黄金勲章を持っている父


 鉛色の雲行きを心配していた通り、やはり正午前から小雨が降り始めた。

 それでも配給制食堂の客足が途切れることはなく、この昼食一食分で一日の生命を繋いでいるのも同然の一人暮らしの老人たちが、針のような細い雨に服を濡らし、細い路地に列を成す。

 やがて、いつものように巨大なスープ鍋が空っぽになると店の扉は閉じられ、アンリたち従業員の遅い昼食も終わり──経理係を務めるクリスティーネは、店頭に置かれたカゴから本日分の外食配給券を、食堂の長いテーブルの上にバラバラと振りまくように取り出した。

 切符くらいの大きさの券を洗濯ばさみで十枚一組に閉じ、利用者の数を数えると帳簿に書き込む。いやそれだけではなく、別のノートには外食配給券を直接糊で張り、来客数を誤魔化していないことを正確に示す。

 そんな地道な作業を黙々とこなしているクリスティーネの姿に、なんとなく声を掛けられず、アンリは雨水で濡れてツルツルに滑る食堂の石造りの床にモップや雑巾をかけていた。

 なにしろ三百五十年前からここに建っているという古い建物だ。石で葺かれた床も長い年月のうちに摩耗し、水で濡れていたら足腰の弱いお年寄りには転倒の危険性がある。

 客席のある表側だけでなく、ついでにガルド・ルルゥがせっせと明日の準備をしている厨房の方まで、丁寧にモップがけした。


「明日は晴れてくれるといいんだけどなぁ……」


 と、独りつぶやきながら。アンリは懸命に床を拭いていた。

 そこへ、丘の上の聖クラース教会の、カリヨン塔の鐘の音が響きだすのが聞こえてくる。


「えっ? あれっ、もしかして、もう五時?」


 その音を聞いて、やおらアンリが落ち着きを無くす。考えてみれば結構な時間、真剣に床を磨いていたものだ。

午後五時のカリヨンは、終業時刻を報せる時報を兼ねるため、他の時刻のものより音色が一段と複雑であった。おかげでアンリもこの街に来て、すぐに、その独特の節回しで奏でられる曲を憶えてしまった。


「どうしよう。隣横丁の洗濯屋さん、まだ開いてるかな?」


「あそこの洗濯屋なら住居兼用の店舗だから、呼べばご主人か誰か出てきてくれるはずよ。なにか用事があるの?」


 経理用帳面から顔を上げ、クリスティーネが疑問符を周囲に散らした。


「うん、ジョゼさんから汚れ物を洗濯に出してきてほしいって、お使いを頼まれてるんだ」


 お金も預かっているし──と言ってアンリは、隠し階段から屋根裏へと続く扉を開けて、ジョゼットの服が詰まった洗濯物袋を部屋へと急いで取りに行く。


「それじゃ、ちょっと洗濯屋さんにお使いに行ってくるからって。ガルド・ルルゥに伝えておいて」


 そう言い残し、アンリは隠し部屋から飛び出すように出ていったが──この時はまだ、隣横丁の洗濯屋に汚れ物を預けにゆくことが、『ちょっと』ばかりの子供の使いでは済まなくなることは、彼の運命を司る神のみが知っていた。



午後五時を報せるカリヨンの演奏は終わった。外ではまだ、細かい霧のような雨が漂うように降っている。

 アンリは視界を遮る、眼鏡の表面に滴る水滴を苦々しく思いながら、塗れた石畳の上を小走りに隣横丁に向かっていた。

 行先はマウリッツ通りケイゼルス横丁一番地──旧市街の古い建物のせいか、ひとけはなく寂れたような雰囲気がただよっているけれども、店舗を構えるには理想的な角地だ。

 鐘の演奏が鳴り終わってかなり経っていたが、店のドアにまだ「閉店」のプレートは吊るされていない。

 わずかながらに躊躇しながら、鍵の掛かっていない扉をアンリが押し開けると、カランコロンとドアベルが鳴った。

 店頭のカウンターは無人だった。古びた漆喰塗りの壁のわりに、中は清潔感漂う、  きちんと整理された店構えだ。カウンターの奥には洗濯済みのコートが吊るされ、造りつけの細かく仕切られた戸棚には、丁寧に折り畳まれたパリッと糊の効いたシャツが、顧客の名前のアルファベット順に整然と並べられている。


