第八章 一





 文化祭一日目は、盛大に幕を開けた。


 透たちの高校は生徒数千人を超える、県内でも五本の指に入るマンモス校だ。文化祭の規模もそれに比例する形で大きく、また生徒の自由な発想を大切にする運営の仕方から人気もあった。近隣の人々や他校の生徒たちだけでなく、県外から訪れる人もいる。


 混みに混んだ校内で、充と春香が駆け回っていた。


「い、委員長……もう少しゆっくり行こうぜ」


「駄目だよ。チョコレートソースが予定より足りないって連絡があったんだから。この機材を運んだら、急いでクラスに戻らないと!」


「そんなに急がなくてもいいだろ? さっきから歩きっぱなしじゃないか」


「なに、へばったの? 空手の黒帯持っているくせに、体力ないね」


 前を歩いていた春香が、振り返りながらにっと笑う。腕には実行委員と風紀委員の腕章が光り、その上クラス委員のバッジも胸で光っている。役割が渋滞を起こしすぎて、見ているだけで忙しい気持ちになってくる。もはや何の委員なのだろうか。


「委員長が体力あり過ぎなんだよ」


「ふつーよ、ふつー。多少登山とかランニングとかジムとか合気道とかだけで鍛えているだけなんだから」


「ぜんぜん多少じゃないよね……」


 充は、笑うしかなかった。まるで大型トレーラーのエンジンを載せた軽自動車のようだ。その小さな身体のどこに、これほどのパワーがあるのだろう。


「ささ、無駄口はあとあと! さっさと運んで次いくよ、次!」


「や、休みを……あそこに美味そうなソフトクリームが」


「ソフトクリームなんていつでも買えるから!」


「身も蓋もないことを言うなよ……」


 充は溜息を付きながらも、キビキビと歩き出した春香についていった。


 梅雨だというのに、よく晴れた一日だった。夏日並みに気温が高いせいか、シャツの襟を折っている生徒や半袖のお客さんが多い。額に溜まった汗が、頬を伝い顎先からこぼれ落ちていく。


 人が多い分暑さも増しているが、熱気に負けない賑わいは嫌いではない。荷物を落とさないように片手と胸板で支え、汗を拭う。人使いの荒い春香に思うところはあるが、こうしてしっかり皆のために働くのも悪くないなと思えた。


 春香のポニーテールが揺れている。まるで働きものの忠犬の尻尾のように。それを見ながら、充はくすりと笑う。


 誰かのために一生懸命働くのも、楽しみ方の一つだ。春香は春香なりに青春を謳歌しているのだろう。


 ソフトクリームは買わせてくれなかったが、春香を手伝うこの辛さもきっと思い出に残る。


 そう信じて、働こう。


 春香とともに教室についたのは、それから十分くらい経ってからだった。途中、後輩の女子生徒たちに声をかけられ二日目のステージについて応援されたり、写真を撮らせてほしいとせがまれたりと、いくつかのトラップに引っかかり到着が遅れたのだ。


 そのたびに物凄く鋭い眼差しで春香に睨まれた。八重歯をむき出しにしながら怒鳴り散らしてくる春香に、理不尽さを覚えながらもせっせと運んでやった。着いたときには、汗だくだ。やっぱり労働はクソかもしれない。


「……遅かったな充」


 やけに疲れた声で返事したのは、透だった。いかにも暑苦しそうなタキシードを着てクレープを売っていた彼は、同じく汗だくで。頭に巻いたハチマキが、見事に世界観を壊していた。


「オールバックとハチマキ似合わねぇな」


 近づいて軽口を飛ばしてやると、透は少しだけむっと口を尖らせた。


「うっせ。わかってら、そんなこと。お前が委員長に取られてから客足が遠のいて大変だったんだぞ? このままじゃ目標達成できなくなるってんで、みんな騒ぎ出してな。必死で声掛けまくってなんとか凌いでいたけどよ」


