イレーナ
新星雲歴734年初頭。その日、フォーレナという集落の村長の娘イレーナは、いつものように村の子供達と遊んでいた。
彼女は両親にとても愛されていて、心優しい穏やかな気性の少女として健康に育っていた。自分より小さな子供達の面倒もよく見て、年下の子供達からは『イレーナお姉ちゃん』呼ばれて慕われ、年上の子供達からも妹のように大切にされていた。
村での暮らしはつつましやかなものだったが、両親に愛され、誰からも愛され、彼女は何不自由なく、不満もなく、心身共に健やかだった。
そんな中、村の子供達の中では年長者に当たるレイスが、村の裏手に当たる森の近くで遊ぼうと言い出した。そちらの方が広い空き地があり、思い切りボールで遊べるからだ。
けれど、村の大人達からは森の近くにはあまり近付かないように言われていた。空き地が多いのも実は意味があった。敢えてひらけた空間を確保していたのである。それは、ブロブと呼ばれる危険な生物がもし塀を乗り越えて侵入してもすぐに発見できるように見通しを良くしてあったのだ。
「森の近くには行かないようにって言われてるよ…?」
イレーナがそう言うと、レイスは、
「大丈夫大丈夫! ブロブとかここ何年も来たことねーって俺の父ちゃんも言ってるしよ! もし来たってすぐに逃げればいいじゃん」
と笑った。年長者のレイスにそんな風に言われると、まだ幼いイレーナもつい『そうかな』って思ってしまったのだった。
しかもこの時、大人達は村の集会で村長の家に集まっており、子供達のことを見る目が足りていなかったのだ。彼らを見守っていた筈の女性も、洗濯機の調子が悪くそれに気を取られて見ていなかった。
間の悪いことというのは、えてして重なってしまうということだろうか。
子供達は皆、村の裏手の森に近い空き地に移動し、そこでボール遊びを始めた。それでも、彼らのことを見守ろうという大人達はきちんといるから、そう長い時間、そんな風にしていられる訳でもない筈だった。すぐに気付かれて『ダメでしょ!』と叱られるだけで済む筈だった。なのにその日に限って、そうして遊びだしたほんの数分後に、それは来てしまったのである。
「あ、悪ぃ!」
レイスが投げたボールが暴投になってしまい、イレーナの遥か頭上を越えて塀の近くまで転がっていってしまった。それをイレーナが追いかけ拾う。そして塀を背にしてレイス達の方にふり返った時、彼女は背筋をゾクリとしたものが奔り抜けるのを感じた。
「……え…?」
思わず塀を見上げた彼女の視線の先に、ぬらりとしたものが見えた。それとほぼ同時に、彼女の体がそのぬらりとした何かに包まれる。ブロブだった。
「イレーナ!!」
異変に気付いたレイスが声を上げて駆け付けようとした。だがイレーナはレイスに向かって叫んだ。
「来ちゃダメぇっっ!!」
その気迫に圧されて立ち止まったレイスの目の前で、ブロブに包まれたイレーナの体が宙を舞い、一瞬で塀の向こうへと姿を消してしまったのだった。
「イレーナ!? イレーナぁっっっ!!」
悲鳴のような叫び声で彼女の名前を呼ぶレイスの声と、番犬がひどく吠えたことで、小屋の中で作業をしていた近くの住人がただならぬものを感じて飛び出してくる。
「なんだ!? 何があった!?」
問い掛ける住人に、レイスは涙を浮かべながら「イレーナが、イレーナがぁ…」と繰り返す。要領を得ないレイスに代わり、幼い子供達が事態を告げた。
「イレーナお姉ちゃんがブロブにさらわれた!!」
その知らせはすぐさま集会中の村長に届き、村中に設置されたスピーカーから警報が発せられた。
村の男達が、小型の機関銃のようなものを手に駆け付ける。対ブロブ用のグレネードマシンガンだった。だが、それを構える姿はどこか頼りないものだった。明らかにその扱いに慣れていない。
塀に梯子をかけて外を覗くが、もうどこにもブロブの姿もイレーナの姿も見えなかった。
数日後、村から依頼を受けたブロブハンターが森に入り、イレーナの着ていた服の一部が発見されたが、彼女の姿はやはりどこにもなかった。ブロブは、骨まで溶かして捕らえた動物を消化してしまう。後には、消化しきれない化学繊維やプラスチックや金属などが残されるだけだった。
その知らせに、イレーナの父親である村長は言葉なくうなだれ、母親である村長の妻は泣き崩れた。
