第7話

一体どれくらいこの場所にいたのかはわからない。

冷えきった掌は夜風に晒されたまま、セオドアがこの場所に長く居た事だけを伝えていた。

石でできた足場に直接座っており、水辺の涼やかさと共に身体の体温を奪われたのだろう。


「離してくれ」

「セオドア殿下、何時からここにいらしたのですか?」

「そんなこと……お主には関係がない…………」


幼稚な返答に手を離す事はせずに王子の座る足場へと移動し、水の中からあがった。

その動作につられるようにして、池の周りに咲いた白い花の花弁がガレスの靴先に張り付いている。

セオドアはここで、ずっとこの花を見ていたようだ。


「どうやってこの場所にきた?」

「道に迷った際に足を踏み外してしまいました」

「お主、水に落ちたのか?」

「はい」


王太子から見せられた書類のことは伏せておく。聡い少年からしてみれば嘘だとは感じるだろうが、蛍を見付けて追いかけたから水の中にまで入ったのは本当の事だ。踏み外したのと大差はない。

確信めいたものはあったにせよ、勘のようなものを説明するのはこれ以上は不可能だった。


「用がないのなら水路を辿れば帰れる。城に戻る方が良いのなら、この奥が隠し通路になっているゆえ、俺の部屋から帰ることも可能だが……」


少し迷っているような様子の子供が、ガレスの怪我の心配をしているのだろうと思い至る。

この先に隠し通路があるのだろう事はセオドアがここにいる事からも明らではあるが、言葉にして明確化させたのは信頼されているからだ。

膝をついて小さな王子と視線を合わせる。


「ご迷惑をお掛けする訳にはまいりませんので、殿下のお気持ちだけ頂きたく存じます」

「俺はお主を迷惑などと思ってはいない」

「では、私は殿下の御傍にいても宜しいのでしょうか?」


口に出してから狡い言葉だったと思った。

戸惑いを滲ませた淡い色が月光をためて揺れている。

怯えていると、それがわかっていて逃げ道を塞ぐような事を言ったのだ。


「騎士の誓いをお許しいただきたく存じます」

「なにを……、俺は忠誠なんていらない!お主の忠義なんて、俺は欲しくない」


細い声が悲鳴のように拒絶となってガレスの心に突き刺さる。

この痛みは王子の痛みだ。

ずっとセオドアがひとりで抱えていたものだろう。


「お主の命を俺に背負わせるな、そんなのはたくさんだ。ひとの命なんて俺なんかには重過ぎる」


泣かないようにと強く目を瞑ったセオドアが、再び瞼を開きガレスを真っ直ぐに睨みつける。


「あやつのようにお主にまで死なれたら、俺はどうすれば良いのかわからない」

「私は絶対に死んだりは致しません」

「あやつを愚弄するな。俺よりもお主よりも、きっとあやつは強かった。俺が足を引っ張った。だから、そのような戯れ言を俺が信じると思うな」


怒りと悲しみの入り混じるそれに、捕まえたままの小さな手を握りしめた。

護衛騎士の彼女は強かったと聞く。

セオドアの寝室に侵入した男に対して、睡眠効果のある魔法具を使用されておきながらたった一人立ち上がり王子の盾となったのだ。

出血多量で死に至るまでに王城内に警報を鳴らす魔法を放った。

最期まで王子を守り抜き散った彼女を軽んじるつもりはない。


だからこそガレスに守らせて欲しかった。


「では、私は絶対に貴方を庇って死ぬような事は致しません」

「ならどうする、共に仲良く墓に添える花でも考えてくれるとでも言うつもりか」

「最善を尽くしますが、セオドア殿下を守り切れぬ時は貴方の死を見届けてから己の命を断ちましょう」

「死ぬ事はゆるさない、俺が死んだ後もお前は生きろ」


人間はいつか死ぬ。

そんな事を子供とてわかっている。

わかっているからこそ、駄々をこねるように嫌だと同じ言葉を繰り返していた。


「左様ですか、ではそう致しましょう」

「……騎士の誓いを立てろ。破ることは絶対に許さない」


騎士の誓いは命の契約だ。

セオドアの声が震えていた。

命令しておきながら、歯を食いしばり泣き出しそうな顔で口を固く引き結ぶ。

まるで痛みを伴っているかのようだ。


「かしこまりました。私はセオドア殿下に忠誠を、この身を守る誓いを、この心だけは貴方に全て捧げると騎士として魂を賭けると精霊に誓いましょう」


