89話 アンナさんとサシ飲み
六月上旬。
俺は会社の先輩、アンナさんと一緒に、居酒屋にいた。
「プロジェクト終了を祝って……かんぱーい!」
「かんぱーい」
俺たちはテーブル席に座ってビールのジョッキを付き合わせる。
ついに今日、仕事が完了したのだ。
「ぷはー! 一仕事終えた後の酒は美味しいね!」
「いやぁ……マジで美味い……」
ふぅ、と俺たちは吐息をつく。
「しっかし
俺たちに任されたミッション。
夏コミに向けた新商品の開発だ。
【きみたび】という、実写映画化も決まってる人気ライトノベル。
そのグッズを夏コミに、急遽出すことになったのだ。
上司の
「いやぁ……ほんと
「いいやまあ、運が良かっただけっすよ」
俺はどういうわけか、取引先に気に入られる。
仕事が終わった後も頻繁に飲みに誘われるのだ。
今回の仕事も、そういうツテを使ってクリアした次第。
「ファンが納得してくれますかね」
「大満足でしょ! このラインナップを見たらねえ」
アンナさんが商品のサンプルを取り出す。
アクリルキーホルダーを始め、色んな商品が目白押しだ。
「いやぁ
「いや頑張ってくれたクリエイターの人たちであって、俺はお願いしただけだしな」
「それでも、この人脈の広さは目を見張るよ。やっぱり君は凄い人だ」
うんうん、とアンナさんがうなずく。
俺は訂正しておく。
「俺だけの力じゃないっすよ。アンナさんのサポートがあってこその、このスピードじゃないですか」
だいぶ最初の段階で、アンナさんは自分が裏方に回ると進言してきたのだ。
細かい仕事を彼女が処理してくれたからこそ、スムーズに事が進められたと言える。
「じゃ二人でつかんだ勝利ってことで」
「ああ、そうですね」
俺たちはジョッキを付き合わせる。
この間の焼き肉の時は、違和感があったけど……今ではもう普通に会話できてる。
「これで
アンナさんがテーブルに頬をついて、はぁ……と溜息をつく。
「また組む機会もありますよ」
「そうかなぁ~……。その前に君、うちやめちゃわない?」
「は? 辞める……?」
何を急に言い出したんだろう。
「……SR《うち》やめて長野のほうへ帰るんじゃないの、数年したら」
「え、いやいや! 何言ってるんですか。そんなことしないですよ」
長野は俺の実家があるとこだ。
それと仕事を辞めることと、同関係があるんだろう。
「本当に? でも……嫁ちゃんと結婚したら、仕事、どうするの?」
「どうするもなにも……」
「だって嫁ちゃんの実家は、長野県なんでしょ?」
真琴と俺は同じ長野出身だ。
真琴は中学まで、俺は大学まで向こうだった。
就職して俺は東京へとやってきた。
真琴は高校入学のために。
「嫁ちゃんの高校卒業後の進路って聞いてる?」
「俺と結婚するって張り切ってますけど」
「だとしてもさー、実家から離れたところに、永久に暮らすのって、辛いよ?」
アンナさんが真面目なトーンで会話してくる。
彼女の言っていたこと。
実家から離れて、永住すること……。
「俺は辛くないですけど……あー……つまり、嫁が、真琴が辛いかもってことです?」
「そゆことー」
アンナさんがビールのおかわりをする。
「男って結構、そういうとこ気にしないし、就職で親元を離れるのって当たり前だけどさ。でも女からすれば、親元をずっと離れるのってきついもんよ」
「そういう……もんですかね」
「うん。それに女の方の親もね、やっぱり自分の元にいて欲しいもんよ。特に母親はね」
……母親、か。
真琴の母親は、彼女を生んですぐに死んでしまった。
彼女の母は、どう思うのだろう。
俺と一緒に、東京に暮らすことを。
彼女の実家を離れることを。
「指を送るってことは、身を固める覚悟があるってことでしょ?」
「そりゃもちろん」
「ならちゃんと嫁ちゃんに、意思確認しといたほうがいいわよ。本当に東京でいいのかって。長野じゃなくていいいのかって」
確かに、真琴はいつも結婚を急ぐけど、でもその結婚の先が話題になったことは一度もない。
俺は今、SRクリエイティブ……東京の企業に勤めている。
できれば俺はずっとここで働きたい。
良い上司、族のために休みを取りやすいし、給料も良い。
真琴と幸せな暮らしを考えるのなら、この企業ではたくことがベスト……。
だが……。
真琴の意思はどうだろうか。
長野を、親元をずっと離れて、永久に東京で暮らすことを……どう考えてるのだろう。
「その顔じゃ、何も話し合ってないみたいね~」
「はい……すみません……」
「いやいや、謝る必要ないよ。ただ考える必要はあるよねってこと」
「ほんと、そうですよね……」
結婚。
文字にすれば二文字。
だが文字数ほど単純じゃない。
相手にだって生活がある、家族が居る。
結婚するとなるのなら、そこも考えていかないといけない。
「田舎を実家に持って、東京で就職する問題は、少なくともクリアしとかないとね」
「そう……ですね。俺は……真琴の幸せを尊重します」
「ふーん……」
アンナさんは、俺の何かを図るように目をのぞき込んでくる。
「まぁ、口で言うのは簡単だけど、難しいもんだいだと思うよ。嫁ちゃん……たぶんお父さんのこと大好きだろうし」
「そりゃ……そうですよ。だって母親が生まれたときからいないんですから」
「うん。だからこそ、結婚して東京に永住って問題は、そう簡単にクリアできないんじゃないかなーって、アンナさんは思うんだなぁ」
先輩の言う通りだ。
真琴はああ見えて、結構まめだ。
何かうれしいことがあると、俺と共有した後、自分の父親にも連絡を入れる。
それほどまでに、あの子は父親を愛している。
母親が居ない彼女が、さみしがらないように、たっぷりと……。
「そんな激重女よりも、あたしのようなかるーい女に乗り換えとか、しちゃう~?」
酔っ払ったアンナさんが、潤んだ目で俺を見上げる。
「あたしは~。実家東京だし、そういう面倒なバッグボーンは一切持ってないよ? どう?」
……頼れて、綺麗で、しかもエッチな先輩。
俺がもしも、真琴とで会う前、同じセリフを言われたら……きっとなびいただろう。
「すみません。無理です」
俺はきっぱりと断る。
「俺は、真琴が好きなんで」
俺の決意は変わらない。
あの幼なじみと一緒に、歩んでいくんだって決めているから。
「そっか♡ じゃあがんばっ♡」
アンナさんはあっさりとそう言って、俺を励ましてくれた。
……前とはなんか、全然違う。
俺に執着しなくなった……のかな。
「てゆーか、真琴の実家のこととか、家庭環境のこととか、なんで知ってるんすか?」
「女子の情報網をなめないでくれたまえ~」
怖いな、女子の情報網……。
セキュリティロックをかけておきたい……。
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