日曜日のお出掛け
西の港へと続く真っ直ぐな舗装道路の路肩を進むことは、荷車や自転車を牽く子供たちには、少々危険な道行きだった。とにかく、積荷を満載した自由軌道車がひっきりなしに走りすぎる。
「危ないなぁ、もぅ……」
複雑な機械仕掛けの巨大な鉄輪をガシャガシャいわせる大型車が、路肩の通行人の髪の毛をそよがせるほどの至近距離で通り過ぎる。なので、いくらアンリが寝不足気味でも眠気が吹っ飛ぶ。
「この街で暮らすつもりなら、自転車に乗る練習をしたほうがいいわね」
そう、ガルド・ルルゥに言われたのは、三日ほど前のことだ。
「自転車に乗れると便利よ。ちょうど、アンリくらいの子にぴったりの中型自転車が二台あるの。一台はクリスティーネが時々使っているから、もう一台をアンリが使うといいわ」
以前、ここに大勢の学者先生やその弟子たちが住み込んでいた頃、共同で使用していたものだと言って、ガルド・ルルゥは物置から、古びた自転車を出してきてくれた。
なにしろ国土の四分の三が埋め立てで造られたローランドは、どこまで行っても地面が平坦なのである。
これほど自転車の走行に適した国は他にはないだろう。
アウステンダムの街にしても、坂らしい坂があるのは「聖クラースの丘」のみで、新市街の道は完璧に石畳で舗装もされており、自転車乗りには天国のような環境である。
しかし、ガルド・ルルゥに親切に言ってもらったものの、実はアンリは自転車に乗れなかった。生まれ育ったソレイアード村は、険しい坂道ばかりだったから、頼りになる交通手段はもっぱら自分の足か馬であったためである。
「大丈夫よ。アンリは若いんだし、ちょっと練習すればすぐに乗れるようになるわよ」
そうガルド・ルルゥに励まされ、食堂の定休日でもある日曜日、郊外へ練習に出掛けることになったわけだ。
行き先は、新市街地と西港の工業地帯との間にある遊水地、ザーンダム。そこの風車小屋に、クリスティーネの知り合いが暮らしているのだという。
「おじいさんは昔、帆船乗りだったのよ。年を取って船を下りてからは、風車小屋の管理やウサギの飼育や、養蜂の仕事をしているの」
新市街地のはずれにある検問所を通り過ぎると、途端に、周囲はのどかな田園風景へと変わった。菜の花畑の中に伸びる幹線道路を、先に立つクリスティーネが自転車を押し、アンリが荷車を牽きながらつき従う。
「やさしくて親切な人なのよ、風車小屋のおじいさんは。いつも無理を言って、ライ麦やトウモロコシを粉に挽いてもらうのだけれど、お礼すら受け取ろうとしないの」
風車小屋の石臼のような公共で使われる大きな臼には税金が掛けられる。税金の徴収役はその風車の持ち主なのだから、クリスティーネが言うようにお礼すら受け取らないというのはおかしな話だ。
荷車には、先日クリスティーネが魅惑の笑顔と引き換えに、乾物問屋から卸してもらった乾燥トウモロコシの大袋がふたつとインゲン豆の袋が一つ、さらには風車小屋に届けるための飲料水が一杯に詰められた樽が二つ積まれている。
だから、魔法仕掛けの荷車といってもかなり重い。荷車を牽いて歩くアンリの額には、汗が吹き出てきていた。
遊水地へと右折する曲がり角でも、荷車を路肩に寄せて、ちょっとだけ休憩しながら汗を拭っているその脇を、また大型の自由軌道車が列を成して通り過ぎる。
「なんだか、ひっきりなしに大きな貨物車ばかり通るね」
「みんな西の港へ行くのよ。あちらは軍需工場中心の工業地帯だから」
クリスティーネが、視線で貨物車の行く先を指し示す。一本道が伸びてゆく方角には、何十本も建ち並んだ高い煙突が、まるで瘴気のごとき暗い色の煙を大量に吐いているのが眺められた。
西港の周辺に造成された新興工業地帯だ。なんだかその辺りだけ、空気が淀んでいるような禍々しい雰囲気が感じられ、時々風向きによっては、石炭の煤煙と鉄の臭いが入り混じった鼻が曲がる臭いが漂ってくる。
「西港は軍港で、周辺には造船所や軍需工場が建ち並んでいるから、今は戦争特需で活気付いているわ。
運河を使った貨物船や鉄道での物資輸送路もあるけれど、それだけでは追いつかないほどの状態なんですって」
そうクリスティーネが説明しているのに、幹線道路から農道へと乗り入れた途端、緊張が解けたアンリは眠気をこらえきれなくなったようだ。涙を目尻に浮かべながら、生あくびを噛み殺している。
「失礼ね。人が話しをしているのに、あくびなんかして」
