天才音楽家の苦闘

 口早に、ルブランス側の警備員が見回りに来たことを告げる。それを聞いたジョゼットは、器用に丸テーブルの片付けると、その上にトランプのカードや官給品のタバコ、小瓶のウィスキーなどをバラバラと撒き散らすかのように乗せた。ベッドの上にあったトランクも、レンガ状の魔石が積まれた隅の隙間に押し込まれる。

 ほんの二分も経たないうちにジョゼットの部屋は、仕事上がりの労務者たちが、配給品の中でも貴重なタバコや蒸留酒類を賭けて、カードで真剣勝負している場に化けてしまった。


「夜間巡回公安の者だっ! なにをやっておるっ!」


 労務者たちを夜に見回るため「フクロウ」の隠語で呼ばれる巡回公安の男が、乱暴に部屋の扉を押し開けると、カードゲームの勝負を装った場に乗り込んでくる。

 床には空になった携帯弁当箱にビール瓶が乱雑に散らかり──どう見ても、夕食後の仲間内でのカード勝負を行っていた場にしか見えない所へ踏み込んできた巡回公安は、怒鳴るように告げた。


「私的な賭け事は禁止だぞっ! 貴様ら、ここにある物品はすべて没収するっ!」


 そう宣言し、制服姿の男が用意良く持ち込んできた麻袋の中に、次々とタバコの箱や蒸留酒の小瓶を放り込む。

 表向きには「没収する」と言っておいて、実際のところはすべて自分の私服を肥やすために、押収物を闇市で売り払うのが「フクロウ」の遣り口だ。どこの世界でも木っ端役人というのは、ちまちまと稼がなければ家族を養っていけないものなのである。


「ああー、巡回公安のダンナ。どうかお目溢しをー」


 などと、哀れっぽい声を上げながらジョゼットが、見事に日雇い労務者のフリをする。


「ええいっ、散れっ! これ以上一部屋で集まって騒いでいるならば、全員、強制的にこの宿舎から排除するぞっ!」


 などと脅し文句を吐きながら、巡回公安の男は警棒を部屋にたむろしている労務者たちに向けた。

 警棒を向けられては仕方ないので、ジョゼットの部屋に集まっていた労務者風の恰好の工作員たちは、蜘蛛の子を散らすように廊下へと出てゆく。

 残ったのは、部屋を借りているジョゼットひとりだけになった。


「おいっ、そこのっ! 次に賭場をこの部屋で開いたなら、留置場にぶち込むぞっ!」


 夜間巡回公安の男は、そう脅迫して部屋から、己の戦利品が入った麻袋を手に出ていった。

 後に残されたのは新型戦艦の設計図や、レンガに偽装させた「魔石」が無事でなにより、といった表情のジョゼットだ。そして巡回公安の男が宿舎の棟から出て、隣の棟へと入っていくのを確認すると、三々五々と工作員たちはまたジョゼットの部屋へと集まるのだった。

 作戦会議のために──。




 時刻はすでに夕食時を過ぎていた。

 オーケストラ団員の中には、譜面台に隠れてうんざりとした顔をする者も居る、そんな長々しい練習中──。


「ダメだ、ダメだ、ダメだ!」


 しっかりと握っている指揮棒で、譜面台の角を何度となく叩き、ヴィクトールはオーケストラの演奏をやめさせた。

 練習用に確保されたホールで行われている、「アウステンダム共和国革命交響楽団」とは名ばかりの寄せ集め楽隊の演奏は、今朝八時から、途中休憩を三度挟んで、第一楽章からフィナーレまで、何度となく繰り返し行われている。


「この第四楽章の始まりは、『強く・フォルテ、強く・フォルテ、火のように・コンフォーコ』だろう!」


 演奏開始からほんの数十秒だというのに、指揮棒を振るヴィクトールは、冷酷な眼差しと怒号で演奏を中止させたのだった。

 そして、オーケストラの団員ひとりひとりと目を合わせるように、舞台の上に視線を一巡させた後、おもむろに口を開く。


「このオーケストラには三つの大きな欠点がある。それを克服しない限り、先へは進まない。欠点とは何だか、分かるかな?」


「そうですね、ファゴットの二番が弱いし、打楽器のバランスが悪いですし……」


 第一バイオリン──つまりは首席奏者・コンサートマスターの席に座っている自分の部下の一人が、即座に具体的な例を挙げたのをヴィクトールは遮った。


「そんな小さな事ではない。第一にこのオーケストラはリズムが悪い。第二に音程が悪い。第三にお互いが音を聞き合わない」


 つまりは仲間のことを思いやらない、基本ができていない最低のオーケストラだと、はっきりヴィクトールは言い切った。


「この三つの課題を解決しなければ、我々に先はない!」


実際、まともに譜面が理解できない奏者も大勢居る即席楽団なだけに、指揮者からそう指摘されて反論できる者はいなかった。


「オーボエ、もう一度A音を寄越しなさい」


 軽く指揮棒を振り上げ、ヴィクトールはチューニングのやり直しを命じる。なぜオーボエの音に全員が合わせるかというと、この楽器がロングトーンを吹き続けてももっとも安定した音を維持するからである。

 寄せ集め楽隊の中では信頼できる自分の部下のひとりが、わざわざ音叉まで持ち出してきて、慎重にA音を決める。

 なのに、ヴィクトールはその音を否定した。


「低い。半音の六分の一、音を高く」


 半音の、そのまた六分の一──。一般聴衆の耳にはまったく違いが分からないだろう。だがその些細な違いが、六十人あまりで編成されるオーケストラにとっては致命傷になることもある。

