隠し部屋で天文観測会

 隠し部屋の住人の心を慰めるため差し入れられた花瓶には、風車小屋の花園で育てられた花々が、我も我もと自己主張するがごとくにぎやかに生けられる。


「花はいいねぇ、人の心をやさしくしてくれる。ここの暮らしに不満はないが、ただ一点、季節の移り変わりを眺めるのができないところが不自由だ」


 外ではもうチューリップやヒヤシンスが咲く時期なんだねぇ──と、ライヒャルトがいとおしそうに春の花々を眺めている。


(そうだ、この人はもう一年半もの間、こんな薄暗い書庫の中に隠れ住んでいるんだ……)


 今年も巡りきた春という季節が、この街に暮らすすべての者に、同じ喜びを与えることはないのだと知った瞬間、アンリの心は錐で衝かれたように痛んだ。


「今日の天気はどうだった?」


「よく晴れて、きれいな青空が広がっていたわ。遊水地ではヒバリが囀っていたくらいだもの」


「ならば、今の時刻なら、東の夜空にはおとめ座の星々が輝いているのが見える頃かな?」


 何気ないお天気の会話を聞いて、アンリははっと、祖父の形見の懐中時計を取り出した。


「星なら、見られるよ。この部屋から出なくても!」


 外蓋を開け、時計の文字盤の下に組み込まれた天文暦の仕掛けを、慣れた手つきで開放する。


「えーと、そこのサイドテーブルの上をちょっと貸して。それと、天井の陽光灯を消してもいい?」


「ちょっと、なにを始めるつもり──」


 せっかく飾った花瓶を退かす手に、クリスティーネが抗議の声をあげるのも構わず、用意が整った途端、強引にアンリは部屋の明かりを消す。

 すると、オルゴールの音色とともに、天井に一面、淡い光の帯が現れた。


「──これは、北半球から今の時期見られる星空か?」


 ライヒャルトが驚き、天井に映し出された光景に眼を見張る。

 それは懐中時計に付属している天文盤を利用した、即席のプラレタリウムだった。今夜の月齢通りの形をした月や、惑星も勢ぞろいしている。

 おとめ座のスピカやうしかい座のアルクトゥルス、しし座のデネボラなど、春の夜空に目立つ明るい星を持つ星座の上には、その名に相応しい乙女や牛飼いの青年、ライオンの線画が嵌め込まれ、観るものの眼を楽しませる。


「これ、どうなってるの?」


「この懐中時計の中には、時刻や太陽暦だけじゃなく、天文暦や月齢や黄道十二宮における惑星の位置、季節ごとの星座の移り変わりを表す装置が組み込まれているんだ。それを内部の蛍光石の光で投影する仕組みなんだよ」


コロンカラン……と、鳴り響くオルゴールの音に呼応するかのごとく、天球の星々も回転し、一晩の空の動きを表す。

 あっけにとられているクリスティーネやライヒャルトの横顔を眺めながら、アンリは得意げに胸を張った。


「おじいちゃんが、この懐中時計を持っていれば、北半球の上ならどこまでだって旅しても、自分がどこに立っているか、即座に緯度や経度を計算できるって自慢していたよ。なかなかすごい時計でしょう?」


「すごいなんてもんじゃないっ! こんな懐中時計を作った人は、世紀に一人現れるかどうかの天才だ!」


 興奮のあまり、ライヒャルトがいつもの肘掛け椅子から立ち上がっている。


「感動したよ、こんなに素晴らしいものを見せてくれてありがとう。けれど、いったい誰がこれほど複雑で精巧な懐中時計を作ったんだろう」


「もしかして、あれが製作者名なのかしら?」


 クリスティーネが指差す星空の一角に、装飾文字が浮かび上がっている。少女は見慣れない装飾文字に顔をしかめながら、それを読み下そうと努力した。


「……なに語の綴りかしら? ローランド語でもルブランス語でもないようだけれど?」


「たぶん、グリューネヴァルト、じゃないかな。ラテン古語読みで」


 いまいち自信なさげなアンリの発言に、ライヒャルトが瞬時に反応した。


「グリューネヴァルト? それはあの、理学魔法の基礎を築いた希代の魔法使い、カトラン・グリューネヴァルトのことか?」


 そう興奮ぎみに、かつて魔法界の革命児と呼ばれた男の名前を口にする。

 現在、これほど隆盛を極める理学魔法は、四十年前、自然界に隠された神秘を数式に移し変え、人類が普遍的に応用できる法則を記した、カトラン・グリューネヴァルトの著書「秘印──シジルの開放」が世に出たことから始まったのだ。


「じゃあ、この懐中時計を製作したのは……」


「グリューネヴァルトに違いない! というか、彼ほどの天才でなければ、こんな小さな器の中に、大宇宙を詰め込むことはできなかったはずだ!」


 素直に驚嘆の色を声に表すと、ライヒャルトは偉大な魔法使いに敬意をはらい、その作品の完成度の高さを、両手を叩きだすほどの勢いで褒め称えた。


「でも……。どうしてアンリが、そんな大層な価値がある懐中時計を持っているの?」


「これは、おじいちゃんの形見分けにもらったんだよ。遺言状に、父さんには化学染料の特許や染色工場の権利、お兄ちゃんには書斎の本を、僕にはこの懐中時計を贈るって書き記してあったから」


 オルゴールの響きが止んだので、とりあえずアンリは部屋の明かりを灯しなおした。そして、サイドテーブルから取り上げた金色の懐中時計に、しげしげと視線を落とす。


「けれど、おじいちゃんはこの時計にそんなすごい価値があるなんて、ひとことも言ってなかったよ。どうやって手に入れたかっていう話しも聞いたことはないし」


 祖父がまだ存命だった頃から、しょっちゅう遊び道具にして親しんでいた時計だ。それなのに、由来もなにも知らないことだらけだとアンリは今更ながら気付く。


「どうしておじいちゃんは、こんな貴重な懐中時計を僕に遺してくれたんだろう……」


さまざまな機構を動かす小さな歯車やゼンマイ、オルゴールのからくりといった美しい構造をクリスティーネと一緒に覗き込みながら、アンリもいぶかしげな表情になってしまう。

 その時だった。隠し部屋の扉が、再度ノックされた。

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