「……そうか、ご苦労さん」


「やっぱ、イケメンがいないと厳しいわ。大体なんだよ、執事の格好をしながらクレープを売るって……。わけわかんねえよ、このコンセプト」


「女子たちに怒られるから不満はそのへんにしとけよ。俺だって大変だったんだからなあ、委員長めっちゃ人使い荒くて。なぜか、すげえ怒鳴られたし……」


「私がなんだって?」


 春香が透たちの間に、ぬっと入ってきた。小声で話していたつもりだが、聞こえていたらしい。額に微かな青筋が浮いている。


「げ、委員長」


「素直な反応ありがとう異色くん。……まったく君たちは、私のことを鬼かなんかだと思っているんじゃない?」


「え、違うの?」


 春香が透の耳を引っ張った。


「いたたたたっ、ちょ、ごめんて委員長……! 痛いからやめてくれ!」


「……言葉が足りないなあ」


「すいませんでしたあ! 委員長は、とても優しくて天使みたいに穏やかな人です!」


「わかればよろしい」


 春香は、得意げに口角を吊り上げて透を解放した。涙目になりながら耳を抑える透。その目は、無言のうちに「このゴリラ女」と非難しているようだった。


「……ところで、チョコレートソースが足りないんだよね? 今から買いに行くけど、改めてどれくらい必要そう?」


「もう行くのか……」


 充がぽそりと言うと、春香に背中を叩かれた。


「もちろん。みんなが困っているんだから」


「あのなぁ……少しゆっくりしても」


 不満を口にしてやろうとしたら、透が人差し指を左右に振って言った。


「ああ、それなら大丈夫だ。女子たちが買いに行ってくれたから。それに、充いなくなって客が少し減ったから、思ったよりもまだ余裕ありそうだしな」


「え、そうなの? それならいいんだけど……」


 仕事が減った春香は、嬉しそうにするどころか、困惑した表情を浮かべた。将来、有能な社畜になりそうだなあと彼女の未来を危ぶんでいると、春香の背後から誰かが抱きついた。


「春香先輩おかえりなさいです〜!」


「わ、亜加子ちゃんか……。びっくりしたよ」


「えへへ、ごめんなさい。春香先輩の綺麗な後ろ姿を見ていると、ついつい抱きつきたくなりました」


 亜加子は憧れの先輩を見つけたからか、上機嫌に笑っていた。口元についたクレープのあとが芸術的な紋様をつくっている。


「……亜加子ちゃん、めちゃくちゃクレープの跡ついているんだけど」


「えー、そうですか? 気づきませんでした」


「……貪るようにクレープ食ってたからな。そりゃそうなる」

 

 透が肩を竦めてそう言うと、春香は呆れたように息をついてポケットティッシュを取り出した。


「ほら、これで拭きなさい。まったくもう……せっかく可愛いんだから、そういうところちゃんとしないと勿体ないよ?」


「ふへふへ、ありがとうございます〜」


「……いや、そもそもなんで亜加子がここにいるんだよ。風紀委員の仕事は?」


 充が尋ねる。


「今は休憩時間ですから心配無用です! 私はいま自由を謳歌できる状態なんですよ〜! これから友達と待ち合わせなんですぐ戻りますが、その前に充先輩のタキシード姿拝んでおきたくて。……でも、先輩いなかったから仕方なくクレープドカ食いしてました」


「そうかい。そりゃ悪いことをしたな」


「ほんとですよ〜。透先輩のタキシード姿もなかなかカッコよくて眼福でしたが、急にハチマキ巻きだしてセンスのなさにがっかりしました」


「おい」


 不服そうな声を出した透。


 充と春香は、亜加子の率直すぎる感想に思わず吹き出しそうになった。


「たしかに、まあ……」


「その格好でハチマキはないよねぇ」


「うるせえ、汗止まらないんだから仕方ねえだろう。意外と熱いんだぞクレープ焼くのって」


 しかも接客も客寄せもやってんだからよ、とぶつくさと文句を言う透を一頻りからかい、充は「そういえば」と続ける。


「亜加子の待ち合わせしている友達って、香澄ちゃんか?」


 香澄の名前を聴いて、透が複雑そうな表情を浮かべていた。


「香澄ちゃんって、異色くんの妹だよね?」


「……まあ。あいつ、来るのか?」


「あ、いえいえ。残念ながら香澄ちゃんではありません。誘ったんですが、研究で忙しくて来れないということで。涙をのんで、他の友達と遊ぶことに」


「ふぅん。亜加子ってさ、香澄と仲良いよな。中学の時に知りあったんだっけ?」


「そうですよ。……あれ? 透先輩、香澄ちゃんから何も聞いていないんですか?」


「……ああ。あんまり自分の人間関係の話をしないからな、あいつ」


「……そうなんだ。へぇ」


 含みのある言い方をして、亜加子は眉をひそめていた。不満そうだ。二人は仲が良いから、亜加子からすると、自分の話を香澄がしてくれていないのが面白くないのかもしれない。