 それを分かっているヴィクトールの部下が、指揮者の指示に異議を唱えた。いかにも「魔法音楽」の基礎にしがみつく、堅物で融通が利かないタイプの音楽家気取りの男だ。


「ちょっと待ってください、今のはAの音だ! これ以上高くても低くてもいけない!」


 けたたましく言いながら部下が、音叉を高々と掲げる。

 それに対し、ヴィクトールは冷静な表情で答えた。


「確かにA音は標準四百四十ヘルツのピッチだが、この交響曲『鉄槌』では四百四十二でゆく。なぜなら、本番の演奏は戦艦の甲板の上という『室外』で行われるためだ。ピッチが高い方が楽器の音色──特に四分の一を占めるバイオリンなどの弦楽器の音色の輝きが増すのでね」


 そう説明し、ヴィクトールは自分の意見を押し通した。実際に古典音楽を演奏するとなると、作られてから一世紀半も経った古い楽曲は、現代の演奏家たちの手によりかなりピッチが早められ、標準のA音もわずかだが高く設定されるのが近年の流行だ。

 大体、音響を計算した室内ホールで行わなければならない交響曲の演奏を、馬鹿馬鹿しいことに権力者の命令により、和音の響きが残らない屋外で──それも波で揺れる戦艦の甲板の上で演れという。

 ヴィクトールにとっては、まったく無茶としか思えない注文である。

 だが、彼は演奏する団員一人ひとりと目を合わせるようにした。


「オーケストラでは、なにも全員が一流の奏者である必要はない。必要なのは調和と協調だ。つまり、結果として全員が創り出すアンサンブルが美しい和音になればいい」


 と、ヴィクトールは厳しい眼差しで語った。

 楽器たちが奏でる和音について理想を述べるなら、それは天上の星々が描き出す黄金比に等しいものであらねばならない──。

そうだ。遥か昔、哲学者でもあるピュタゴラスが語ったような、天球の音楽のような。ピュタゴラスが残した伝承では、天空はガラスのような透明な物質でできた半球形をしていて、太陽を中心に月やそれぞれの惑星が透明な半球形を回転させ、それらが軋み、触れ合う美しい和音で宇宙は満たされているのだとのことだ。

 そしてピュタゴラスはその「天の音階」に倣って、七段階のオクターブを地上の音に配置した。

 完全音階を究めた魔法音楽理論の完成──部下たちは、それこそが自分たちに課せられた使命だと言っているが。魔法音楽に関しての理論など、ピュタゴラスの時代にもうすでに完成されていたのだ。

 現代の音楽家がしていることは結局、古代の叡智のカケラを拾い集め、再構築しようとしているにすぎない。ピュタゴラスの時代にはまだ、バイオリンやピアノといった楽器は発明されていなかったので、彼の音楽理論を「改良」する余地を残されただけ、少しは幸福というべきか……。


「とにかく。全員がこの曲について、楽譜をすべて暗譜するほどにもっと読み込むこと。楽譜が読めない者は、私がこれから演奏するから、耳で聞いて全楽章暗記したまえ」


 以上、今日はこれからパートごとに分かれての練習だ──と、ヴィクトールは非情なほど一方的に締めくくった。


「では、バイオリンの第一グループ。私が手本を演奏するからこちらへ全員集まってくれ。椅子を持ってな」


 ざわざわと団員たちがざわめくと、バイオリン弾き連中が指揮台の周りに集まった。

 ヴィクトールは、コンサートマスターの第一バイオリン役の部下の手から、飴色のつややかなバイオリンと弓をひったくるようにして奪い取ると、いきなり、第一楽章のアタマから音符を追いかけだす。

 素晴らしい音色が練習ホールの中に広がった。

 交響楽団の団員どころか、数年前からヴィクトールの部下になっている五人も、これほどヴィクトールがバイオリンを弾きこなせることを知らなかった。専門はピアノだから、他の楽器は嗜み程度にしかできないだろうと高を括っていた。

 それがどうだ。早くに亡くなった父親が流しのバイオリン弾きで、おもちゃ替わりに父親のバイオリンを幼いころから弾いていたヴィクトールの演奏は、あろうことか、ルブランス国立音楽院を卒業した部下たちですら度肝を抜かれる技術力だったのだ。

 この交響曲を演奏しなければならないバイオリニストたちまでが、うっとりと聴きほれるほどの腕前だ。それも第一楽章を一度の休みもなく演奏しつづける高度な技は、田舎楽師たちにとっては「神技」に値する。

 団員たちの瞳には羨望と尊敬の色が沸き上がっていた。

 しかし──本当はこの交響曲『鉄槌』に関して、指揮者である自分すら、まだ曲全体をどう解釈すればいいのか、それが掴めていないのだということはおくびにも出さずに。

 なにしろこの、セザール・ゴドフロアの終身総統就任二十周年に捧げられた『鉄槌』には、何度楽譜を読み直しても交響曲としての品格が感じられない。ただ猛々しさばかりが鼻につく。

 あの未熟な奏者たちに譜面そのままを演奏させたら、指揮する自分の方が暴走する馬車馬のごとく走り詰めに走らされ、曲が破綻してしまうのは目に見えている。

 さぁ、どうする──?

 自分に質問したそうな未熟な演奏者たちが大勢居る中で。ヴィクトールは額から汗を流しながら、第二楽章の譜面の音符ひとつひとつを丁寧に拾い上げはじめた。

 最善の演奏を、自ら振る指揮棒で紡ぎだすため──。

 

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