5-8.<軍団《レギオン》>の魔女
「出てこい! ダイアウルフ!」
パトリオの声に呼応してあらわれたのは、馬ほどもあろうかという巨大なオオカミだった。現実にありうるサイズではない。使役者が長い時間と魔力をかけて育てあげたのだろう。歯をむいてうなり、牙からよだれを垂らしていたが、それでも野生のオオカミの美しさをとどめていた。
――ウオォォォ……ン。
ゴゥンッ、ゴンッ、という重い音とともに、ダイアウルフは石壁へ体当たりする。犬の体重ではびくともしなかった壁だが、厚みはわずかで、おまけに急ごしらえだった。このままでは壊される――予想どおり、たびかさなる体当たりですぐにひび割れ、三度目の体当たりで崩壊した。
崩壊を予測していたスーリは壁の後ろ側を消滅させ、そこから逃げた。
「ブリンドル! アプリコット!」
すぐに猟犬たちが追ってくる。呪文で石盾を出し、しゃがみこんでしのぐ。ダイアウルフが前足でそれを破壊する。さらに奥へ……。四頭の犬たちは連携して彼女を追いつめていた。逃げづらくなるのは承知で、スーリは洗濯場の奥へと逃げるしかなかった。
パトリオの勝ち誇った声が響きわたった。
「さあ、さあ! 壁をもっと出しますか? それとも、石つぶての攻撃かな? だが、物体操作は呪文のぶん、僕の使役魔法よりも時間がかかる。……どうしますか、スーリ先生?」
残念ながら、男の指摘どおりだった。洗濯用の棚の前に追いつめられ、赤毛の犬をふせごうと盾を出したものの、もう一匹が逆側から飛びかかってくる。赤毛の犬は盾にはじかれたが、もう一匹は間に合わない!
スーリは洗濯棚の脚をつかんで引きたおした。猟犬の一匹は、逃げられずに棚の下敷きになる。
だが棚は石壁も同時に崩してしまう。一時的に攻撃をふせいだが、身を守るものがなくなってしまった。
「いまだ! ウィートン、かかれ!」
その隙を見逃さず、パトリオは号令をかけた。小柄な猟犬が、部屋の隅からよくもと思うほどすばやく駆けてくる。
呪文もついに間に合わず、淡い黄の毛色をした猟犬猟犬がスーリの足もとに噛みついた。雪用のぶあついブーツは牙を通すことはなかったが、それで動きが封じられてしまう。その隙に、高く
「押さえたか! 上出来だ!」
教師の満足げな声が遠くに聞こえる。
二頭の犬に押さえつけられながら、スーリは自由を得ようとしてもがいた。倒れた瞬間に棚の残骸に額をぶつけたらしく、強いめまいに襲われる。犬の力強い両脚で肩を押さえられ、身動きもとれない。このままでは――。
かろうじて自由な左手をなんとか伸ばし、肩口の犬に近づける。口の動きは、男からは見えなかっただろう。
「ウォンッッ!!」
犬は威嚇とともに彼女の手に噛みつこうとする――が、牙を立てる寸前、奇妙なことが起こった。犬がなぜか動きを止めたのだ。開いたままの口からよだれが落ちてスーリの手を濡らす。そこだけ急に時が止まってしまったかのような、異様な光景だった。
「アプリコット? どうした?」
教師がいぶかしむ。「魔力切れか? ……ウィートン!」
次には淡い黄の犬が、スーリの顔めがけて飛びかかった。呪文の声は小さすぎて、パトリオには聞こえない。だが、効果はさっきとおなじだった――ウィートンもまた、動きを止めて静かになった。スーリが体の上から払いのけると、子ども部屋のぬいぐるみのようにことりと横だおしになる。
洗濯場に、ぶきみな沈黙が広がった。
「なにをしている? ……石でもノドにつめたのか?」
犬に起こった奇妙な現象を、パトリオはスーリの攻撃だと思ったらしかった。顔をしかめ、「ダイアウルフでは殺してしまいかねない」と言った。その言葉で、おそらく生け捕りにしろとでも命令が出ているのだろうと察しがついた。苦手な『目』を置いてスーリをおびき寄せたことといい、もともと捕縛が目的なのだろう。……誰の命令なのか、それを吐かせなければ。
「やむを得ないな……。サンド! リバー!」
新たな猟犬があらわれた。「ダイアウルフ、魔女を軽く撫でてやれ。殺すなよ。サンドとリバーは離れて援護しろ」
ウォウッ、と犬たちの服従の鳴き声。
巨大なダイアウルフが飛びかかり、名のとおり
もはや石の壁も盾もない。あったとしても、ダイアウルフにとってはなんの障害にもならなかっただろう。前脚が洗濯棚と石盾を同時にたたきつぶした。……パトリオの位置からは、巨大な犬の影になってスーリの姿が見えない。