「ご、ごめん。このところ、毎晩遅くまで、ライヒャルトさんから借りた本を読んでいるものだから」
アンリはひたすら謝った。かなり寝不足気味なのか、眼鏡の奥の目も腫れぼったい感じだ。
あの隠し部屋を見つけた夜以来、アンリは、食堂の手伝いをしなくても良い、自分のために使える時間のほとんどをライヒャルトと過ごしていた。
一年半もの間、書庫の中に身を潜めているライヒャルトは、アンリが想像した以上の人物だった。交わす言葉の端々に感じられる博識さは、アンリの貪欲な知識欲を刺激して仕方がない。
しかもライヒャルトは、膨大な冊数を誇る書庫から少年向けの書籍を何冊か選び出し、アンリに手渡してくれた。その本に、ここ数日アンリはすっかり夢中になっている。
「なにをそんなに夢中になって読んでいたの?」
「えーとね、大衆向け娯楽小説っていうのかな。孤高の海賊クラウドと、薄幸のお姫様メアリの、恋と冒険の物語のシリーズだよ」
すっごく面白いんだ──と、アンリは瞳を輝かせる。その様子に、クリスティーネがどうしてもこらえきれなかったらしく、青灰色の眼に猫のような笑いを浮かべた。
「あっ、娯楽小説なんて低俗だと思って笑ったんだろう?」
いかにも気分を害されたというふうに、アンリはむっつりと唇を尖らせる。まぁ、それも当然である。アンリの実家では娯楽小説など低知能の馬鹿者が読むものだと、両親に言われていたほどだ。
「違うわよ。どうして男の子って、みんな海賊クラウドに憧れるのかと、不思議に思っているものだから……」
きっとみんな本物を知らないせいね──そう、皮肉めかした笑みを口元にたたえたまま、クリスティーネがつぶやく。
海賊クラウドとメアリ姫の物語は、元々は二十数年前、国立劇場で上演されたグランド・オペラだった。それが評判を呼び、次々と大衆向けの活劇やら娯楽小説やら人形劇やらが作られ、あっという間にローランド人なら知らぬ者はいないという、国民的英雄叙情譚になってしまったのだという。
「でも、あれは作り話よ。本当は──」
クリスティーネのその言葉を途中で遮るかのごとく、子供たちの行く手から、犬の遠吠えが響いてくる。
菜の花畑の真ん中を、突然、熊が走ってきたのかと一瞬アンリは身構えた。
いや、それは熊でこそなかったが。巨大な──それこそ、後ろ足で立ち上がれば簡単にアンリなど押し倒されるだろう、体重も五十キロは下らない、とんでもなく太い足をした化け物のような黒犬だった。
「エドマンド!迎えに来てくれたのね!」
両手を広げたクリスティーネが、天使のように無邪気な笑顔を見せる。黒犬の首に腕を回し、頬ずりするような格好でその巨体を抱きとめる。アンリは、いつもつんと澄ました薔薇の蕾のようなこの少女が、こんなにも顔をほころばせるのをはじめて見た。
「ひさしぶりね、元気だった?」
ふきふきした毛をひとしきり撫で回されると、エドマンドと呼ばれた超大型犬は、くるりと荷車に背中を向けた。黒い巨体に取り付けられていたハーネスを、クリスティーネが荷車の柄に紐で縛りつける。すると、慣れたふうにエドマンドは荷車を牽いて歩き出す。
「ああ、そうか。この犬は、荷車牽きの使役犬なんだね」
だからこんなに身体が大きいんだと、アンリも納得してその後ろを付いてゆく。エドマンドはとにかく力自慢のようだった。あれほどアンリが汗を掻いて引っ張っていた荷車を、舗装も途切れた田舎道、軽々引いてゆく。
広々としたザーンダムの平原は、今、黄色い菜の花が満開だった。風さえも、甘い花の香りに満ちている。「この菜の花の実が、菜種油になるのよ」と、クリスティーネが、さらさらとしたボブヘアを風の中にそよがせる。
「ここはいつ水を被るか判らない遊水地帯だから、小麦など植えられないのよ。多少水の害を受けても、たくましく甦る作物のみがこの地では栽培されているの。冬は砂糖大根、夏はインゲン豆、そして今の季節は菜の花ね」
海より低い干拓地ばかりのローランドでは、ひとたび水害が発生すれば、最大で国土の半分が水没する危険性がある。アウステン河を望む堤防沿いにも、十二軒の風車小屋が等間隔に並んでいるが、この風車の本来の役目も排水用ポンプなのだ。
そのため、万が一の大水害の際に国土を守る風車の番人は、地味な役割ではあるが、万人に尊敬されている。
「おじいさん!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます