バンディッツ・ロック!(76.5MHz.)

ひとリーマン

コロナが町にやってくる

 八箇峠はっかとうげの長いトンネルはいつにもまして静かだった。

 関越道から北陸道に安く抜けたいトラックたちは目に見えて減少し、Bluetoothを通じて車に流れるサブスクリプションの曲も山に遮られていつのまにか止まってしまった。少しくぐもったような粉っぽい景色と、スタッドレスタイヤが路面を痛めつける音。


 令和2年の12月は、確かにそれしか聞こえなかった。


 でもやっぱり、爆心地東京からの暴風はまるでドーナツ状の円が広く広くなってゆくように新潟県の小さなこの町にも押し寄せようとしていた。



 ぼくの住んでいる町は北国街道ほっこくかいどうから山を一つ越えたところにある。国道とは名ばかりで、実際は県が管理を任されているような3ケタ国道しか通っていないし、上越新幹線も関越道も嫌がらせのようにぼくの町を東に迂回していた。それもコレも全ては旧新潟3区の選挙区じゃなかったからだ。隣町にある、一体誰が使っているんだかわからない新幹線の駅前には、屋根までつけられてにこやかに右手を上げた闇将軍の銅像がある。全てはお前のせいだ!たまごでもくらえ!


 しかし、今回ばかりはその田舎さのおかげで少し良い目を見ることができた。新潟県の市の中で最後まで例の感染者が出ていないのだ。全市民がこのまま収束して、再びトンネルの外を覗いた時には隣の町は焼け野原、でも振り向けばウチは無傷という状況を望んだ。あるものは時宗じしゅうの寺へ踊り念仏に行き、またあるものは新興宗教の会館へと急いだ。


 とは言っても、自分の家の墓参りすらお盆のときだけという信心の薄い者たちを、そうやすやす神様仏様は救ってくれないようで


 ピン・ポン・パン・ポーン


「コチラハ、ボーサイ、トオカマチデス。

 ホンジツ、市内1例目ノ、新型コロナウイルス感染者ガ、確認サレマシタ。」



「ほーらついに来たわよ!」

 母は鍋から出る湯気のなかから叫んだ。

 ぼくといえばウチ以外の市が陥落していくなかそんなに驚かなかったけど、ほれおごったおごったこまったこまったスーパーでマスク買ってこい!と騒ぐ母の姿にただただ圧倒されるばかりだった。

 下駄箱の上に置かれたマスクを急いでつけてスーパーに来てみると、防災無線を聞いたのか夕方のワイドショーを見たのかという人でごった返していた。

 お一人様一箱までですという店員の叫びが響く店内では、ねずみ色や紫色のヤッケを着た年寄りたちが一目散にマスク売り場に殺到し、さながら年金支給日のパチンコ屋の様相を呈していた。この田舎町の一体どこにこんなに人が隠れていたんだ? というか、あの赤茶色のジャンパー着てるばあちゃん足悪くして手帳持ってるんじゃなかったのか?



 ようやっと一箱のマスクを手に入れてなんの気なしにスーパーのテナントに入っているツタヤに向かうと、参考書売り場にスラッと背が高い見覚えのある坊主頭が見えた。膝まである黒いベンチコートに年季が入ったベージュのショルダーバック。履いているのはもちろんゴム長靴だ。

「おいエンタツ」

 ぼくが声をかけると、坊主頭は驚いたように振り向いた。

「あ、カンジ!久しぶり!」

「ついこないだ会ったばかりじゃん」

 終業式は23日だったからぼくは何も間違っちゃいない

「エンタツ、知ってるか?トオカマチでついにコロナ出たんだって」

「えー初耳だよ」

「なんだ知らないのかよ…… てかお前マスクつけてねえじゃねえか!」


 ぼくはさっき買ったばかりのマスクの箱を無造作に開けて、エンタツに1枚渡した。

「え、悪いよーこんなところで」

「いいから着けとけ!」

「え、だってジャンパーの襟で口元見えないよ?」

「いいからいいから!」

 ぼくはエンタツに無理やりマスクを着用させた。

「あ、ごめんねーほんとありがとう」

 気づくと息が少し上がっていた。この小さな町でノーマスクはあまりにも人々の視線から無防備過ぎる。

 エンタツはぼくたちが住んでいる雁木通りから北へ300mくらい進んだところにある市営住宅の2階にお母さんと二人で住んでいる。お父さんはエンタツが小さい頃逃げちゃって、お母さんは町唯一の盛り場「ショウワチョウ通り」のスナックで働いているらしい。

