第36話 紳士協定
「最初のうちはとにかく何か考える気力すらなくて。それでも何日かしたらある程度考えたり妄想したりする程度には回復して、そして思ってしまったんです。誰かが傍にいてくれるといいなって。
その時に真っ先に思い浮かべてしまったのが先輩だったんですよ。私としては不本意かつ残念な事ですけれども。
慌てて打ち消して別の人を思い浮かべようとしたんですけれどね。どうにも駄目なんですよ。大学時代だけだって何十人も他に知り合いがいたし、学校卒業してから5年以上経っているのにです。何ででしょうね、まったく。
だからヒラリアに来る時も先輩にだけメールで知らせて、ひょっとして来てくれるんじゃないかななんて場所まで暗号化してメールに書いて。
だから悪いけれど、ここで先輩を離す気は無いです。先輩自身の意志がどうであろうと。
でもだからこそ、美愛ちゃんの態度や言葉でわかっちゃうんです。美愛ちゃんが先輩の事をどう思っているか。
美愛ちゃんは先輩の事が大好きなんですよ。本当はずっと一緒にいたいと思っているんです。
でも自分がいると先輩が遠慮して私とくっつけない。本当は先輩、私と一緒になるつもりで此処に来たのに。だから自分は此処から去ろう。どうなるかわからないけれど、それでも先輩がそうやって自分が本来したかった事を邪魔するのが嫌だから。
ただそうすると、この先どうなるかわからない。だから結愛ちゃんだけはお願いして置いて貰おう。本気でそう思っているんです。
このままでは出て行きかねない。だから今日の昼、結愛ちゃんがお昼寝した時に美愛ちゃんと話し合って、協定を結びました」
「何だその協定って」
ハーレムなんて単語が一瞬浮かんであわてて打ち消す。
そんな内容ではないだろう。
今までの話の流れとちひの性格とを考えると。
「その前に先輩に私から一言」
ちひはそう言って僕を睨みつけるような目で見る。
何を言うつもりだろう。
嫌な予感しかしない。
「私は美愛ちゃんほど若くも純情でもないし、この先待ってもどうせ売れ残るだけ。それにメンヘラ気味でややこしい思考も出来なくなりました。だからストレートかつはっきり言います。
私は先輩が好きです。大恋愛とかもう離さないとかそういう熱さは正直ありません。でもこの先一緒に歩くのは先輩と以外に考えていないです。
先輩は私の事をどう思っているんですか。異世界まで来て、しかも暗号で自分の場所を知らせるなんて事までしてくれたのは何故ですか。私は超能力者じゃありません。言葉で言って貰わないとわからないんです」
本当なら嬉しいと思ってもいい筈だ。
僕もちひの事が嫌いな訳では無い。
そうじゃなければオースまで来ない。
しかし今は何故か嬉しいというより追い詰められた気分だ。
「ここまで恥ずかしい事を言わされたんですから先輩の方も同じ目にあって貰わないと。
先輩は私の事をどう思っているんですか。はっきり聞かせて下さい」
いや僕が言わせたわけじゃない。
ちひが勝手に言っただけだろう。
そう言いたいところだが反論すら許されない雰囲気だ。
残念ながら。
こういう話題は苦手だ。
それにここで肯定するとこの先苦労しそうな気がする。
どこかで選択肢を間違えたような気もする。
何故こうなったのだろう。
だがここで逃げると取り返しがつかない事になりそうだ。
それにちひの事が嫌いな訳では無い。
むしろ横にいて安心できる奴だ。
今までの人生の中で一番一緒にいて楽な相手だ。
だから仕方ない。
僕も覚悟を決めよう。
「大事だと思っていなければ此処まで来ない。それでいいか」
「言いましたね」
ちひの奴、途端に悪そうな笑みを浮かべやがった。
「本当はスマホで録音してとっておきたいところですけれどね。オースにそんな物ないから今の台詞だけで勘弁してあげます。
まあ実のところ、肯定してくれる事はわかっていましたけれどね最初から。大体先輩、大学時代から私のこと好きじゃないですか、絶対」
本来は嬉しい事の筈なのに何なのだろう、この失敗感は。
どうしても何か間違えてしまったような気がしてならない。
そもそもこの手の方面は僕の得意科目ではないのだ。
しかしここはやはり先輩としてすべき事があるだろう。
だから軽くチョップをを一発。
「教育的指導!」
「痛い! 親父にもぶたれたことないのに! このスカポンタン! ミソジニスト!」
わざとらしすぎる抗議は無視。
「それで美愛との協定って何だ。結論はわかりやすく。あと最初に
「論文じゃないんですから」
その通りだ。
しかしその辺ある程度言葉遊びをしないと僕が持たない。
実のところ僕、そして多分ちひもこの手の話は不得意分野。
この程度の約束動作を入れないと耐えられない。
ちひによるさっきのわざとらしい抗議も同じ理由だろう、きっと。
「まあ協定というか約束事ですね。
