いつかあなたに、地獄で会えるね」


   


文久二年(一八六二年)、沖田総司十九歳の春。


満開の桜の花を散らしそうな、強い風が吹く日だった。

総司が洗いたての道着や袴を竿に通して両端を柱に掛けると、バタバタと勢いよくはためく。

「総司、総司!」

衣類のシワを伸ばしながら振り向くと、苦々しげにこちらを見る男が一人、縁側に立っていた。

「あれっ、もうそんな時間ですか。土方歳三センセイ」

「センセイはヤメロ。なんつーカッコだよ、仮にも師範代が」

先生と呼ばれた男がそう言って、そばにあった下駄につま先をひっかけた。総司は現在、尻っぱしょりにたすき掛けという、剣術道場の師範代とは到底見えぬ出立ちである。

「仮じゃないですよぉ、もうすぐ終わるので…あ」

総司が特に不満げもない口調でそう言いながら持ち上げた洗濯物のたらいは、土方の手にさらわれた。


間もなく、二人は道場につながる母屋の廊下を歩いていた。

踏み出すごとに薄い床板がキシキシと鳴る。

総司はひと仕事終えた爽快感のある表情で、 

「ありがとうございます土方さん。あなたが手伝ってくれるなんて珍しすぎて雨が降らなきゃいいですけど。イヤ槍が降るかもなぁ」

「……おまえはいつも一言多い」

「何がです?何が多かったです⁇」

「うるせぇ」

土方がどうでもよさそうに流しながら、

「早いところ花の姿を拝みてぇじゃねぇか」

そう言うと総司はニヤニヤと、

「うわキッザ」

とつぶやいた。

土方の言う花とは、今日この『試衛館』にやってくる新しい女中のことだ。

試衛館は、当時の江戸の片隅の市ヶ谷柳町にある剣術道場だった。天然理心流という流派を掲げていて、総司は九つの時からここに内弟子として住まっていた。

沖田家はもともと白河藩に仕える定府(江戸常勤)の武家だったが浪人となり、経済状況の悪化から末子の総司を試衛館に預けたのだ。悪く言えば口減らしなのだが、婿を迎え家を継いだ長姉のミツ夫妻との関係は今でも良好である。

だから長年試衛館に住んでいる総司は家事など慣れていたし、ここ数年は何人かいる食客たちと分担しているので、今さら女中を雇うこともないと思っていたのだが−–−

その女性は、ここの師範である近藤勇と隠居したその養父・周斎の旧知の忘れ形見らしい。

若い女中が来るということで道場の男どもはここ数日色めき立っていて、土方もその一人なわけだ。

総司はただ、いい人だったらいいなぁと呑気に思っていた。


道場に着くと、二人の青年が何やら盛り上がっている。

「一体どんな美少女が……!」

「期待しすぎるなよ、左之。まだ美少女とは決まってない!」

「いいんだ八っつぁん、俺は天涯孤独の儚げな娘の夢を見る」

「そうだな……夢なら覚めるまで見てていいもんな」

この人たち何を言ってるんだろうと声に出したい心を抑えながら、総司が若先生はまだいらしてないんですかと尋ねると、儚げな娘の夢を見る旨の宣言していた男が、からりと笑って手を挙げた。

「おう総司! 洗濯当番ご苦労さん」

この原田左之助は剣よりも槍の扱いが上手い、伊予松山藩からの脱藩浪士だ。

「周斎先生の話が長いらしくてな。ずっと伏せってたから若い娘に会えてはしゃいでるんだろうよ」

そう言ったのは永倉新八で、彼は松前藩の定府の出身だがこちらもすでに脱藩して、江戸の道場を渡り歩きながら剣術修行をしているうちにここにたどり着いた。二人とも試衛館の食客(つまり居候)だ。

「お前らアホな話してるねぇ」

隣にいた土方が嘆息し、その黒目がちの瞳を光らせると、

「その娘はどうせ俺に惚れるから、今のうちに夢見とけよ」

と言った。

原田と永倉はギリギリと歯噛みして、チクショォォォと叫びながらのたうち回った。

土方歳三という男は、目が合えば妊娠するなどと噂されるような色男で、一緒に街を歩くとひたすら目立つ。今のセリフも起こりうることなのだ。

まだ見ぬ女性のことでここまで盛り上がれる彼らに総司は若干、いやかなりついていけず、自分より年上の男たちが床に転がって悔しがる事態をただ眺めるのみだった。

「……総司は?」

「は?」

原田がゆらりと起き上がり、血走った眼を見開いて、

「総司はどうよ! おまえだって気になるオトシゴロだろぉぉ!?」

「そ、そりゃあ嫌な人よりいい人のほうがいいですけど……」

後ずさりする総司の肩に永倉ががっしりと腕をかけ、ニヤニヤしながら、

「いいんだぜ総司、何がどうなっても俺たちは誰にも言いやしねぇから」

と言う。門人たちに言いふらしそうだ。

土方はその様子を気にも留めず、道場の隅で素振りを始めた。

若先生はまだ来ないのだろうか。

と、廊下から二人分の足音が近づいてきた。

「こら、あまり騒ぐなよ」

太く張りのある声で入ってきたのは、天然理心流の四代目宗家でこの試衛館の師範・近藤勇だ。先代である周斎の養子で、総司をはじめ門下生たちからは若先生と呼ばれている。

原田が口をすぼめて、

「遅いっすよ若先生ー」

「すまん、養父上がはしゃぎすぎて発熱した」

「周斎先生大丈夫かよ!?」

「部屋にまで聞こえてたぞ、あまり下世話なことを言わないように」

やっと来てくれたと安堵の目を向けると、近藤の後ろに若い女が立っている。近藤とそう変わらない背丈だから、女性としては長身のスラリとした佇まいだ。

近藤が肩を引いて彼女を招き入れた。

「すまないね、男所帯なもので」

「いえ」

露草色の着物の裾がひらりと動いて、総司たちの前に現れた。

「道場の騒々しさには慣れておりますから」

涼やかな風が通り抜けたように、道場内は静まり返る。

白い肌に凛とした大きな瞳が闇夜に輝く満月の光に似ていると、総司は思った。

逸水沙羅いつみさらさんだ……って待った」

猛高速で彼女に駆け寄ろうとする原田と永倉の顔面を、近藤がピタリと抑えた。

「ん、逸水……?」

永倉は抑えられて赤くなった顔をふと離し、沙羅を見る。

「まさか……この前道場破りに逆恨みされて、襲撃されたっていう逸水道場の?」

沙羅は目を伏せてうつむいた。

「……はい」

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