「エンタツの母ちゃんスナックで働いてるんだろ?エンタツが罹って家にコロナ持ち込んだらやばいんじゃねえの?」

「うーん……まあね」


 このとき、エンタツの少し潤んだ二重の目が泳いだように見えたが、それ以上エンタツは何も語らなかった。こういう時は話題の変更に限る。

「エンタツなに読んでるの?」

 エンタツはえー?と少し恥ずかしそうにしながら、こっそり表紙をこっちに見せてくれた。


『数学・自由自在』


「エンタツこんなとこでも勉強してるのか?」

 ぼくは目を丸くして尋ねた。

「うん、ウチあんまりお金なくて買えないから、ここで立ち読みしてるんだよね。」

「ちょっと見せてくれよ」

「あ、いいよ」

 エンタツはこなれた感じで『自由自在』をめくると、ちょうど冬休み前までにやっていた「方程式」の単元のところを見せてくれた。


「問3。何人かの生徒で飴を同じ数ずつ分けます。5こずつ分けると12こ余り、

 7こずつ分けると4こ足りません。生徒の人数は何人でしょうか。」


「……えーと」


「あ、これは簡単だよ?」

「5x+12=7x-4……で、xを右に集めちゃえばいいから-2x=-16でxは8。答えは8人!」

 うーむ︙…

 ぼくはエンタツがあまりにもすらすらと解いてしまうのに幾ばくかの悔しさを覚えたので、まだやっていない単元の問題を解かせるといういじわるを仕掛けた。

「じゃあ……これは?」


「問4。50円切手と80円切手を合わせて10枚買い、710円払いました。50円切手と80円切手をそれぞれ何枚買いましたか。」


「あー、コレはね。今のと似てるけど連立方程式使わなきゃだね。カンジなんかペンと紙持ってる?」

 持ってないことを伝えると、エンタツは周りをきょろきょろと見回し、ツタヤの会員申込書を書くテーブルに向かって歩いていった。確かにそこにはボールペンも申込書のウラという紙もある

「カンジ、ちょっと来て。解くから」

 なんだかオオゴトになってきちゃったぞとぼくはエンタツの後をついて行きながら少し後悔した。というか店員はエンタツを止めないのか?売り物の参考書をガチで解こうとしてるんだぞ!おたくのペンと会員申込書を拝借して!


 エンタツはショルダーバックを肩にかけたままパイプ椅子に座ると、さも当然のように積まれた申込書の1枚を裏返してぼくの提示した問題を解き始め、あっという間に50円切手が3枚と80円切手が7枚という答えを導いてしまった。

「解けた、3枚と7枚!合ってる?」

「……合ってる」

 ぼくは怒った店員がすっ飛んでくるのではないかと冷や汗をかきながら、時間にしてたった1分半ほどの解答時間を永遠に感じていた。

「……何時からいる?ここ」

「えーと、10時くらいからかな?」

「10時!6時間もここで参考書読んでるのか!?」

「そ、そうなるね……」


「今の、2年生の問題だったんだけど……」

「あ、そうでしょ!」

「……なんで解けるの?」

「今日ここ来てずっと読んでたから、実はあの問題2回目だったんだよねー」

 ぼくがあ然とした顔でいると

「ねえねえ知ってる?3年生になると√が出てくるんだよ!なんか数学っぽくない?」

「そ……そうなんだ……」

「√2はひとよひとよにひとみごろ、√3は人並みにおごれやって言うんだって!おもしろくない?」

「へ、へえー……」

 ぼくは二重の目をキラキラさせながら語るエンタツにあっけにとられてしまって、心底どうでもいい相槌しか打てなくなっていた。


 そして、エンタツは『自由自在』をパタリと閉じて参考書売り場にするすると戻り、なにもなかったかのように書棚に戻して店を出てしまった。またしてもぼくはあとに続く。レジを通り過ぎる時ちらと紺色のエプロンを付けた男性店員の方を見たけど

「私は注意しに行くまでの時給はもらっていません」といった顔でいたのでなんとか乗り切ることができた。思い込みすぎた!




 スーパーを出ると闇夜に小雪がちらついていた。ジジババによるマスク争奪戦はすっかり終わったようであたりはガランとしていたが、押しかけたセニアカー同士が衝突事故を起こしたか雪でスリップしてひっくりかえったか、数人の警察官がピカピカ光るニンジン棒を片手に実況見分をしている。まったくクリスマスの夜なのにご苦労さんなこった。


 二人で雪と消雪パイプの水とが混ざったみぞれをしゃくしゃくと崩しながら小路を抜けると雁木がんぎ通りに出た。実際のところ、雁木通りとは名ばかりのただのアーケードだが、一応は駅前から東山ひがしやまへと少し登りながら続く市のメインストリートである。

 言うまでもないが、ここはいわゆるシャッター街だ。地方中小都市の商店街はすでに滅亡したって言ってた人がいるけれど、うちもご多分に漏れていない。


 その上、コロナである。

 昨日まではウチの市に感染者がいなかったからまだ少しは飲み歩く人の声も聞こえていたけれど、今日は皆無。誰も歩いていないシャッター街に煌々と電気がついていて地元のコミュニティFMのラジオが流れているというのはなんとも言えず辛気臭い。

「あーあ、冬休み終わんなきゃいいのにな」

 ぼくが白いため息とともにつぶやくと、エンタツがくるっとこっちを向いた

「え、やだなあ」

「どうして?」

「勉強できないもん」

「図書館でも行ってろよ」

「カンジ、今日コロナ出たんだろ?絶対近いうちに閉鎖になるって」

 確かにそこは盲点だった。公共施設は使えなくなるだろうよ

「なら家でいいじゃん!」

 ぼくが吐き捨てるように言うと、エンタツの足音が止まった。


「い、家は……なぁ……」


 うっ、まずいこと言っちゃったかなとぼくは右側の奥歯を強く噛み締めた。

 おそるおそる振り返ると、少しうつむいたエンタツの影が少し濃くなったように見えた。

 でも、エンタツはすぐにこっちを向いて

「家しかないよな」

 と、目を細めて言った。なにかを噛みころしたように。


 そこから先はお互いなにを言うまでもなく無言だった。

 二人のゴム長靴がキュッキュッと音を立て、そこにラジオパーソナリティのギャグが空転しながら坂を転げ落ちていった。


 ラジオなんて止まっちまえばいいのに!

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