しかも、イレーナの捜索と敵討ちを兼ねた捕獲に出たそのブロブハンターさえ返り討ちに遭い、命を落とした。それを受けて新たに派遣されたブロブハンターがようやく森に潜んでいたブロブを捕獲し、そこから検出されたDNAによってイレーナを襲った個体であることが確認され、彼女の死亡が宣告された。
イレーナ・ベリザルトン。享年、八歳。
その早すぎる死に村は悲しみに包まれ、遺体すらない彼女の葬儀がしめやかに執り行われたのだった。
なお、森の近くで遊ぶことを提案したレイスは自責の念に囚われて精神を病み、大きな街の病院へと入院することとなったという……
だが、それはあくまで人間の側から見た話であった。ブロブの側から見た状況は、おそらく人間が感じるものとは違っているだろう。
その日、<彼女>は腹を空かせていた。いや、腹というものはないのでその言い方はおかしいのだが、人間に例えるならそうなるというだけだ。そのせいで、ひどく思考能力が低下していた。だから生物としての本能だけで動いていた故なのだろう。本来なら避けている筈の人間の近くへとやってきてしまったのは。
<彼女>は、<彼女達>は、人間を襲うつもりなどなかった。かつては彼女らにとっては人間もただの<食料>にすぎず、他の生き物と同じようにただ捕食していただけだった。しかし人間は酷く手強かった。この惑星の生態ピラミッドの頂点であり他の生き物相手に後れを取ることなど殆どなかった彼女達が、次々と人間に反撃されて命を落とした。しかも人間は、彼女達が捕食しようとしなくても敵意を剥き出しにして逆に襲い掛かってきさえした。
そこで彼女達も学習し、人間を襲うことは止めたのだった。人間を襲うのはリスクが高すぎて見合わないからだ。
そもそも、彼女達が人間の存在を知ったのもつい最近のことだった。三千回ばかり太陽が昇って沈んでとする程度前の話だ。それまではそんな生き物がいることを知らなかった。どこからともなく現れて自分達の住処に押し入って破壊していく、訳の分からない奇妙な生き物だった。遥か昔にどこかで見たような気もするが、よく思い出せない。だからまあそれはどうでもよかった。とにかく、動物としては脆弱なクセにやけに攻撃力だけは高い、不可解な生物だった。
という訳で、人間と争うことを止めたのだった。
とは言え、さすがに飢えるとそれどころではなくなる。たとえ人間であっても捕食するしかない。だから彼女は、たまたま手近にいた人間の幼体を捕食してしまったのである。
しかし人間を捕食することは、彼女達にとって危険というだけでなく、不可思議な現象をもたらした。人間が持つ情報量は他のどの生き物よりも濃密かつ多く、人間を捕食する度に彼女達はその情報の整理に追われた。
彼女達は、捕食した生き物の情報を蓄積するという習性を持っていたのだ。それこそ、捕食した生き物の記憶や感性や人格さえも。彼女達の生物としての特性が、それを可能にしていた。彼女達は、種族全体で一つの生物だった。そして、その体そのものが情報を蓄積する為の器官であり、どんなに離れていてもそれぞれは繋がっていて、すべての情報が共有され蓄えられていくのだった。いわば、彼女ら自身が一つの巨大な<脳>なのである。しかも巨大なだけではなく、とてつもない多層構造になっていて、ほぼ無限に近い情報を蓄えることができた。
そのような生物が果たして自然発生するのかという疑問もあるがそれについては今は重要ではないのでこれもさて置くとする。
こういった生態と特殊な肉体の構造を持つ彼女らの思考や感性は人間のそれとはあまりにかけ離れていて、およそお互いに理解できるようなものでもなかった。それがまた不幸の原因だったのかもしれない。
されど、彼女達は人間を襲うのは間尺に合わないと判断し、基本的には相手をしないと決めた。決めたものの、先述した通り飢えて思考能力が下がるとその限りではなくなってしまうのも事実だった。この辺りは、ある意味では非常に高次元とも言える彼女達の弱点であったかも知れない。
まあとにかく、イレーナ・ベリザルトンを襲った彼女も、決して悪気があった訳ではなかったのだった。
そして、イレーナを捕食した彼女に、例の現象が発生する。イレーナのもつありとあらゆる情報、いや、<イレーナ・ベリザルトンという人間そのもの>が彼女の中に流れ込み、一つとなっていったのである。
だから<彼女>は、この瞬間から、イレーナ・ベリザルトン自身となってしまったとも言えるのかもしれない。
……なに…? え? 私、どうなったの…?