「あのぉー、すみませーん。まだ、受け付けてもらえますかぁー?」


 やや気後れしながら、アンリが店の奥へと向かって声を発した。

 かつて、玄関の間口の広さが税金の対象と時代となっていた頃の名残りなのだろう。この店も角地にあるとはいえ、うなぎの寝床のような奥行きの深い造りになっている。

 その店舗の奥向きで、誰かが椅子から立ち上がる、ガタンッという音がした。


「洗濯物かい。急ぎのものでなければ、受け付けているよ」


 店の奥から響いてきた声に、一瞬アンリはドキリとさせられた。なぜならその声は、『船長』と呼ばれるジョゼットのものと、あまりにも似ていたから──。

 姿を現した店主は、たぶん六十歳くらいだと思われる。背丈は高くがっしりとした体格だが、白髪まじりの頭髪である。その上片足が不自由らしく、杖を突きつつひどく左足を引きずりながら、店主らしき男は受付カウンターへとやってくる。

ジョゼットに言わせれば、この人が『俺を勘当した親父』なのだろう。声とは違い、外見は息子とはあまり似ていない、職人独特の頑固そうな面構えに、白髪混じりの枯草色の髪の毛と同じ色の瞳の──南部州出身のローランド人の典型のような人物だ。


「えっと、シャツの襟は糊を固めに。皮のジャンパーは防水加工仕上げでお願いしたいんですけれど」


 と言いながら、ジョゼットから預かった汚れ物の詰まった袋を、「よいしょ」とアンリはカウンターの上に乗せた。


「……この辺りじゃ見かけん顔だが。ぼうや、一体どこの家の子供だ?」


 店頭に出てきた店主は、眼鏡を霧雨に濡らしたままのアンリの姿を眺めながら、いぶかしげな顔で詰問する。

 その質問に対し、アンリは想定問題集の模範解答のような返事をかえす。


「今月から、フリーヘン横丁三番地の『五人の魔女の館』の屋根裏部屋に下宿している、アンリ・パルデューという者です。新学期からアルベルト・ヘボン先生のところへ弟子入りする予定なんです」


「なんだって……」


 それを聞いてあからさまに表情が変わった店主が、息を呑む気配がした──その時だった。

 鋭い呼子笛の音が店外から響いてきたかと思うと、乱暴に店の扉が押し開けられた。ガランガランと乱調子でドアベルが鳴り響く中。黒いインバネスコートの男たちが、どやどやと店内に乱入してくる。


「巡回公安の者である! 荷物改めだ、両人とも、両手を頭の後ろに組め!」


 店先に飛び込んできたのは、いかにも巡回公安の巡査らしく口髭をたくわえた四人組だった。なにがどうなっているのか分からないまま、四人組の中の一人がアンリの華奢な身体を組み伏せる。その上、手にしていた布袋をひったくるがごとくして取り上げると、中身をカウンターの上にぶちまけた。


「なんだ、これは!」


 皺だらけの服をぶちまけた男が、袋の中身を点検しながらアンリを威嚇するふうに声を荒げた。


「おまえの衣類ではないな! 一体、誰にこれをこの店に運ぶよう頼まれたっ?」


 この店がローランド王ヘルムートの信頼も篤い一角獣位の宮廷騎士、ジョゼット・クラーセンの実家と知っていて張り込んでいた公安の者たちは、はじめて店にやってきた子供を頭から疑って掛かっている。

 アンリは荒々しい尋問に身をすくめながら、恐るおそると答えた。


「お、おなじ館に住んでいる、港湾税関勤務のマクシミリアン・ヴィンセントさんです」


「港湾税関?  確かにこのジャケットは船乗りのものだが……。詳しく説明しろ」


 詰問され、組み伏せられていたアンリは解放された。

 その時だ。ひどく間延びした、この場にはそぐわない牧歌的な調子でドアベルが鳴った。店にまた一人、新たな客が入ってきたのだ。


「おやぁ、こんな場末の店にしちゃ、大繁盛って人数が揃ってますなぁ。順番待ちの行列ができてやがる」


 巡回公安の者たちをからかうかのごとくに、新たに入ってきた男は軽口を叩く。


「何者だっ!」


 四人組の中でも、一番体格の良いのが大声で客を誰何した。

 アンリのような弱気な少年なら、その声だけで肝が冷えるくらいの怒声じみた詰問だったが、入ってきた客は蚊に刺されたほどにも思っていないらしい。慣れたふうに上着のポケットから身分証明書を取り出し、それを巡回公安たちの目の前でヒラヒラさせる。


「この丘を下った東第三検問所の管理責任者、ピエール・ジロード。階級は上級軍曹だ。この店に出していた制服を受け取りに来たところなんですけれどね」


 アンリもそう言われて闖入者の正体に気が付いた。制服を着ていないので、すぐにはわからなかったが、いつも通る検問所に詰めている少年兵たちの管理役の、軍人らしくない間延びした顔の、あの人だ。


