4-9.友人にはなれない
家にたどりつくころには、頭上高くに星がまたたいていた。こんなに夜遅くまで外出していたのははじめてだ。上等のケープでも肌寒さを感じるほど冷えこんでいて、熱い茶が恋しかった。……ところが、暖炉に火を入れ、
「やれやれ、馬をつなぐのにてまどった。あいつはさみしがりなんだ」
そういって暖炉に近づく。
火はすでに大きくなり、調理用の鍋が同時に温められている。
「スープの残りがあるね」
ジェイデンはフタを取って中身を確認した。「けっきょく夕飯を逃してしまった。……なにか作ろうか」
「……じゃあ、お願い」
スーリの頼みに、男はほほえみながらうなずいた。迷いもなくパントリーへ入っていく。どこになにがあるのか、すっかり把握しているのだ。……すぐに調味料や食品を持ってきて、味見しつつあれこれ足していく。カブの残り、今年の干し肉、チーズの切れ端、新鮮なミルク……。
スープが煮えるまでのあいだ、ふたりは先ほどまでの緊張を忘れるように楽しく会話した。兵士たちが慰労会を楽しみにしていたこと。料理長もはりきって、秘伝のハムとブラウン・ソースを披露したこと。あの娘と従騎士の親しげな雰囲気……。
「……おいしいわ」
皮肉を言うには、今夜は疲れすぎているようだった。スーリは正直につぶやく。ジェイデンは自分のぶんをよそってから、「狩りなんかで、自分で調理することもあるからね。口にあったならよかった」と言った。
温かい料理のおかげで、ようやくあの悪夢が遠のきはじめた。
食事が済むと、青年は二人分の木皿を古布でぬぐい、調理鍋を火からおろした。
「王子なのに、ずいぶん慣れているのね」
先日のチーズ鍋といい、今日のスープといい……。スーリには不思議だった。
「きみはひとり暮らしの女性にしては、ずいぶん不慣れだね」
王子は作業をしながら返す。
「あまり生活のことはしてこなかったの」
「箱入りのお姫さまだったのかな」
「……いいえ」
危険な会話だった。弟がこの場にいたら、どれほどあきれ、ののしられるか。自分だって、こんなことをするつもりはなかった。もう、王子にはかかわらないつもりだったのだ。なぜいま、ふたりはこうして暖炉の前で見つめあっているのだろう?
「今夜を最後にするつもりだった。もう、きみにはかかわらないと……」
スーリの心を読んだように、王子もそう言った。
それからしばらく、言葉を探すように目線をさまよわせていた。
「でも結局、今日もきみのことしか見えていなかった。きみの目がおれを追っているのが、わかったよ」
ジェイデンは彼女の前にひざをついた。「だから異変にも気づいたんだ」
「忘れて。今夜を過ぎれば、もうかかわりはなくなるわ」
スーリはそう答えたが、ふいに感じた寒気に自分の身体を抱いた。遠く離れ、安全な地にいるというのに、ふとした瞬間にあの男を思わせる影におびやかされる。
ジェイデンはその様子をじっと眺めてから、テーブルの上に置いてある果実酒用のビンを持ってきた。
「これが、あの媚薬?」
椅子にかけたスーリの前にひざまずく姿勢で、王子は尋ねた。
「ええ」
うなずくと、彼はなかの細長いレードルで酒を
「口を開けて。飲むんだ」
レードルの先から金色のしずくがしたたるのを、スーリの目が追った。ジェイデンは、彼女だけを見ていた。本人の言葉どおりに。
「魔女に媚薬を飲ませるの?」
「ほんとうに媚薬なら、もっと早くに飲ませてるよ。さあ……身体が冷えてる」
王子の言葉はほんとうだった。淡い黄金色の果実酒が喉を通ると、指先がしびれるほど熱くなる。
「きみをおびやかしているのは過去の亡霊だ。どこに逃げても、過去から身を守る方法はない」
そう言うと、ジェイデンはレードルから自分もひと口飲んだ。「きみには、おれが必要だ」
――いいこと、ふたりで分け合って飲むのよ。
――半分ずつ、彼の目を見てね。そうしたら、しだいに効いてくるわ……
ふたりでひとつの杯をわけ、見つめあいながら飲めば……それは媚薬とおなじ。娘にかけた魔法が、形をかえ自分のもとに戻ってきてしまったことを、スーリは感じた。
ためらいとともにジェイデンの顔が近づいてきて、彼女の目をのぞきこんだ。大きな手が、神聖な水を
唇は
「前に、男性にひどい目に
スーリは……こんな状況で、自分でもどうかしていると思ったが、そう切りだした。男の腕のなかで。
「相手は権力者で、わたしは自由を奪われていて、逆らえなかった。……こういうことは、打ちあけないほうがいいんでしょうね。自分の身を守るためには」
「ああ」
スーリを胸に抱きよせ、彼女の髪を鼻先でかきわけながら、ジェイデンはつぶやいた。
「きみにはもっと用心深くなってほしいと思う。そういうことを打ちあけるのは、おれだけでいい」
「前は、そんなことを打ちあけるなと言ったわ」
温められたキルティングジャケットの匂いと、ジェイデン自身の匂いにつつまれながら、スーリはつぶやいた。「『友情から忠告する』と」
「もう友人じゃない」
耳のなかに
腕の力が強まって、ジェイデンが葛藤する様子がつたわってきた。鼓動が早く、息は全力で走ったあとのように荒い。全身が、まるで耳まで引きしぼられた弓のように緊張していた。それでも、その先へ進むのを理性の力でとどめているらしかった。おそらくはスーリをおびえさせないように。
「時間をかけたのは、きみが人間ではなく男性を怖がっているのがわかったから。踏みこまれたくないのも、おれを遠ざけようとしているのも、知っていたよ」
最後に一度、きつく抱きしめてから、ジェイデンは彼女を解放した。
「……おれの愛情がきみをおびえさせるとしても、離れたくない」
「
スーリは苦しげに頭をふった。
「あの男のことだけじゃないの。わたしは、人間の世界と深くかかわってはいけないの。とくに、あなたのような立場の人とは。……最後には、全員がおそろしい目に
あとから思えば……。
ジェイデンはこの時点で、彼女の正体をだいたいつかんでいたに違いない。だからこそ、スーリの謎めいた言葉にも眉をひそめることなく、落ちついていたのだった。
「今日はもう帰るよ。これ以上いっしょにいて、きみに触らない自信がないし」
そう言うと、ようやくいつもどおりの笑みを浮かべた。立ち上がってスーリを立たせ、扉のまえでこう言った。
「今じゃなくてもいい。スーリ、おれの側にも、解決しなきゃいけない問題がある……おれ一人で。そのことはいずれ話すよ。
でもそのあとは、ふたりで乗り越えよう」
それから、猫のあいさつのように甘く優しく額を押しあてた。「いっしょにいよう、スーリ」
スーリは……おそらく、その言葉の意味を考えてはいけなかったのだろう。なにも考えずに拒絶するべきだったとあとからなら言える。だが、この夜の彼女は、それを受け入れてしまった。ジェイデンは安心させるようにほほえんでから、なごりおしげにキスを落として出て行った。
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