ひとつは美愛ちゃんが無理して此処から出ない事。勿論ここが嫌になったりやりたい事が出来たのなら別ですけれど。
もうひとつはあらゆる意味で私に遠慮しない事。その気なら先輩を誘惑するのだってアリという事で。エッチな事も先輩との合意があって結愛ちゃんの目に入らなければOKという事になっています。
勿論私も美愛ちゃんに遠慮するなという事になっています。ただ正直言って美愛ちゃん相手だと少々苦しいですよね。美愛ちゃん私より10歳以上若いし可愛いし胸も私よりあるしで。
これでも私、綺麗な方だと自負しているんです。でも世の中綺麗より可愛い方が強いじゃないですか。女と畳はなんて言葉もありますし。
こうなったら仕方ないから実力行使で先輩を悩殺するしかないですよね。童貞をこじらせている先輩ならイチコロだと思うんですよ。それにこれ以上処女とっておいても腐るだけですし。
ただこっちも経験ないので、とりあえず身体機能的に正常な使い方は基本OKで他は応相談という形で。先輩の好きそうな変態プレイもとりあえず身体に無理がない範囲なら考慮に入れて上げてもいいですよ」
何かとんでもない事を言っているな。
ほとんど痴女寸前な台詞だろう。
そう思ってそして気づく。
ちひ、こっちと目をあわせていない。
あわせられていない。
思い切り目線が泳いでいる。
そう言えば口調も通常以上に早口だ。
怪しい台詞も照れ隠しに勢いつけて誤魔化す為という気もしてきた。
更に協定も微妙にひっかかる気がする。
美愛がするべき約束事が2つ、無理して出るな、ちひに遠慮するな。
一方でちひが守るべき約束事は今の説明では遠慮するなのひとつだけ。
ならばそれらの意味する事は、きっと。
「協定のうち、ちひが守るべき条件は遠慮するなと言う事の他にもう一つ。今話した内容、具体的には告白から僕自身も遠慮しなくていいという事まで話す事。違うか?」
ちょっとだけ間を置いた後。
「だから先輩は嫌いなんですよ」
ちひは頬を膨らませる。
「折角どう言おうかシナリオまで考えたのに台無しじゃないですか。後輩に対する愛は無いんですか」
これに対する返答はしない。
さっき恥ずかしい告白をさせられた。
それで必要にして充分だ。
「そして美愛が実際には聞いて確認していないのにもかかわらずあえてここまで言ったのも、ちひの美愛に対しての義理というか誠実さなんだろ」
「勘のいい先輩は嫌いですよ、まったく。
でも美愛ちゃん、可愛いじゃないですか。実際もう今、私の推し状態ですよ。けなげだしいじらしいし。そんな推しには嘘をつきたくないじゃないですか。嘘つきの先輩と違って」
でもそれだけじゃない。
他の動機も何となくわかる。
「更に言うと美愛に僕やちひと同じ失敗もさせたくないって事だろ。逃げられずに失敗した僕と無理に逃げた結果失敗したちひの」
実家や地元から逃げられずに煮詰まったという僕の失敗。
実家や地元から逃げる事を優先した結果行き詰まったちひの失敗。
きっとその辺もちひの念頭にある。
「だって美愛ちゃん、今まで充分苦労しすぎていると思うんですよ。ならもう幸せになってもいいじゃないですか」
うんうん、言いたい事はよくわかった。
「はいはい。頑張った頑張った、ちひもいい子、いい子」
わざとらしく頭を撫でてやる。
とりあえずこれで今回の件は収めて貰おう。
いい加減恥ずかしすぎる。
僕も、そして多分ちひも。
必要な事だったのだろうから余計に。
「もう。それじゃ今夜話すべき事はこれで終わりですよ。ちょっと夜風に当たっていますから、先輩は勝手に先に寝ていて下さい」
「はいはい」
僕もちひと顔を合わせられない程度には恥ずかしい。
お互い
明日もあるしさっさと寝てしまうとするか。
魔法でコンテナ扉の内鍵を開けて中へ。
入ってすぐの場所にある自分の布団に潜り込む。
明日はイロン村へ行くのだ。
寝不足では辛い。
しかし暗い中、ふと思い出してしまう。
『エッチな事は結愛ちゃんの目に入らなければOK』、『身体機能的に正常な使い方は基本OKで他は応相談』なんてちひの台詞を。
やばい。
今頃になってダメージが大きすぎる。
危険な妄想がてんこ盛り。
素数を数えるんだ、いや数息観の方がいいか。
素数で数息観をやるのは流石に雑念入りすぎか。
でも考えるべき事が多い分、考えてはいけない雑念を防げるかもしれない。
とりあえずやってみよう。
にーっ、さーん、5、7、11、13、17、19、23、29、31、37、41、43、47、53。57はグロタン素数※だから無視して……
※ グロタン素数 正確にはグロタンディーク素数。皆大好き素数大富豪でお馴染みの『素数で無い素数』。数学者アレクサンドル・グロタンディークがある講演で、素数の具体例として57を誤ってあげてしまった事に由来する。
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