「その制服は巡回公安のものだが、見かけない面ばかりだな。おまえさんら、全員新入りか配置換えになったばかりだろう?」


 どことなく不遜な態度が漂う薄ら笑みを浮かべて、ジロードが口火を切った。


「あんたら、前任者からの受け継ぎ時に、なにも聞いてないのか?」


 いつもはどこか眠たげなジロードの両眼が、この時ばかりは鋭く光る。

 カウンターの奥の店主に敬意をはらうがごとく、さっと右手でその身体を指し示しながら、ジロードは、芝居がかった口調で滔々と説明をはじめた。


「こちらにおわす御方をどなたと心得る。このウィレム・クラーセン閣下は、セザール・ゴドフロア総統閣下と共に、サングレア義勇兵団の時代から幾多の戦乱を勝ち抜かれ。その功績ゆえにルブランス軍人の最高栄誉・黄金獅子勲章に叙せられた、まがうことなき英雄であらせられる! 本来なら、貴様らのような巡回公安の新人など足元にも近寄れぬような、偉大な功績をいくつもお持ちの方だ! 心得ておくがいい!」


 そう言いながらジロードが指差した壁には、こんな場末の店には似合わない立派な彫刻で飾られた金色の額縁があった。額の中には、向かい合った二頭の獅子の紋章を金箔で型押しし、リボンで飾られた額入りの賞状と、赤い宝石付きのやはり向かい合った二頭の獅子が刻まれた黄金のメダルが飾られている。

 アンリは黄金獅子勲章の授与者に与えられる賞状やメダルは見たことがないので、それが本物かは判別できなかったが。しかし巡回公安の男たちが、一斉にからくり仕掛けの人形のように背筋をまっすぐに伸ばし、「失礼いたしました、閣下!」と敬礼しているのをみると、どうやらその金箔押しの賞状や、リボンで飾られた宝石付きのメダルには相当な価値があるようだ。


(えっ……? でも、待って……?)


 瞬間、疑問符の濁流がアンリの頭の中に押し寄せてきた。

 だってこの店主は、ルブランスと敵対し、レジスタンス活動に身を投じているジョゼットの父親だろう?

大体どうしてローランド人が、敵国にあたるルブランス共和国の軍人にとっての最高栄誉勲章をもらっているのだ?

それに黄金獅子勲章といえば、その辺の伍長だとか軍曹がもらえるものでは絶対にない。将軍や元帥といった称号にこそ相応しいのに──なのに目の前にいるウィレム・クラーセンは、ただの下町の洗濯屋……。

 黄金獅子勲章をもらった軍人なら、たとえ退役しても相当額の年金が付与されるはずだから、南ルブランスの保養地に瀟洒な別荘でも建てて、回顧録でも書き綴るようなおだやかな余生を送っているものじゃないのか?

よって、こんな下町で小さな洗濯屋を営む必要性は、黄金獅子勲章を与えられた者にはありえない。

 四人組の公安巡回が店から一礼して店から出てゆくまでの間、そんな大量の疑問にアンリの思考は押し流されまくっていた。


「まったく、近頃は公安巡回員の質も落ちたもんだ」


 それにしても前任者からの引継ぎが、この店に関してまったく無かっただなんて考えられない──との、ピエール・ジロードの独り言のようなつぶやきが、店の中の雰囲気をいつものものへと戻らせる。

 店主のウィレムも公安の抜き打ちの立ち入り検査があったとは思えないほどのゆったりとした動きで、奥から軍の国防部隊の制服やシャツを取り出してきて、カウンターの上に並べた。


「儀礼用制服と冬用の制服上下一式に、シャツ三枚だったな。冬服の上着の方、階級章が取れかけていたから付け直しておいた。シャツのボタンも取れそうだったのは全部やっておいたし。ズボンの煙草の焼け焦げ跡も、二箇所かけはぎで直しておいたから──追加料金は全部で五ルラン三〇〇サンチーム」


 こんな事後処理的な単調な会話で、あっけないほど簡単に店内に日常が戻ってきてしまった。

 まさか、こんな事態が日常茶飯事なのだろうかとアンリはいぶかる。


「ええっと、札が大きい額面のしかないんですが、構いませんかね?」


 そんな、どこの店先でもかわされるような言葉と共に、ジロードが十ルラン札をカウンターの上に置く。


「両替のついでかい、ちょっと待っていな」


 そう言いながら、カウンターの下に店主が身をかがめた時だ。


「痛……っ!」

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