12-4 陽菜乃ちゃんとバーでしっぽり

「ふう、おいしい」


 中目黒。目黒川沿い一軒家地下の、狭いバー。陽菜乃ちゃんは、ビールを飲んでいる。陽菜乃バージョンの飯ゴチは、中目黒の隠れ家バーというご指定だったからな。まあ場所まで指定されたんで、楽っちゃあ楽だ。


 今はまだ十八時ちょい。バーとしては早朝みたいなもんで、俺と陽菜乃ちゃんが口切り客。他に店内にいるのは、カウンターの向こうでなんか一所懸命どでかい氷をまんまるに削っている、マスターだけ。静かなジャズが流れている。


「たしかに」


 俺もビールを飲んでいる。ピルスナーに、バーならではの薄いグラスがいいんだよな。凍らせたジョッキの生ビールなんかとは、また違う旨さがあってさ。


 陽菜乃ちゃん今日は、黒のセーターに濃いインディゴのデニム。羽織ってた薄手のコートは、背後のハンガーに掛けてある。もう十月も半ば。それなりに寒い日が増えてるしな。コートないと辛いだろ。


 セーターの上に細い金のネックレスをしていて、大学生にしては大人っぽい装いだ。胸が大きいから、セーターは柔らかそうに膨らんでいて、ネックレスがきれいな曲線を描いている。


 この娘、妙に色っぽい……というか、ソソるところがあるんだよなー。菜々美グループではダントツに。雰囲気美人というかさ。


「早い時間のバーもいいよな」


 深夜のただれて淀んだバーもいいが、口切りもいい。まだ空気が深夜に染まってなくて、きりっとしてる。そこできっと唇が切れるほど鋭いカクテルを一杯だけやっつけて、夜の街に繰り出すのが好きなんだ。友達との飲み会の日とか、よく待ち合わせ前にひとりでやるわ。


「へえ……」


 俺がそう話すと、陽菜乃ちゃんは、俺の瞳をまじまじと見つめた。


「大人って感じ。木戸さん、若いのに渋いね」


 興味津々といった感じだ。


「あたしの付き合ったおじさまなんか、歳だけいってるのに、子供みたいだった。口開くと自慢ばっかりでさー」


 陽菜乃ちゃんはファザコンで年上好みらしいからな。菜々美ちゃんによると。


「付き合う前は、おじさまって素敵って思ってたけど、がっかり。すぐエッチな方面に話持っていくし。同世代の男とまるまるおんなじで」


 別れたからか、結構辛辣だな。


「あんまりムカついたからそういう要求全部無視してたら、なんか捨て台詞残して消えちゃった」


 はあーと溜息をつくと、ビールを飲み干した。


「次、木戸さん、なに飲む」

「そうだなあ……」


 酒瓶並ぶ棚を眺めてみた。とっておきといった古そうなスコッチや、近年プレミアム化が激しいジャパニーズウイスキーの特別な品とかも並んでいる。結構本気のバーと見た。……でもその手を頼むと高いからなあ……。飲みたいっちゃ飲みたいが、悩むところだ。


「ジンでももらおうかな。トニックで割って」


 無難だし、安いからな。転んだわ、俺。


「あたしもそれにしようかな」

「モヒートとかでどう」

「じゃあそれで」


 注文した。モヒートに使うミントの旬は春だけど、まあいいだろ。ジンをガンガンやらせると、酔っちゃうかもしれないからな。


 カクテルと一緒に、マスターがドライフルーツと小さなチョコ、それにデミタスカップに入ったコンソメスープを置いてくれた。


「うん。おいしい。ミントが爽やかで」

「良かった」


 陽菜乃ちゃん、気に入ったみたいだな。にしても、季節外れなのにいいミント仕入れてるな。俺のとこまで香ってるし。曲がりなりにも食品会社の開発なんで、主要な食材の旬くらいは勉強して覚えた。実生活でも、たまーに役立つ。


「ここ、来たかったんだー。有名だから。芸能人もお忍びで来るって……」


 体を寄せるようにして、小声で呟く。店の話だからな、静かな店内では聞かれたくないだろうし。


「でも、女子ひとりは入りづらいし。ちょうどいいから木戸さんにご馳走してもらおうって」


 ぺろっと舌を出した。


 ちゃっかりしてるわー。てか俺、入りづらい店に突撃する護衛だか前衛だかに使われてるな、いろんな娘に。


 まあいいけど。女子大生とデートしてると、嘘でも思い込めばいいんだからな。狭い部屋でずっと地味な暮らししてきたから、食品メーカーの安給料とはいえ、そこそこ預金あるし。非モテの俺が女子と飲めるなら、多少蛇口緩めてもいいだろ。


 こんな機会、滅多に……というか、これまで皆無も同然だったし。結菜が来てから、妙に女子運気上がってるわ。あいつ、実は弁天様かも……


「ここ、カレーも名物なんだよ」

「だろうなー」


 店入った瞬間から、香ばしい匂いが漂ってたからな。


 カレーは最初に玉ねぎ炒めるのが最大の手間で、あとはとろとろ煮込んで焦げだけ注意しとけばいい。バーは客や注文待ちの空き時間が多いし、といって本格的な料理ができる高火力で広い厨房も、普通は無い。煮込んでときどき見張ってればいいだけのカレーとは、相性がいい。だからカレーを出すバーって、意外に多いんだよな。


