52話 下の名前で呼んでほしい
山中湖近くのキャンプ場にて。
ほどなくして、俺たちはバーベキューの準備を終えた。
「いやぁ、お疲れさん、
テントの設営、火起こし、どれも安茂里がいてくれたおかげで、スムーズに終わった。
「…………」
「安茂里?」
彼女はぼんやりと、何かを考え込むそぶりを見せ居ていた。
俺が肩をつつくと、ばばっ! と過剰に反応して、俺から距離を取る。
「な、ななな、なんでしょうっ!?」
「あ、いや……単にお疲れさんって言いたかっただけだけど」
そんなに俺に触られるのが嫌だったのだろうか……。
地味にショック……。
うう……真琴ぉ~……なぐさめてくれ……
あ、いないんだって。
まったく、なんて嫁だ。ずっとそばにいてくれないと困るじゃないかっ。
「あ、なるほど……すみません!」
ばっ、と安茂里が頭を下げる。
長い栗毛がばさっばさっ、とまるで犬の尻尾のように上下する。
「いやいや。それにしても、見事なもんだよ。おまえみたいなキャンプ上級者がいてたすかった」
火起こしとか素人が出来る技じゃないだろ……。
なんだよあれ、炭に火をつけても全然燃えないんだもん。
安茂里が松ぼっくりとか集めてきて、それを着火剤にして火をつけてくれなかったら俺たちは生肉でバーベキューするところだった。
「いやそんな……きょ、恐縮です!」
頬を指でかき、へへっ、と照れくさそうに笑う安茂里。
「今回はおまえにかなり迷惑かけたな。何かお詫びしたいんだが」
「お詫びなんてそんな! わたしは自分の出来ることをしたまでですし!」
ぶんぶん! と安茂里が首を横に振る。
まじめなやっちゃ。
だが先輩として、後輩に頼りっぱなしってのは気が引ける。
「まーそういうな。何かお礼させてくれよ」
「お礼……」
「そう。何かしてほしいこととか」
安茂里は何度か躊躇したあと、上目遣いで、俺にこんなことを言う。
「じゃ、じゃあ……ひなって、呼んでください」
「え? それだけ?」
ひな、とは安茂里の下の名前だ。
「は、はい……! あ、あの……いつまでもその……名字呼びは、その……距離を置かれてる感じがあって……だから……」
もじもじと安茂里が身をよじる。
教育担当だったこともあって、俺はずっと安茂里を安茂里呼びしていた。
そこに他意はなかったけど、彼女は気にしていたらしい。
後輩との円滑なコミュニケーションをとるためだ、彼女のお願いを聞いてあげるとしよう。
「オッケー、安茂里……じゃなくて、ひな」
ぱぁ……! とひなが明るい表情になる。
「も、もう一度っ。もう一度呼んでくれますかっ?」
「? いいけど……ひな?」
「~~~~~~~~~♡」
ひなはその場で足踏みして、ぴょんっ、とジャンプする。
「……前進っ、前進っ!」
「どったん、ひな?」
「いいえなーんでもありません!」
ぐっぐっ、とガッツポーズを取るひな。
まあ何はともあれ、バーベキューの準備は整ったわけだ。
★
「……それじゃあみんな。親睦会をはじめるわ」
部長である
すでに肉が焼けており、良い匂いがあたりに充満している。
「……飲み食いは自由だけど、羽目を外しすぎて、湖に落ちないように」
「「「はーい! 部長ぉ!」」」
ノリの良い男性社員達が手を上げる。
「……それじゃ、乾杯」
「「「かんぱーい!」」」
いっせいに、みんなが肉にかぶりつく。
「うめええ!」「なんだこの肉ぅ!」「やわらけええ!」
網の上で焼かれているのは、どう見ても高級肉だ。
匂いだけで心が満たされる……。
「で、あのぉ~……みなさん? どうして俺が肉焼く係なんでしょう……?」
俺が串をひっくりかえしながら、男どもに尋ねる。
「貴様を一人にすると、またアンナ先輩やひなちゃんを独占するからだ」
「そのとおり。貴様肉でも焼いてるがいい
「おれたちが先輩とひなちゃんと仲を深めているのを、そこで指をくわえて見てるがいい
げへへっ、とゲス笑いする男ども。
まあ別にいいんだけどね、こういう作業好きだし俺。
「
「「「アンナ先輩!?」」」
くわっ、と男どもが目を見張る。
ロシア系美女のアンナ・
「いや、いいっすよ。俺がやるんで」
俺が言うと……。
「そうですよアンナさん!」「雑用は
だが、アンナ先輩は、うーんと考え込んだあと……
「やっぱり
「「「
そこでキレるのはおかしいだろ……!