 その気持ちは分からなくはなかった。


「……まあ、いいです。それより、そろそろ私いかなくちゃいけません。約束していますから、遅れたら『法律違反』になっちゃいます。充先輩のタキシード姿は、あとで写真で送ってくださいね、透先輩」


「おう。それか、また友達と一緒に見に来ればいいんじゃねえか。それまでには充にタキシードコスさせてハチマキ巻かせておくから」


「やめろ……そんなダサい格好したくない」


「あははっ。それじゃ、春香先輩もお疲れ様です。また風紀委員の会合のときに会いましょうね」


「わかった。楽しんできてね」


「はい!」


 亜加子は手を振りながら去っていった。人波を縫うように、廊下を走り抜けていく。「風紀委員のくせに走ったら駄目でしょ」と、春香がこめかみを押さえて苦笑いしていた。


「……さて。喧しいのはいなくなったし、そろそろ充には手伝ってもらうからな」


「ああ、了解」


 充が笑いながら答えると、教室から春香の友人、玉虫美奈が顔を出した。


「あ、充くんと春香は入らなくていいよー。よく働いてくれてたし、休憩入ってないから休んでおいでー」


「え、でもそれじゃ皆に悪いよ……」


 春香がそういうと、美奈は目を細めて頬を膨らませた。


「こらこら、社畜発言は駄目だぞー。我がクラスはホワイト経営がモットーですからな。ただでさえ、春香は働きすぎなんだから休んできなさい! これは友人命令です」


 有無を言わせない言葉に、春香はたじろいでいた。本人的にはまだまだ体力は有り余っているし、働きたいのだろう。


「こっちはしばらく大丈夫だからさ。透くんがバリバリ働いてくれるし! ね? 透くん」


「え……お、おう。でも、イケメンがいないと客が」


「大丈夫大丈夫。なんとかなるからさー」


 納得いかない様子の透をよそに、美奈はニヤリと笑った。


「それに、そっちの方が春香にはいい口実になるだろうしねぇ」


「え? な、なんのこと?」


「充くんと一緒に休んできていいからねー! 一緒に、ゆっくり過ごしてくるんだぞー」


「ちょ、ちょっと美奈……!」


「それじゃ、ごゆっくり」


 そう言って、美奈は教室の扉をぴしゃりと閉めた。


 取り残された三人は、廊下の喧騒とは裏腹に何とも言えない沈黙が降りていた。ちらり、と充の様子を伺う春香の頬が、ほんのりと赤らんでいる気がする。


「さーて、働くかあ……」


 透は、ややぎこちない動きで後頭部をかきながら教室の中へと戻っていった。わかりやすすぎて、本当に憎たらしい。


「えっと……」


 何度か目を逸らしながら、春香は言葉を探しているようだった。さながらその様は、飼育小屋から顔をのぞかせるウサギのようで可愛らしい。


 充は複雑な気持ちになった。頭に手をおいて、小さく息を吐き出す。周りの気遣いは、ときに善意の押し付けとなるし、本来その押し付けに答えなくてはならない道理はない。透の前で、そういうことをされたのは正直腹立たしくもある。


 だが、美奈も透も知らないのだから何も悪くはない。


 春香の肩を軽くたたいて、充は笑う。


「……お言葉に甘えるとしようか」


「で、でも……」


「下、降りようぜ。ここは忙しないし、ゆっくりできるところに行こう」


 充の提案に、しばらく逡巡を見せた春香だったが、何度か教室の方を見たあと、観念したようにはにかんだ。


「わかった。……ちょっとだけだからね」


 







 口の中で弾けるサイダーのようだ。


 文化祭の賑わいは、落ち着いた場所から眺めても、ほどよく甘やかで刺激的だ。


 出店が並ぶ通りから外れた広場。普段はほとんど人がいない場所なのだが、憩いを求めて流れてきた家族連れやカップルが仲よさげに座っていて、それなりの人がいる。充も、その中に混じって静かにサイダーを飲んでいた。


