我が家の問題

「カンジ遅かったじゃないの!マスクは?買えたの?」

「買えたよー」

 ぼくはぽーんとマスクが入ったビニール袋を母に放った

「あら⁉開いてるじゃないの!あの店ったらあくどいわね、一箱から数枚ずつ取ってもう何箱か作るって算段でしょ!抗議の電話!!」

 血相を変えてスマホを掴み取る母にぼくは慌てて詰め寄った。

「ちがう!ちがうんだよ!」

「じゃあなによ!」

「開けたのは俺だ!」

「あら⁉あなただったのね!おそらく買えなかった人もいたでしょう。その人に売っぱらって一儲けしたんでしょ!一枚何円で売ったのこの転売屋!」

「ちがう!エンタツがマスクしてなかったから一枚あげたんだ!」

 すると、紅潮した母の顔がみるみるもとの色に戻った。

「そう……タッちゃんにね……」


「うん、そうね……ごはんにしましょ!」


「なに?その含みのある言い方……」

「なんでもないわよ!ごはんと言ったらごはんよ!」

 母は口角泡を飛ばしながらヌッとぼくに一人分のごはんが乗ったお盆を突き出して、アゴで二階を指した。

「わあったよ……」

 ぼくはふてくされるようにお盆を受け取って二階への階段をどすどすと登った。

「兄貴、ごはん置いとくからな」

 ぼくは兄貴の部屋の前の廊下にお盆を置いて「コンコン」とドアを2回ノックした

 扉の向こうからもぱちんと一回指を鳴らす音が聞こえた。このコンパチ関係がぼくと兄貴のほぼ唯一の接続点だ。


 一階に戻ると母はすでにこたつに入っていて、一本目の本麒麟ほんきりんを開けてテレビの年末特番を睨んでいた。

 ぼくは母の視線を邪魔しないように向かいに座って、いただきますも言わずにもそもそとアジフライを食べはじめた。ウチはクリスマスもなにもほとんど関係ないんだ。昨日はさすがに商店街の付き合いで買ったホールケーキがあったけど、おそらく余った分は母が食べつくしちゃっただろうし、サンタのおじさんはぼくが小6のときに後継者不足で配達をやめてしまったらしい。

「ノボル、生きてた?」

 ぼくは、頷く。

「お盆の回収、頼むわよ」

 やっぱりぼくは、頷く

 居間には声だけはやたら大きい司会者の声が響いていた。母はやっぱりつまらなそうに画面を睨みつける。

「カンジ、タッちゃんのお母さんの店ね、臨時休業だって。このコロナ騒ぎで」

「そうなんだ」

「タッちゃんも、マスク買いに来てたの?」

「ううん。ツタヤで参考書読んでた。そんでマスクしてなかったから、一枚あげた」

「ふーん」


 コマーシャルに変わった。テレビの画面には、遠方の息子が雪国の年老いた両親に除雪機を送ってあげた結果、どれだけ両親が感謝しているかといった胡散うさん臭いCMが流れている。

 母は眉間にシワを寄せるとリモコンを手にとって隣のチャンネルに回してしまった。

「本麒麟、取ってきて」

 ぼくは箸を置いてため息をひとつつくと、暖房が効いていない極寒のキッチンに出向く。

「寒い風入ってくるから閉めて!」

 という母の声をせなで受け、少し乱暴に足で閉める

 冷蔵庫を開けると、はたしてそれらしき赤い缶は見当たらなかった。

「ないよー!」

 ぼくはガラス戸の向こうのぼやけた母に向かって少し声を張って叫ぶ

「じゃあ地下にあるからおねがーい」

 ぼくはさっきより何倍も大きなため息をついてキッチンの蛍光灯をつけた。


 1メートル×1メートルはある床下収納の木の板をぎいと引っ張り上げ、少なくとも戦前に作られたであろう煤けた木のはしごを降りる。1段、2段、3段。

 雪国では床下が天然の冷蔵庫なんだ。食品の流通網が今ほど整っていなかった頃は、雪が降る前に大量の野菜をここに運び込んでひと冬分のビタミンを保存したらしいけど、ぼくが生まれたときにはすでにここはビールが山と積まれたミニ酒蔵と化していた。夏でもここは涼しいから小さい頃はよく夏休みの秘密基地にしていたけど、冬の間となると話は違う。ここにいられるタイムリミットはせいぜい3分だ。

 不幸中の幸いなことに赤いダンボールは目立つところに置いてあった。もう一度地下に降りろなんて言われた日にはたまらないので、缶を2本取っては手を上に伸ばしてへりに置く動作を3回繰り返す。

 さっき降りたはしごを今度は登って蓋を閉める。2段目くらいから顔付近の空気がほんのり温かくなるのが分かる。閉めたあとに蓋の上でするケンケンパは小さい頃から体に染み付いている癖だ。


 人工の冷蔵庫に4本の缶を放り込んでから暖かい居間に戻ると、急に血流が良くなるのか頬がじんわり熱くなった。

「お、ごくろうごくろう。子供は風の子!」

 いつまでも子供扱いするなよなと、ぼくは内心少しムッとして缶を2本どんどんとこたつの天板に置いた。

「まあそうかっかせずに。キミも一杯やるか?」

「ノーサンキュー」

 ぼくはすっかり冷めてしまったとん汁をすすりながら憮然として言った。



「ねえ、私思いついちゃったんだけど」

 今度はなんだ!もう一度地下に降りてやっぱり日本酒を取ってこいなんて言うんじゃなかろうな。

「ノボルの参考書、タッちゃんにあげようよ!」

 ぼくは母の突然の提案に目をぱちくりさせた

「こう言っちゃなんだけど、タッちゃんちお母さんだけでちょっと苦しいじゃない?もう誰にも使われてないし5年かそこらもほこりかぶってるなら、勉強熱心な子にあげたほうがいいわよ。ねえお父さん?」

「そうだな」

(はっ、お父さんいたのか……!)

