「青」の一角獣

 乾いた銃声が聞こえた。

 反射的にアンリはグラン広場の方を振り返ろうとしたが、「振り向いてはダメ」と、スミット夫人と名乗った女性に強引に右腕を捕まれた。


「旧市街まで、できるだけ急ぎます。走ることはできる?」 


 夫人の問いに、アンリはコクコクと首だけ振って答えた。

 もう日は沈んだのだろうか──空はすっかり暗さを増していた。ふけゆく街角に、ぽつりぽつりと街灯の灯りが点りはじめる。

 どうやらスミット夫妻は市街地の地理に詳しいらしく、確信に満ちた足取りで、暗くなってゆく一方の街を、子供たちの手を引いて小走りに駆け抜ける。

 路地から路地へ。できるだけ人通りの多い大通りは避けて、運河に架かる橋も何度か渡った。

 そうやって旧市街へ近づきつつあるとき、先頭を行くスミット夫人の足がぴたりと止まる。


「待って。前方になんだか奇妙なモノが……」


 夜気の中に、強く魚の腐臭が漂っていた。アンリも何度か来たことがある、卸売魚市場近くの路地だ。その路上に、街灯の灯りに鈍くきらめく、銀色の、巨大な針山が鎮座していた。


「な、なにあれ……?」


 一体それは生物なのか鉱物なのか、それともなにかの機械なのか──アンリにはその正体が分からなかった。

 祖父の書斎にあった十巻セットの博物誌の本にも、あんなモノは載っていなかった。

 アンリの疑問に答えるかのごとく、路上のそれは全身の針を逆立てた。何百という剣が一勢に触れ合ったような、金属的な音が響き渡る。

 それは生きていた。のそりと立ち上がると、闘犬のように下顎の突き出た、受け口の顔をこちらへ向ける。自然の摂理を捻じ曲げ、人間の手で造られた忌まわしい魔獣の眼が、アンリたち一行を見据える。

 その時、アンリの耳に、カン高い笛の音がどこからともなく聞こえてきた。


(……これ、犬笛の音だ!)


 通常の人間の耳では捕らえきれない高音域の笛の音を合図に、巨大なヤマアラシに似たバケモノが、スミット夫人に向かって飛び掛かる。


「きゃあああ……!」


 魔獣の巨体に押さえ込まれ、スミット夫人は道路に仰向けに倒れた。直後、ぐしゃりがりりと、骨の軋む音が響く。


「この! エリーを離せ!」


 妻の危機を目の前に、懐から取り出した拳銃を手に、スミット氏は魔獣に立ち向かった。

 子供向けの花火のような頼りない銃声が響く。魔物退治用の銀の弾丸ならともかく、上着のポケットにしまっておけるくらいの護身用拳銃では、あんな怪物にかなうわけはない。

 魔獣は棘だらけの鎧で簡単に銃弾をはじき返すと、次の獲物を求めて血塗れた牙を剥き出す。


「う、うぁあああ……!」


スミット氏の悲鳴が響く。瞬間、クリスティーネはアンリの手を取った。


「逃げるわよ!」


 アンリはクリスティーネに手を引かれ、回れ右すると魚市場の中に駆け込んだ。

 うずたかく積まれていたブリキ箱を蹴飛ばして倒し、クリスティーネが敵の進路を塞ぐ。

 その次はゴミ箱の中の魚のアラをぶちまけ、さらには壁に立てかけられた何十本ものデッキブラシを倒して、少しでも相手の障害になるように仕向ける。

 けれども、敵もやはり尋常ならざる化け物だった。重い金属性の鎧を着せられているというのに、肉食獣独特の優雅な足取りで障害を軽々乗り越え、走って逃げるしかない子供らを追う。

 勝手知ったる魚市場なのに、夜闇に道を間違えたのか、アンリたちは袋小路へと追い詰められた。

 振り向いて元の道へと戻ろうとする子供らの目に、あの棘だらけの鎧を鈍く輝かせる魔獣の姿が映る。思わず後ずさりするアンリの背中に、赤レンガ壁の固さが伝わってきた。


「か、神様……! どうかお助けを!」


生まれてから一度も教会になど出向いたことはないのに、こんな時だけ、都合よく神頼みの言葉がアンリの口をついてしまう。

 けれど、救いの手を差し伸べたのは神ではなかった。

 いきなり上空から、アンリのキャスケット帽を吹き飛ばす勢いで、寒気の塊が吹き降りてくる。

 見上げれば、空はいつの間にかオーロラのごとく発光する、不思議な虹色の雲に覆われていた。夜目にも鮮やかに輝く彩雲は、美しい光の帯をくねらせ、渦巻きながら舞踏を舞っている。