「どこだ……?! ……つぶすなよ、ダイアウルフ、生け捕りだぞ」
スーリの姿を探してきょろきょろする教師の耳に、「ウォンッ」という頼もしい声が届いた。サンドと呼ばれた犬が、ダイアウルフの腹の下にもぐりこんだスーリを見つけたのだ。
「なんて場所だ! 死にたいのか?!」
パトリオは悪態をついた。「そこから追い出せ、サンド! 出てきたら全員で押さえろ」
巨大犬の腹の下にいるスーリは、その命令を聞いていた。急がねば……猟犬が彼女を追って、腹の下にもぐりこもうとしている。だがそちらの相手をしている余裕はない。まずはダイアウルフを……サンドと呼ばれた猟犬の牙をなんとかのがれ、あと一歩のところでかろうじて魔法が間に合う。
「オーヴリング」
手のひらで犬の腹にふれ、小さくつぶやくと、巨大犬はぴたりと動きをとめた。静かにスーリの上から身体をどかすと、丸太のような前脚で猟犬たちをはじきとばした。
「……なに……?」
パトリオの顔に、はじめて焦りの色が浮かんだ。「僕の使役を、なぜおまえが動かせる?」
「犬の使役者だったのか? ……いや、たしかに石を操っていたはず」
男はぐっと拳をにぎり、さらに叫んだ。「ダイアウルフ! 戻ってこい」
だが、犬はうつろな目を主人に向けただけだった。
「くそっ! なにが起こっている? あいつの魔法は何なんだ?」
パトリオはダイアウルフを見つめ、手をふって焦りをしめした。「……こんなところで、貴重な使役を何匹も失うわけには……。あいつらを出すしかないのか?……」
葛藤しながらも、やむを得ずといったふうに手を伸ばす。
「ナイト! ウィザード! 出てこい、僕の最初の猟犬たち……」
出てきたのは、ダイアウルフよりひとまわり小柄だが、それでも規格外に大きな二頭の猟犬だった。「最初の猟犬」という言葉どおり、愛情と魔力がふんだんに注がれ、自信に満ちてつやつやと毛並みを輝かせていた。
二頭は連携してスーリに襲いかかった。ダイアウルフが彼女を防御するが、その脇をすり抜けるようにして標的を襲う。
今度のスーリには魔法を練りあげる時間があった。石は兵士の姿となり、横に構えた剣で猟犬をなぎはらう。返す刀で、もう一頭。
「くそっ!!」教師は悪態をついた。
「僕はなにを見落としているんだ? ほんとうに物体操作か? だが、石があんなふうに自在に動くはずがない。まるで自分の意志があるかのように……そして犬は……?」
ダイアウルフがナイトを押さえつけているあいだに、また呪文。石兵を瓦解させ、足を取られたウィザードにも呪文。
犬の鳴き声も、動き回る爪の音も、もはやなにひとつ聞こえなかった。音のない雪原に足を踏みいれたかのようだ。
静まりかえった洗濯場で、パトリオのうろたえた声が響きわたった。
「なぜなんだ?! なにが起こっている?! 僕の……僕の使役たちは……」
犬たちの荒い息は、もう聞こえない。人形のように静かに、不気味に、パトリオを見つめ返していた。
「おまえ……おまえたち……」
「それで終わり?」
ぽつんとした声が床を打った。教師がはっと顔をあげた。
「そう……終わりなの」
スーリは、輝きのないよそよそしくうつろな目で男を見た。「わたしの軍団は、まだ出せるわよ」
そして口を開く。
「ガーヴェイオン。クルスク。マトリセリオン」
スーリの手が動き、床石がばらばらとはがれて立ち上がった。石は兵の姿となる。その数はひとつやふたつではなかった。その目にうつろな光をやどした、洗濯場を埋めつくすほどの兵。
その光景がようやく、男になにかをひらめかせた。
「呪文ではない」
「ボルガミル。リネーシュ。トルディナン」
スーリは唱え続け、男の瞳孔が大きく開かれた。「……名前だ。しもべの名前を呼んで発動するのは、私とおなじ
「サー・ガーヴェイオン。サー・パルヴァーン。マスター・ディシリン」
白髪をゆるやかになびかせながら、スーリの詠唱は続く。「来て、ここへ。
パトリオはなにかを察知し、口もとを手でおおった。
「ああ、そんな。ああ、そんな。ああ、そんな」
そして、恐怖に見開かれた目でつぶやいた。「使役じゃない。人間の名前」
名を与えられた石たちは兵となり、二頭の巨大犬をたやすく踏みつぶした。
「“わが名はレギオン、われわれは大勢であるがゆえに”」
教師はあえいだ。「死者を使役する<
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