「ちょ、ちょっと待ってよ!俺が使うよ!」

「あんたもうすぐ中学入って丸一年ていうのに一度も使ってないじゃない!この先もあんたがあの分厚い本を開くところは想像できないわ!」

「そうだな」

「あの参考書まだノボルの部屋にあるでしょ?」

「もう捨てちゃったんじゃない?」

「少なくとも8月まではあったから捨ててないと思うわよ?それからノボル外出てないし」

「じゃあお母さん見つけてよ!」

「いやよ私は!弟なんだからあんたがノボルの部屋行きなさいよ!」

「そんなの関係ないじゃん!思いついたひとが責任持って行きなよ!」


 その時、父が顔で2階を指した。この家は古いから居間で大きな声を出すと2階にほとんど筒抜けだ。


「どうして引きこもりになんか……」

 母がため息とともになんとか言葉を絞り出すと、ぼくは肩をすくめた。

 

 7年前の春、今ぼくの通っている中学校の卒業式で答辞を読んだのは兄貴だった。隣町にある偏差値の高い県立高校に進学して、その後も順調に偏差値を伸ばして東京工業大学に現役合格。ぼくはまだ小学生で、知ってる大学なんて早稲田と慶応と東大しか無かったけど、とにかく合格発表の日の我が家の狂喜乱舞ぶりはよく覚えている。



「ママー、トーコーダイってワセダより難しいの?」

「うーん、どうかしらねえ。お父さん!東工大って早稲田より難しいの!?」

「そうだな!」

「ケーオーよりも?」

「そうだな!」

「じゃあさパパ、トーダイよりも難しい?」

「そ、そうだな……」

「お兄ちゃんすごーい!すごーい!」



 当時まだ生きていたばあちゃんもこっそり貯め込んだ年金で兄貴にかなり性能の良いパソコンを買ってあげて、ずるいずるいとぼくが泣いた記憶がある。大学の入学式のときなんて、ぼくは隣の殿下の家に一晩預けられて父、母、ばあちゃんの三人が参列した。ばあちゃんまで入学式に来るなんて、そんな家庭ほかにあるだろうか?


 ある意味、ばあちゃんがいちばん幸せだったかもしれない。

 ばあちゃんはぼくが小5のとき、兄貴が大学2年生のときにぴんぴんころりと逝ってしまった。母曰く、行きつけのカラオケスナックで思う存分熱唱し、夕方うちに帰ってきてこたつでふうとため息を付いたら、それが最後の息になったそうだ。米寿のお祝いを済ませてすぐだったから、お通夜はその二次会のようににぎやかで、兄貴はちょっと二十歳に足りてなかったけど、親戚のおじさんたちが「末は博士か大臣か♪」と音頭をとりながら飲ませるのに困惑しながら応えていた。


 そんな兄貴も今年の春に東京にある大企業に就職し、一家は安泰なように思えた。ぼくも母から

「お兄ちゃんに養ってもらうのだけはやめなさいよ」

 と言われたぐらいだった。



 でも、兄貴は今年のお盆に帰省してっきり東京に帰らなかった。


 家族には「コロナで仕事が休みになった」と言っていたけど、帰ってきてからひと月もほとんど自室にいてっきりだと、だんだん疑問も湧いてくる。


「ノボル、東京でコロナってのはそんなに大変なの?」

「うん」

「で、でももう9月も半ばよ!新入社員だってのにこんなに休ませるの?」

「うん」

「お、お母さんちょっと会社に電話してみようかなー?」

 そう言って、母が机に置かれたスマホを手に取ると、兄貴の顔色が、変わった

 

 兄貴は母のスマホをひったくると勢いよく壁に叩きつけた

「それだけはやめろ!」


 今までぼくが見たことがない兄貴の目だった。母のスマホの画面は蜘蛛の巣のようにひび割れ、二度と動くことは無かった。


「か、金は毎月振り込まれてるから!」

 ぜえぜえと肩で息をした兄貴はそう叫ぶと2階に駆け上がり、自室のドアを力いっぱい閉めた。


 それから兄貴が一階に降りてくることは二度となかった。




「カンジ、お盆だけでも取ってきてくれないかしら」

 ぼくは頷いて、おそるおそる階段を上がった。


 兄貴の部屋の前に来ると、お盆の隣に見慣れない本がきれいに揃えて積まれていた。


『教科書ガイド・数学』

『数学・自由自在2014年度版』

『中学数学問題精講』


 ぼくはコンコンと2回ノックして「ありがとう」とつぶやいた。

 扉の向こうから、ぱちんと一回指を鳴らす音が、聞こえた。

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