食料品買い出しで「カタツムリ食べるの?」

「……どうして、あんな生意気な少年兵たちに『ご苦労さま』なんて挨拶するのさ」


 ルブランス人は嫌いだって言ってたじゃないか──もしかしたらあの番兵たちが聞き耳を立てているかもしれないと、アンリはローランド語でぶつぶつ文句を垂らしながら、荷車を牽いていた。


「ひどいよ、あそこの検問所の哨兵たち。いきなり銃剣なんか突き付けてきて、心臓が爆発するかと思うくらい怖かったんだから……」


「わたしも、そういう思いはしたくはないわね。だからこそ、普段から挨拶だけはしておくように心掛けているの。兵士たちから変な疑いを掛けられないように」


 同伴者がこぼす愚痴に相鎚を打つクリスティーネの、薄紅色の薔薇のつぼみを思わせる唇に、あのかわいらしい笑みはもうない。荷車を監督する少女は、怖いくらい真剣な眼差しで、周囲を気にしながら言葉を続けた。


「笑顔ひとつで、時間外に無審査で検問所を通してくれるなら、いくらでも愛想を振りまく覚悟はあるわ」


 しれっと言ってのけるクリスティーネのしたたかさに、正直アンリは、彼女の胸の内の底知れぬ深い淵をちらと覗き込んだ気分になった。

この少女には、飼い主にもおのれの正体を明かさずに、のうのうと暖炉の前で惰眠をむさぼる、妖精猫のようなところがあると思う。

 もちろん実際には妖精猫など、アンリは見たことはないけれど。


「アンリ、そこの角を右に曲がってちょうだい」


 商店はまだ開いていなのに、店頭には配給を待つ人がすでに五人ほど列を成している。

北部の都市では主要な食料品は配給制になっていて、まともな白いパンは食べられないと、村を出てくるときにアンリが聞かされた噂は本当だった。

小麦粉だけのパンなんて、このアウステンダムの街のどこにも売ってはいない。

ここらの者は、ライ麦の粉に混ぜ物のトウモロコシやインゲン豆の粉を嵩増しした、ぼそぼそとした苦い味のパンを、パン屋で配給券を渡したり闇価格で買ってくるか。「五人の魔女の館」のように自分の所の竈で焼き上げる。


「けれど、小麦粉以上に欠乏が激しいのは、油よ」


 そう言いながら、厳しい表情でクリスティーネは、物資争奪の戦いに挑むため行列の最後尾に並んだ。

食用油の中でも上質な菜種油やひまわり油は、魔法機関の潤滑油としても使用されるため軍の統制下にあり、庶民の手に入りづらくなる一方なのだそうだ。


「うちの店は、自分の家では煮炊きできない一人暮らしの老人のために、日々の食事を配給しているんです。かわいそうなお年寄りのためにも、どうか少しでも多くの油を分けてください」


食用油を扱う店を何軒も巡るうち、この経理担当者はとんでもなく交渉上手だと、アンリは気がついた。

一軒目の店主をクリスティーネは泣き落としにして、食用油の配給は食堂経営者でも二リットルが上限のところを、二人で来ているからとアンリの分まで四リットル分、手に入れた。

かと思えば、二軒目では帳簿を取り出し、びっしりと貼り付けられた外食配給券を前に、一ヶ月間にどれだけの油が必要なのかということを、理詰めで滔々と説明し始める。


「ですから先月の実績でいうと、一日平均百八十三人の利用があるわけです。週六日間の営業で、一日に使用する油の量がこれだけ必要ですから──」


 すると長々とした説明に閉口した店主が、「精製されていないオリーブ油でいいなら」と十二リットル入りの大瓶を倉庫から出してきてくれた。

 三軒目からはもう、店頭では配給用の油は尽きていたが。それでもクリスティーネが粘り強く交渉すれば、配給統制外の乾燥パスタや粒のままのトウモロコシといった食料品が、次々と目の前に現れる。


「ありがとうございます。おかげでとても助かりました、これで今月も食堂を続けてゆくことができます」


 そう極上の笑顔を振りまきながら、クリスティーネが大のおとなたちを舌先三寸で転がしてゆく様子に、アンリはやっぱりこの少女は魔女なのだと改めて痛感させられた。気難しそうな乾物屋の店主も、口うるさそうなおかみさんも、彼女の青灰色の瞳に見つめられた者は、あっさりとその言葉に従ってしまう。


(どうしてみんな、コロリと騙されるんだろう……)


 それはきっとクリスティーネが、辛気くさい国防色の「愛国少女のための日常的模範服」を身にまとっていても、通行人が思わず振り返らずにはいられないほどに、ひときわ輝きを放つ美人だからに違いない。

 でも、あの娘は本当は、灰かぶり姫の姉のように意地悪なんですよ──などとアンリは、「どこぞかの国の、王様の耳がロバの耳だと知ってしまった理髪師みたいに、ひとしきりわめくことができたら楽だろうなぁ」なんて、ため息つきつつ考える。

