貧民街の希望の星「歌姫ルシア」

 革命暦三十年芽月の十日現在、占領軍支配下のローランドでは、「歌姫ルシア」の肖像画や写真、その歌声を録音した結晶体を個人が所有することは禁じられている。

「この部屋にポスターが貼ってあったことを密告屋にでも知られたら、わたしたち全員、牢獄送りよ」

 そう言って、クリスティーネは表情をこわばらせた。

 なぜなら歌姫ルシアは、ルブランスの軍事政権に抵抗するレジスタンスたちの、旗印だからとマクシミリアンも言葉を続ける。

「ずっと昔、このローランドが国として独立するために戦っていた頃、『いばらの丘を越えて行け』という抵抗の歌が生まれてね。僕たちにとっては国歌よりもなじみ深い曲なんだけれど、それを歌姫ルシアが唄ったものが楽曲結晶に録音されて、レジスタンスたちの間に出回り、心の支えになっているそうなんだよ」

 だからこの歌姫は、反体制側の協力者として占領軍から指名手配されているのだと、マクシミリアンは説明した。

「……そんな危険人物のポスターなんか、捨てちゃえばいいのに」

 ぼそりとアンリが漏らしたら、とんでもなく二人に怒られた。

「あのね。あなたたちルブランス人がこの街を占領する前は、ルシアは危険人物でも指名手配者でもなかったのよ! むしろ、貧しい旧市街の住人にとっては希望の星でもあった人だから、それこそ街中にポスターだのポストカードだのがあふれていたくらいよ!」

「そうだよ。君は、船長にとってどれだけ歌姫ルシアが大切な存在なのか知らないから、そんな残酷なことが平気で言えるんだ!」

 その女性はアウステンダム旧市街の貧民窟で生まれ、この「五人の魔女の館」のすぐ裏手にある、修道院に併設された孤児院で育ったのだそうだ。

 聖クラース教会の聖歌隊に所属していたルシアは、声楽の才能を司祭に見出されて、史上最年少の十二歳で、王立音楽院の奨学生試験に合格する。その後国王ヘルムートの庇護下、ローランド国民ならば知らぬ者はない舞台歌手へと成長し、十八歳のときに「歌姫・ディーヴァ」の称号を与えられたと、アンリは聞かされた。

「その美貌を『雪原に咲く青い薔薇』と称えられていた歌姫ルシアの立場が激変したのは、やはり三年前のルブランス軍によるローランド侵攻だ。この国が侵略戦争に敗北さえしなければ、僕たちは、今も彼女の歌を好きなだけ聴ける自由を謳歌していたよ」

首都アウステンダムを無傷のまま手に入れたメルヴェイユ将軍──後に護国卿と改称する──は、芸術文化分野の人材には寛大な措置を図った。当時二十歳だったルシアに対しても、革命政府の英雄・ゴドフロア終身総統に忠誠を誓い、その栄誉を称えるならば「歌姫」の身分を保証しよ

うと伝えた。

「けれど、国王陛下に育てられたも同然な歌姫ルシアは、いずことなく姿をくらました。一度だけ、秘密警察にその身柄を拘束された時には、年取った音楽家たちのための養老院で、下働きをしていたそうだけれどね」

「なんだか、十二時の鐘の音を合図に魔法がとけて、みすぼらしい姿で台所仕事に戻らなければならなかった灰かぶり姫みたいな話しですね」

アンリは、ポスターの中で微笑んでいるこの美姫が、つぎはぎのめだつ古着を着て、あかぎれだらけの手で水仕事する様子を想像しようとしたが──そんな姿、考え付かなかった。

ルブランス軍に一時身柄を拘束され、魔法旋律に正しくルブランス軍への友好・協力を表現する歌を唄うならば、これからも舞台へ出演させてやると「歌姫ルシア」は脅迫されたが。

彼女は亡命した国王ヘルムートに忠誠を誓い、歌おうとしなかった。

「わたしは、陛下に『歌姫』の称号を与えられた時、こう言われました。『音楽によって、平和や慈愛をメッセージとして伝えるのは、ひとつの方法だ』と」

 歌姫の才能を信じる国王ヘルムートから、そうルシアが告げられたのは、十八歳の時だった。ルブランス軍の電撃進軍からほんの二年前のことである。

「けれど、陛下はこうも言われました」

『他方では、音楽は人を争いに駆り立て、過激な愛国主義に引き込むこともある』

『音楽は人々の感じ方に影響を与えることができる──だから、君には責任があります』

『とりわけ多感な若い人たちに対しては──』

「ですが、わたしはその忠告を忘れて歌ってしまった。この国がルブランスに占領されてからというもの、レジスタンスたちの集まる地下集会で、何度も、若者の心に火を焚きつけるような歌を唄ってしまった」