雑用押しつけたのはおまえらだろうが……!
アンナ先輩が俺の隣に立つ……。
「あの……近くないです?」
「えー? そうかなぁ~?」
肩が完全にくっついている。
先輩は今、袖なしのシャツを着てらっしゃる。
なので生の腕が、こう……あたるわけです。
しかもVネックのシャツを着ていて、ここからだとちらっと黒いブラが……。
「ブラじゃないよ♡ 大胸筋強制サポーターだよ♡」
「へ、へえ……」
「嘘♡ ブラです♡」
「じゃ、じゃあ胸元隠しましょうよ」
「やだなぁ。
笑顔でとんでもないこといってるぞこの人……!?
「あ、ほらほら、焦げちゃう焦げちゃう♡」
俺はアンナ先輩と串を焼いていく。
焼けた串を社員に配る。
「
血の涙を流しながら、男性社員たちが肉にかじりついている。
「いやおまえらがやれって言ったんだろうが……」
「あはは! みんなと仲いいねぇ
「そう見えるならアンナ先輩はコンタクト買えた方がいいっすよ……」
しばらく肉焼くのに集中する俺たち。
「ところでさー
先輩は俺とひなが、テントの中で二人きりだったことを知っている。
そのことを指して言ってるのだろう。
「あれは事故ですって」
「ふーん。でもそのあと、ひなちゃんのこと、ひな、って呼び捨てにしてなかった?」
め、目ざとい……というか、耳ざとい?
「何かあったの? 気になるなぁ」
じーっ、とアンナ先輩が俺を見つめてくる。
青い瞳に、吸い込まれそうになる。
近くで見るとめっちゃ美人だなこの人。
なんだか甘い良い匂いもするし……。
「た、単にひなから言われたんです。いつまでも名字呼びじゃ、ハブられてる感があるって」
「ふーん……そっか。じゃあ貴樹君はあたしのこと、【アンナ】って呼び捨てにして♡」
「いやなんでですか?」
「ひなちゃんだけ、ひなって呼び捨てにしてるんでしょ? ならあたしだってそうしてもらわないと、ふこーへーだもん♡」
アンナ先輩が顔を近づけてくる。
笑顔で、迫ってくる。
も、もう少しで唇が触れてしまう……!
「ちょ、離れてくださいって……」
俺は今、両手がトングやらで塞がっている。
「じゃ、言って♡ アンナって」
……ここで言わないと、この状態を解除してくれない雰囲気がある。
真琴、これは浮気じゃないからな。
俺の一番はおまえだから。
「あ、アンナ……………………さん」
年上の女性を呼び捨てにはできなかった、さすがに。
「うーん……ま、いっか♡ ゆるしてあげよう、貴樹♡」
「ええー……呼び捨てぇ」
「君があたしを呼び捨てにしてくれなかった罰です~。ふふっ♡」
アンナさんが俺からトングをうばうと、ささっ、とお皿に肉を盛る。
「ここはあたしがやっとくから、休んでてよ」
「あ、はい。じゃあお言葉に甘えて……」
俺はお皿を持ってその場から離れる。
ふぅー……やれやれ、疲れたぜ……。
「「「「…………」」」」
男性社員、およびなぜかひなも、俺を凄い形相でにらみつけてきた。
「な、なんすか……?」
「「「処す……!」」」
なんでやねん。
ぴろんっ、とラインが来た。
真琴からだった。
【判決、浮気! ぎるてぃー! (`ε´)】
いやだから、なんでそんな、見たように反応するのおまえ!?
ふと、気づくと、部長こと
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