9―1 ヤンデレと犬 その1

 犬と戯れたい。大学へ向かう道すがら、そんな考えが頭に浮かんだ。しばらく実家に帰っていないせいか、犬が恋しくて仕方ない。

 実家で飼っているのは柴犬だが、小型犬でも大型犬でもいいから触りたい。犬特有の人懐っこくも暑苦しいコミュニケーションを浴びたい。

 しかし友人の多くは一人暮らしをしているので、誰かの飼い犬を触らせてもらうのは難しそうだ。散歩中の見知らぬ人に犬を触らせてもらうのもハードルが高い。

 唯一残された選択肢はいわゆる「犬カフェ」に行くことだが、ああいうところは男性一人の入店は断られるからなあ……防犯面からすると仕方ないことではあるが。

 女性と一緒に行けば問題なく入れるだろうが、そこまで親しい相手なんて……


「何かお困りのようですね、先輩」


「忍者かお前は」


 まるでタイミングを見計らったかのように椿が物陰からひょっこり現れた。思考盗聴されてんのかな、俺。


「お前に頼むことはない」


「まあまあ、そう言わずに。悩みごとは人に話すだけでも楽になるっていうじゃないですか」


「強いて言うならお前の存在が悩みだよ」


 こんな亡霊みたいなやつでも一応女だし、犬カフェへの進出には役に立ちそうだ。でもコイツに借りを作るのもなあ……


「私と先輩の間柄じゃないですか」


「加害者と被害者の間柄だもんな……たまには償ってもらうか」


「はい?」


「お前に頼みごとがあるんだが」


「えっ、何ですか? 私にできることなら何でもしますよ!誰か拐えばいいですか? 直接手を下すのは気が引けるなら、呪いとかも請け負いますよ。もしくは事故を装って誰かを……とか? そういうのはちょっとお時間いただきたいですが」


「なんで楽しそうなんだよお前……そういう物騒なやつじゃなく」


「何でしょう」


「犬カフェに……同行してほしいんだ」


 二つ返事でOKが出るかと思っていたが、意外にも椿は頭を抱えて黙りこんでしまった。えっ、そんなに難しい頼みかこれ?


「先輩とデート……でもなあ……犬はなあ……うーん」


「お前、犬嫌いなのか?」


「好きなわけないでしょ。あんなうるさい畜生」


「は? お前の一億倍かわいいだろうが」


「うー……」


 またすぐに反論が来るかと思ったが、椿はそのまま考え込んでしまった。いつもは鬱陶しいぐらいレスポンスが早いのに、今日は随分反応が悪い。


「最も多く人間を殺す動物ランキングの1位、知ってますか?」


「急になんだよ……それが犬ってオチか?」


「いえ、蚊です」


「犬じゃないのかよ! しかも結構意外なやつだし!」


「ちなみに犬は4位です。怖くないですか? 年間数万人も犬に殺されてるんですよ……ああおぞましい」


「そこまで来ると3位と2位も気になるな」


「ああ、3位はヘビで2位は人間です。まあ意外性は無いですよね」


「いや2位の方が怖いわ!」


「そうですかねえ」


 それにしても妙に回りくどい。犬がたくさん人を殺してるとは言っても、外国の野犬なんかがほとんどだろうし、飼い慣らされた犬に怯えなくてもいいだろうに。なんかうだうだ言い訳してるけど、もしかして椿って……


「お前、犬が怖いのか?」


「は? 怖いわけないでしょうあんな畜生。十匹来ようが二十匹来ようが文明の力で圧倒してやりますよそんなもん。こっちには銃火器と刃物があるんですよ? 怯える理由がありません」


「すごい饒舌」


「犬ごときが怖いとか、ご冗談が過ぎますよ。ふ、ふふっ……」


「微妙に声震えてない?」


「気のせいです。先輩か、もしくは大地が震えてるんじゃないですか?」


 すげえ必死だなコイツ。なんか意地悪したくなってきた。


「まあ椿が犬怖いならしょうがないな。他の女の子に頼むか」


「えっ、それは……」


 あー、うー、と唸りながら椿はフラフラ左右に揺れる。明らかに狼狽している様子だ。コイツの困り顔なんて初めて見た気がする。


「い、行き、ます……」


「ああそう。じゃあ今日の大学終わったら行くぞ。俺は四限まであるから、それが終わってからな」


「犬避け……ハーブとか? 柑橘類ならあるいは……」


「そのままで来い。犬に迷惑をかけるな」


「まさか先輩、犬をけしかけて私を始末するつもりじゃ……」


「やらねえよ。犬が可哀想だからな」


 うだうだ話しながら歩いていると、いつの間にか大学の文学部棟まで着いていた。椿とは一旦ここでおさらばだ。


「四限終わったらそこのベンチまで行くから、お前も講義終わったら待っててくれ」


「わかりました……遺書をしたためて待ってますね」


「紛争地帯にでも行くのか? まあ心配すんなよ、お前にも犬のかわいさがわかるさ」


「先輩のこと、初めて嫌いになりそうです」


「そいつぁ良かった」


 恨めしそうな椿を置いて、俺も教育学部棟へ向かうことにする。後ろから負のオーラがビンビン伝わってくるが、振り返らず歩を進める。今日はなかなか愉快な一日になりそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る