 後悔の念がルシアの貌を曇らせる。あの時は、自分自身も敵の軍隊に踏みにじられたこの国の将来を憂い、湧き上がってくる愛国心が、歌いはじめればとめどなくあふれてくるような状態だったのだけれど。

その結果、何十人という若者たちがわたしの歌に感化され、占領軍に対して自爆テロルを行った。死んでいった者たちの中には、まだ少年と呼べるような子供もいた。ハドニアに渡れば、亡命政府はきっと『歌姫』としてのルシアを戦意高揚の道具として利用するだろう。

でも、もう二度と戦争のためには歌えない──と宣言した歌姫は、拘束された直後、国王派レジスタンスの手により、一度奪還されたのだが。

その後はまたようとして行方知れずなのだという。

 あまりにもふっつりと足跡が途切れたため、歌姫ルシアの行方は謎を増すばかりだ。

一説には理学魔法の法則の発表者でもあり、アウステンダムの街をこよなく愛していた偉大なる魔法使い、カトラン・グリューネヴァルトに銀色の翼を背中に付けてもらうと、人間の世界を離れ、嵐の中を飛び続けている──などという噂まである。

「そうか。それがルブランス空軍の航空兵たちに怖れられる、『銀翼の魔女』なのかな?」

 アンリの頭の中で点と点とか繋がり、線になる。けれど、そうやって「歌姫ルシア」の話しをしているうちに、子供たちは、はたとあることに気がついたわけだ。

 遠慮がちに、アンリは口を開いた。

「あのさ……。僕たち、今この時点でお互いに、下手につつかれては困る弱味を握り合ってしまったんじゃないかな?」

「はなはだ不本意だけれど、その見解は正しいと思うわ」

 クリスティーネは、アンリが飛行船墜落の件に関し、軍部と交わした誓約書を破り口外したのを聞いてしまった。

 アンリは、この家の者たちが、反政府主義者の旗印である、歌姫ルシアの肖像をひそかに隠し持っていることを知ってしまった。

「口に錠前を下ろすことはではないから、大変でしょうけれど。これからは、自分が蛙にされる姿を想像しながら、物事はよく考えて話すことね」

 冷ややかな眼差しはそのままに、クリスティーネが口元にだけ、作り笑いを浮かべる。

「そうだね。お互い、無難にやっていきたいね」

 精一杯の引き攣った笑顔で、アンリも返す。

 目に見えない火花が飛び散る空気の中──こうして二人の間には、ある種の不可侵条約が締結された。

 社交辞令的な、ほとんど心の篭っていない「おやすみなさい」の挨拶を残し、クリスティーネたちは立ち去った。

「この人の本当の名前は、ルシア・セレスティア・ニールセンっていうのか……」

ようやくひとりきりになれた屋根裏部屋で、どこか呪文にも思える名前を、アンリは舌の上で転がす。「歌姫(ディーヴァ)」という不思議な称号を持つその女性(ひと)に、アンリは意味もなく惹かれた。

「この人の歌を、ちゃんとした舞台で聴いてみたいな。今みたいな戦時下で、そんな日が来るとはとても思えないけれど……」

(でも、一度は遭遇したんだから、まったく望みがないとは言えないよね?)

たとえそれが『銀翼の魔女』と罵られる者だったとしても、その麗しい歌声は、まだ微かにアンリの耳の奥底に残っている。

 夜着に着替え、部屋の明かりを常夜灯だけに切り替える。さすがに今日は疲れた、風呂に入る気力も起こらぬアンリがベッドへと振り向くと、そこには態度のでかい先客が居た。

「あの……、そこを退いてもらえないかな?」

 ベッドの中央に、わざとアンリを邪魔するがごとく、ながながとゾティが寝そべっている。

『新入りの話しを聞く耳なぞ、持つ気は無い』

 そんな表情で大きくあくびして、手足を伸ばし、また一段とゾティは長くなった。

 仕方なく、眼鏡を外すとアンリはベッドの端のほうに入り込み、背中を丸め窮屈な体勢のまま、枕に頭を乗せる。自分の立場は猫よりも下なのかと、思わず、唇を噛み締め涙をこらえる。

 閉じたばかりの目蓋の裏では、今日いちにち、おのれの身の上に起こった出来事が、走馬灯のように展開してゆく。

 本当になんて一日だったんだろう──やっとたどり着いた弟子入り先に、師となる学者の姿はなく。居たのは意地悪な魔女に密告屋に、巨大猫だ。

それらすべての色彩が入り混じり、灰色ににじむ。灰色はやがて漆黒へと変わり、アンリは眠りの淵へと引きずりこまれた。


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