「頼んでいい? チョコ摘んだら、余計にお腹減っちゃって」

「カレーかあ……」

「ぷっ」


 俺がよっぽどうんざりした顔をしてたんだろう。陽菜乃ちゃんは噴き出した。


「菜々美に聞いてるよ。コンペの開発、大変なんだって」

「まあなー」

「たまには他人のカレー食べるのもいいかもよ。気分転換に」

「そうだなー」


 それもそうか。なにかのヒントになるかもしれないし。それに女子大生を腹減り放置するわけにもいかないし。


「じゃあ頼むか。ふたり分」

「やったあ」


 嬉しそうに手を上げて、マスターに注文している。


「うん。おいしい」

「たしかに……」


 思わず唸っちゃったよ。


 カレーは、ちょっと変わってた。言っちゃえばひき肉使ったキーマカレーなんだが、丸く整形したライスの上にキーマルーを覆うようにまとめて、全体にとろけたチーズを掛けている。だから見た目、鏡餅か巨大大福かって感じで、茶色いルーは見えていない。上に生の卵黄をトッピングしてるから、まさにだいだいを乗せた鏡餅だな。


 口に含むとまず、チーズの豊かでマイルドな発酵臭が口内に広がる。それからスパイシーなキーマの歯応えがあり、米と卵黄が双方の間を取り持ってバランスを保っている。アタックの強い蒸留酒を出すバー飯ならではというか、スパイス強めな仕上がりだ。


 俺達が開発しているインドカレーとは違って、いかにも日本人が魔改造したカレーって印象だが、うまい。


「よくこんなもん考え出したな」


 俺は舌を巻いた。カレーって、奥深いわ。


「木戸さんのほうは、進捗はどうなの」


 カレーも食べ終わり、三杯目のカクテルを飲みながら、陽菜乃ちゃんが切り出した。もう八時前だから空席はほぼ埋まり、マスターはせわしなく酒の世話をしている。


「外堀はほぼ埋まったよ」


 俺は説明した。コンビニの調達部門にプレゼンして、導入に向け、好感触を得たこと。さらにインド大使館から連絡があり、発売が決まれば後援してくれると決まったこと。


「大使館がつくの。すっごい」


 陽菜乃ちゃんが首を傾げると、金のネックレスが照明に輝いた。


「菜々美ちゃんのおじさんが、向こうの商務官と留学時代の知り合いでさ。その力が大きいと思うよ」


 おそらく、本国や在日インド大使に、うまく話を通してくれたんだろう。ネールさん、やるなあ……。


「それって日東ハムの役員の人でしょ」

「そう。本社の法務・コンプライアンス担当」


 田舎研究所一職員の俺からすれば、殿上人か雲の上ってところだ。なにげに、菜々美ちゃん、それなりのコネがあるんだよな。そらインターンシップに選ばれるわけだわ。


「販路も後援も押さえたなら、終わったも同然じゃない。すごいね」

「いや、肝心の開発がなあ……」


 俺は説明した。添付袋をゼロから見直すことになって、泥沼にはまっていることを。


「なんとかなるよ、木戸さんなら。あたし信じてる」

「そうかな」

「絶対だよ」


 俺の手に、手を重ねてきた。


「……混んできたね」

「そうだな」

「悪いし、そろそろ出る?」

「かなー」

「あたしん家、すぐ近くだよ」


 俺の瞳を覗き込んでくる。


「飲み直そ」

「……とりあえず出るか」

「うん」


 勘定を済ませて店を出ると、木枯らしが吹いていた。


「寒いね」


 俺の腕を、胸に抱え込んできた。胸を感じる。


「すぐそこだから」

「歩いて?」

「決まってるでしょ」


 俺の肩に頬をすりつけるようにして、くすくす笑う。


 いやこれどうしよう。


 先程から、俺は悩んでいた。いくら俺が非モテで女子耐性ゼロとはいえ、わかる。これ絶対、明らかに誘ってるよな。かなり積極的にタッチしてくるし、家に誘われてるし。家で軽く飲んだらそのままいい雰囲気になって、ベッドになだれ込む奴だろ、これ。


 アパートでは、結菜が俺を待っている。だが今日は飲んでくると言ってあるから、そのまま泊まったって特に問題はない。終電逃したから漫喫で寝たで済むだろうし。でもなあ……、なんとなく罪悪感があるんだわ。


 とはいえ、主任にも言われた。もっと広い世界で女子といろいろ付き合えって。これ、「いろいろ付き合う」の一貫だよな。別に結菜と結婚してるわけじゃない。もっと言っちゃえば、恋人ですらない。自称セフレだが、謎の居候だ。俺のアプローチを断った結菜に、義理立てする必要はない。


 いつまでも童貞こじらせてるから、結菜に振り回されてるのかもしれないし。一度しちゃえば、変なしこりが取れて、むしろ結菜とも自然に付き合えるってものかも。


 陽菜乃ちゃん、年上と付き合ってきたファザコン娘なんだから、ある意味経験豊富だろうし。俺童貞の相手してもらうのに、ちょうどいい気もする。それになにより、かわいいし。こんな娘が非モテの俺を誘ってくれるなんて、百年に一度あるかないかの奇跡だわ。


「こっち」


 俺の腕を抱いたまま、陽菜乃ちゃんはゆっくり歩き始めた。肩に頬を寄せて。抱かれた腕を通して、胸が呼吸で膨らむのがよくわかる。いい匂いがする。洗いたてのタオルのような、甘い香りのような。


「木戸さんって……大人で素敵。あたし……」


 陽菜乃ちゃんは呟いた。

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