え…と、確か、ブロブに捕まって……
ブロブって、なに……? 私のこと…?
私…? 私って、なに…?
思考が定まらず彼女は混乱した。それまでの人間としての思考とブロブとしての思考の仕方があまりに乖離していてどうしていいのか分からない。なので彼女は考えることをやめ、ただ何となく森の中をさまよった。
すると何度か日が昇って沈んでとした時に、また人間が彼女の前に現れた。その時には腹は減ってなかったから相手にしないつもりだったのに、人間の方が襲い掛かってきた。だから仕方なく反撃した。こちらとしても無意味に殺されてやる謂れはないからだ。それでまたつい捕食してしまって、その人間の情報も流れ込んできた。しかしそちらの情報はあまりいい気分ではなかったのでそれこそ無視して奥深くへ押しやった。何だかやけに野蛮で攻撃的な情報だった。そういうのは彼女は好まない。
なのにまた人間が襲い掛かってきた。だが今度は撃退できなかった。彼女は破れ、その人間に囚われてしまった。
暗くて狭いところに押し込まれて(それ自体は不快じゃなかったが)身動きが取れなくなった。それから今度は透明ながらやはり狭いところに閉じ込められて動きを封じられた。
目の前を何人もの人間が行き交うが、その人間は自分に襲い掛かってはこなかった。その代わり、自分も何もできなかった。
そこにいると、不思議と腹は減らなかった。自分を閉じ込めているこの透明な何かの中に栄養分が満たされていて、常に補給されるからだと分かった。何もしなくても腹も減らないし快適なので、彼女は別にこのままでもいいかと考えるようになった。
彼女の寿命は、個体によって多少の差はあるが概ね千数百回ほど太陽が昇って沈んでとする間。それを過ぎれば彼女の体は自然と朽ち果て大地の肥料となる。ここではそれは無理かもしれないが、彼女にとってはどうでもいいことだった。
彼女が得た情報は、すべて他の彼女達と共有され永遠に引き継がれる。体は朽ちても、彼女は死なないのだ。この体はあくまで彼女の一部分でしかないのだから。故に彼女達には<死>という概念がなかった。それがまた、人間との相互理解を阻んでいた。それがまた人間を捕食しその情報を取り入れることで、少しずつ学んでいく形を促すことになってしまう。
他の生物に比べれば圧倒的に多い人間の情報量も、彼女達そのものを満たすには微々たるものだった。大海にコップ一杯の液体を加えるようなもので、すぐに薄まってしまう。意識すればそれぞれの情報を分別し再現することもできたが、それをする意味が彼女達にはなかった。捕食された人間達の意識も人格もやがて溶けて混ざり、曖昧模糊となる。彼女達は全体で一つの生物であり、<個>という概念もなかったからだ。
これまでは。
しかし人間の捕食を続けその情報を取り入れることで、彼女達はさらに学習していった。そしてようやく、<死>や<個>といった概念を、朧気ながらも理解していったのである。
イレーナ・ベリザルトンが完全に他の人間達と溶けて混ざってしまわなかったのは、それによるものだったのかもしれない。しかも、それまでに捕食された人間達の情報も改めて整理されて再構成されていく。その為の作業が彼女達の中で行われていた。これに伴って、さらに死や個といった概念に対する理解が進んでいったのだろう。
そしてついに彼女達は、人間の思考というものをある程度理解するに至ったのであった。
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