 五軒目の乾物店で、乾燥インゲン豆を詰めた大きな麻袋を荷車に乗せる。そろそろ荷台も買い出しの品でいっぱいになってきたが、まだ仕入れは終わらない。


「さぁ、次は魚市場へ行くわよ」


「ええーっ。まだお昼食べてないのに、この上、回る所があるの?」


 とうとう、アンリが弱音混じりの悲鳴を上げた。もう、時計の針が正午を過ぎて随分と経っている。一応食堂を経営しているので、おなか一杯朝食はたべさせてもらったが。もうとっくにそれは胃袋の中で消化されて、腹の虫が暴れだして不満も漏れようというものだ。


「ここが最後よ。あとは魚市場で、売れ残りの棄ててしまう魚をもらって帰るだけ。生魚だから、ぐずぐず回り道していたら腐ってしまうもの」


 クリスティーネが荷車を向かわせたそこは、どうやら魚専門の卸売市場のようだった。朝の早い市場のことであるから、正午を過ぎればすでに場内は閑散としている。セリ場に水を流し床を磨く、掃除婦のデッキブラシの音が響くばかりだ。

そして、場内の隅に置かれたゴミ箱には切り落とされた魚の頭や、売り物にならない雑魚、網に掛かったので市場にまでは持ってきたが、一般的にはローランド人の間では食用にされないタコやイカが無造作に捨てられている。


「……まさか、これを持ち帰って食べるの?」


 北海産の、自分の背丈とそう変わらない巨大なミズダコを目の前にして、海のない内陸部育ちの少年は顔を青冷めさせた。無理もない、今までこんな生物には、祖父の書斎にあった古い彩色博物図鑑の中でしか、お目に掛かったことはないのだから。

 アンリにとって、タコやイカは海の悪魔の眷属だ。吐き出すスミには毒があると信じているし、食べればはらわたが腐るとも言われている。


「こんな、ぬるぬるした生臭い奇怪なモノ、触れたくないっ! 僕は嫌だよ、料理されてテーブルに乗せられても、これだけは食べないからね!」


「別に殻がないだけで、タコやイカは分類的には貝と同じなんでしょう? ルブランスでも、南部の地中海沿岸では食用にさているらしいし。そこらの野原で捕まえたカタツムリを食べるよりは、ずっとマシだわ」


「えーっ、カタツムリはおいしいよ。特に、ブドウ畑で育ったやつは。茹でて殻から外して、ニンニクとパセリ入りの香草バターで焼いて食べると最高だよ」


「……カタツムリ、食べるの?」


 あっけにとられたふうに、クリスティーネが大きく眼を見開いた。大した意味はなく、話しの流れから「カタツムリ」と言ったのに、反応がダイレクトに返ってきたので逆に驚いている。

真面目くさった顔でアンリは答えた。


「うん。うちの村では香草バター焼きの他は、ウサギ肉と一緒にパエリアにするのが一般的かな」


 それを聞いて、クリスティーネはおもいきり顔をしかめた。どうやら二人の生まれ育った土地には、地図上の距離よりも大きな隔たりが存在するようだ。


「……もしかして、あなたのおうちでは蛙も料理するのかしら?」


「食べることもあるけれど……。でも、それは食用の蛙だよ。タコやイカみたいな海の悪魔を食べるより、ずっと上等じゃないか」


「タコのほうがマシよ。蛙なんてあんなもの、食べ物じゃないわ! ルブランス人は美食家(グルマン)を気取ってけれど、単なる悪食なだけじゃないっ!」


「そっちこそ、レモンじゃないか!」


 思わずアンリは口走る。「レモン」というのは、「外見はかわいいが、中身は食えたもんじゃない」との意味の俗語だ。ローランド語は家でも祖父との会話に使っていたから、この手の悪辣な言い回しまで、母国語並みに操れるのがアンリにとっては災いした。

 その揶揄に、クリスティーネは完全に機嫌を損ねたらしい。勢い、お互いの食文化に関して言い争いになる。


「おやおや、どうしたのさ。ちびっこ同士、なに痴話喧嘩してるんだい?」


 いつの間にか、二人の周囲に掃除婦たちが集まってきていた。野次馬気分のおばちゃんたちに取り囲まれて、気恥ずかしくなったのか、少しクリスティーネの顔が赤らむ。


「魚の運搬用に防水布を借りてくるから。荷物を盗まれないよう、そこで見張っていて!」


 そう一方的に告げると、くるり、踵を返し慌てて走り出す。

 ちょっとだけ、クリスティーネが魔女の黒衣の下に隠している、年相応の女の子としての素顔を、アンリは垣間見た気がした。


(うん。やっぱり女の子は、怒ってないときの顔のほうが、いいよね)


 なんて思いながら、クリスティーネに言われたとおり荷車に張り付いて、魚市場に住み着いている野良猫やカラスを追い払う。そんなふうにクリスティーネが戻ってくるのを待ちわびていると、公衆水道の前に集まる掃除婦たちがざわめきだした。

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