と、突然。闇空を舞台に踊り狂うその雲は、青白い稲妻を地上へ向かって放った。

轟音と衝撃が空気を切り裂く。まばゆい光が辺りを満たす。

 それはただの稲妻ではなかった。青白い光は、アンリたちの身体を抱きしめるように巻きつくと、袋小路の路地一面に広がり、太い光の柱と化した。

 その光柱の中で、馬に似ているが馬ではない黒い影が──ゆらりと身体を形を造る。


『我が名は「青」。このローランドを守護する良き魔女、イーディス様の命により、只今降臨した』


 声は、確かに光の柱の中から聞こえた。

 額の中央にきりきりと螺旋を形作る白い一本の角。姿は馬に似ているが、地面を踏みしめる蹄は二つに割れている。

その艶やかな毛並みが淡い光に反射すると、漆黒の中に青みを感じさせるほど黒い、馬の毛色で言うなら青毛と表現する一角獣がアンリの前に立っていた。


『ローランドの都、アウステンダムに魔獣が跋扈するなど言語道断。この「青」が、いますぐ退治してくれるわ!』


 そう言うと、「青」と名乗った一角獣は子供たちを守るため、螺旋状の角を、棘だらけの鎧を着た魔獣に向けた。

 魔獣はジャラジャラと耳障りな金属音を響かせ、ヤマアラシのように背中の棘を逆立てると、低く唸りながら飛び掛ってくる。大きく開いた口からは、鋭い牙を剥き出しにしていた。

一角獣は体勢を低くすると、カツンッと右前脚で石畳を蹴った。

するとその蹄から青色の幻光が広がったかと思うと、魔獣を弾き飛ばす。


「グワァアアア……!」


 しかし、相手もやはり尋常ならざる魔獣であった。すぐさま体勢を立て直すと、狭い小路を「青」と名乗った一角獣目掛けて突進してくる。

 一角獣は襲い来る魔獣の、大きく広げられた口に狙いを定めた。

 青白い稲光に似た光が、螺旋状の長い角をまばゆく煌かせる。魔獣の口蓋に長い角を突き入れると、一撃で化け物の頭蓋骨を貫き砕く。

 その、たった一撃で勝敗はついた。一角の聖獣は首を大きく振り、頭部を頭蓋骨ごと貫かれ動けなくなった魔物の身体を、ずしゃりと路上へ放り捨てた。

 そして一角獣は改めて子供たちの方へ向き直ると、器用に前足を折り頭を下げ、恭順の礼をとる。


『ローランド国王、ロザムンド家のお血筋の姫君とお見受けする。どうか、この「青」に名乗りを上げていただきたい』


 一瞬、ためらう気配が少女にあった。


「クリスティーネ・ヴィルヘルム──いえ、いいえ……」


 一度名乗ったものの、大きく首を振ってそれを否定した。この一角獣に偽名など使うほうが礼を欠く。

 毅然たる態度で一歩前へ進むと、少女は言った。


「ロザムンド王家の当主、ヘルムート・クラース・アウグスト・ロザムンドの第一子にして第一位王位継承者。クリスティーネⅥ・マリエンヌ・ソフィア・ロザムンド」


 木の葉を隠すなら森の中へ。

 女の子を隠すなら街の雑踏の中へ。

 旧市街地の奥の奥、迷宮のような古い館に隠されていたのは、そう、大切なお姫様──いずれ即位し、ローランド国王となった暁には、クリスティーネ六世と呼ばれることとなる、「六番目のクリスティーネ」だ。


『そして、そちらの少年が我がパートナーとなる、新たな宮廷騎士とお見受けする』


一角獣の鋭い視線が、魔法仕掛けの眼鏡の奥のアンリの眼(まなこ)に突き刺さる。


(本当に落ちてきたのか? 良き魔女イーディスが操るという、宮廷騎士を選ぶ雷(いかずち)が。それも僕の上に?)


 呆然と立ち尽くすアンリの眼鏡に、ぽつり、水滴が落ちてくる。

 アウステンダムの街にやがて嵐となるだろう、冷たい雨が降り始めた──。


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