ガレスの声に精霊が反応したのか、セオドアの片側の瞳が一瞬紅く染まる。

精霊に宣言した事は絶対だ。覆す事は許されない契約になる。


「なっ、そんなのだめだ!心だって俺はいらない!」


慌てたようなセオドアに笑い掛ける。

もう決めてしまった。

酷い大人だ。大人げがないにもほどがあるだろう。


「それでは寂しいではございませんか。殿下、この心だけはお受け取りください」

「寂しくなんてない。それに俺はお主になにもしてやれないのに……」

「いいえ、そうではありません。私が気高く前を向く貴方様に私を捧げたいのです」

「ガレス………」


だからどうか諦めて欲しい。


「私をセオドア殿下の物にしてくださいませんか」


「誓いを違える事は許さぬぞ」

「微力ながら、最大限努力致します」

「努力してくれなければ、俺はお主を許さない」

「はい」

「やくそくしたぞ」

「必ずやご期待に応えてみせましょう」


どうかこの小さな王子様にこの想いが届くように、そう願う。


「ですから、寂しくないなどとおっしゃらないでください」

「絶対に誓いを覆さないな?」

「はい、万物の精霊に誓って」


ガレスの手を主君が握り返す。

俯いたセオドアが口を開いてから閉じた。

言葉を選んでいるような仕草に、ガレスはじっとそれを待つ。


「ほんとうは………………さびしかった。でも、だれにももうしんでほしくないんだ」


この小さなガレスの主人はこの言葉を仕舞い込んでひとりで立っていた。

それは凛として強く、太陽に向いて咲く花に似て揺るがないように見えたものだ。

だがそうではない。

ガレス程度の力ではどうしてやる事も出来ないだろう。

それでも傍にいることだけは許されたい。


「それなのにお主を俺に縛ることが、すごく、うれしい」


春の風がガレスの頬を甘く撫でた。

花が綻んだような子供らしい笑顔と瞬いたセオドアの瞳からこぼれた雫が煌めいては水面へと落ちていく。


「恐悦至極に存じます」

「ガレス………ありがとう。だいすき」


その言葉が届くと、衝動的に腕の中に華奢な身体を閉じ込める。

折れてしまいそうな子供特有の柔らかさと、薄く感じる体付きの幼さの中に彼が戦士だとわかる鍛えられた感触も確かに存在していた。


そのちぐはぐさすらガレスの胸を締めつける。

積み重ねた努力の証だ。この小さな主人の覚悟の証だ。

壊れそうな消えてしまいそうな儚さはない。

それでいて子供特有の高さを残した泣き声は、危うさと脆さがむき出しにされているようだ。


それを覆い隠してしまいたい。

誰にも見せはしまいとガレスはセオドアを抱きしめる力を強くした。


貯水池に落ちた白い花弁が水の上で揺れている。夜闇を反射した水面の緩やかな流れをひらひらとかわしながら、池の淵に積もっていく様は雪のようだ。

それが自身の中にも確かに存在している。


長い慟哭がおさまると、息を上手く吸えない様子の主君が落ち着くまでガレスは背中を撫で続けた。

それにすら痛々しい姿に苦しみを感じているのに、布越しに感じるぬくもりに喜びのようなものもいだいている。


「ガレス、もう大丈夫だ……」


離して欲しいと続いた声に、名残惜しさを感じながら相手を腕の中から解放する。

泣き腫らした淡い春色の瞳が照れたように笑っていた。


「申し訳ございません失礼を致しました。許可なく殿下に触れるなど如何なる罰もお受けいたします」

「ガレスに触れられるのは嫌ではないし、兄上がたまにしてくれるから意味はわかっているつもりだ」


言い訳じみた自身の発言に笑ったガレスをフォローするようにセオドアが発した言葉は、それは全く意味が異なるのではないかと思ったが口には出さずに黙秘した。


だからこそ無防備に甘えられている。

その信頼を裏切らないことを誓うように最敬礼の姿勢をとった。

精霊に誓う言葉は出てこないくせに、唇に視線がいかないよう相手の額の辺りを見て、触れたい欲求が自分の中に芽生えている自覚だけがそこにある。


思慕とは、池に落ちた花弁が降り積もっていくさまにどこか似ていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る