 春香はいない。ここで休むと決めた途端、「ちょっと買うものがある」と何処かへ行ってしまった。


 心地よい風が、充のほてった身体を撫でていく。


「……」


「充くん、おまたせ」


 しばらくぼうっと出店の賑わいを眺めていると、春香がやや急ぎ足で近づいてきた。両手には、ソフトクリームが握られている。


「……買うものって、それ?」


「そうよ。……食べたいっていっていたじゃない」


「え? それで買いに行ってくれたの?」


「ま、まあね! 私も食べたくなったから丁度良かったよ」


 照れくさそうに返事をする春香から、ソフトクリームを受け取る。暑さのせいか、少しだけ溶けて、頂上が丸く潰れていた。


「ほら、溶けてきてるし早く食べようよ」


 少しだけ距離を開けて横に座った春香は、緊張した面持ちで、誤魔化すようにソフトクリームを舐め始めた。


「……ありがとう」


 充もソフトクリームに齧りついた。柔らかな冷たさが舌の上で解け、味蕾にとろとろと纏わりつく。砂糖の甘さと牛乳の風味。


 優しい味だ。


「……美味しいね」


「うん」


 充と春香は、それから言葉を交わさずにソフトクリームを舐め続けた。白い山が溶かされ少しずつ少しずつ消えていく。追いつかずに溶けたクリームが指をすうっと通り地面に落ちる。糖分の粘り気を、指を口に運んで掬い取った。


 春香の様子をうかがう。はしたないと眉をひそめられると思っていたが、彼女は俯き気味に下を見ているだけだった。ソフトクリームは、コーンだけしか残っていない。


 足元に、おこぼれを嗅ぎ取った蟻が増えてきていた。草を登る蟻たちの必死な姿をなんとなく眺めていると、春香が口を開いた。


「……ねえ」


「ん?」


「あのさ……充くんはさ……」


 続く言葉は出てこないようだった。肩の力を抜きながら、ゆっくりと待つ。出したり引っ込めたり忙しなく動く桜色の唇は、逡巡の表出で、少女らしい恥じらいの比喩だと思えた。


「……」


 充は、苦笑いするのを堪えていた。


 わかっている。けっして驕りではない。彼女の気持ちは、これまで二年間ともに過ごして来た中で、なんとなく理解していた。彼女の態度や周りの反応からもそれとなく察せられる。


 黒くモヤモヤした感情が心の底を這い回り、落ち着かない。毎回、そうだ。誰かに艶っぽい眼差しを向けられていると分かると、水につかっているときのような息苦しさを覚える。期待に答えられない苦痛と、同性の親友に身を焦がすような愛情を抱く自分に罪悪感の棘を向けてしまう。 


 貼り付けた微笑は、温順さが欠片もなかった。


「あの……二日目、なんだけど」


「うん」


「……誰かと約束していたりするのかなって」


 小さくなったソフトクリームにとどめを刺した。頬張った冷たさは知覚過敏の歯茎に触れてジュンジュンと響く。痛みは気にならない。気にしてはならない。


 目を向けるべきは、良心への痛み。


「……まあ、そうだね。約束してるよ」


「え……そ、そうなんだ」


 一瞬目を見開いて下を向いた春香は、明らかに傷ついていた。


「うん。……後輩たちと一緒に回る約束しているんだよ。前から学校を見たいって言っていたからさ」


「ふ、ふぅん……。後輩って、女の子と?」


「まあ、女の子もいるといえばいる。真ってやつの彼女とその友達だけど」


「そ、そっか。……へぇ」


 春香はぎこちない笑顔を浮かべていた。


 ズキズキと痛む心。


 嘘だ。本当は、まだそんな約束はしていない。誘えば間違いなく真は飛んでくるだろうが、誘いのメッセージすら保留中だ。


 誰かさんのために、ギリギリまで開けていた。


 だが、その誰かさんはおそらく捻くれた誰かと約束しているのだろう。だから、誘われることもないし、誘っても間違いなく断られるのだが、それでも訳のわからない意地のせいで、予定を埋められていないだけだった。


 コーンに、パキリとヒビが入る。無意識に強く握ってしまった。残留した白い液体が、蟻たちにさらなる慈悲を与えていく。


 嫌なやつだ。


 俺は、本当に、嫌なやつだ。


「……充くんは、やっぱり空いてないよね」


 ぽそりと零された呟きが、良心を貫通する。


「し、仕方ないね! 予定が入っているならしょうがないか! 充くんのことを二日目もこき使ってやろうと思っていたんだけど、残念だなあ」


「……二日目も働かされそうだったの? マジかよ」 


 調子を合わせるな、このクズが。


「マジマジ。充くんと、ついでに透くんは貴重な労働力だからね! ……さ、さあて、十分休んだしそろそろ戻ろうか! 二日目予約入れられなかった分、今からビシバシこき使うから!」


「……お手柔らかに」


「だめだめ! しっかり働いてもらうから!」


 立ち上がって声を張り上げた春香の目尻が、微かに光っているのを充は見逃さなかった。


「……ごめんな」


 





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