第10話 曲がった爪 004



 俺は早足で夜道を帰り、凛音の待つボロアパートの前へと戻ってきた。


 道中、右腕の感覚を馴染ませるためにひたすら動かしつつ歩いていたが、その甲斐あって大分平時の状態に近づいたと思う。


 俺は右手をグーパー開きながら、手の平を見つめる。



「……」



 『噛み殺しハウンド』、か。


 橙理の奴隷になるにあたって、その証として右腕に宿された刻印。肘から先に生まれるのは、この世のものではない異形の獣。そいつはヒトの頭部が大の好物で、常に腹を空かせている。今もきっと、俺の意思とは関係なく、獲物を探しているのだろう。


 俺はこいつと、一生共に過ごさなければならない。

 人を殺したという、十字架を背負いながら。



「……」



 ……にしてもうちのアパート、改めて見ると外装にかなりガタがきている。部屋の中だって決して快適な空間とは言えないし……四脳会の人に言えば直してくれないだろうか。彼らは金だけはたんまり持っているんだし。明日は午前中で授業も終わるから、その後にでも問い合わせてみることにしよう。それと、立花が生きているか確認しに中央病院にもいかないとな、一応。



「……ただいまー」



 俺は間男よろしく静かにドアを開ける。外見に違わず当然壁も薄いので、帰宅の挨拶は左隣の住人に配慮して小さな声で。どんな人が住んでいるのかは知らないが、無用なご近所トラブルは避けるべきだろう。


 暗い室内は、俺が朝部屋を出た時のまま、物が散らかっていた。



「……」



 果たして引っ越してきて一カ月足らずで、こうも汚せるものか……自分の才能に拍手を送りたい。

 凛音は掃除が苦手なので、恐らくこの部屋にいても何も思わないのだろうが。



「あ、お兄ちゃんお帰り。バイトお疲れ様」



 明日こそは部屋を片そうと決意していると(寝たら忘れる)、凛音の声が聞こえてきた。



「……おう、ありがと」



 彼女はまだ十五歳なので、この時間まで起きていたら不健全なのだけれど、人のことは言うまい。俺なんて、中学生に上がった時から朝帰りは普通だった。



「冷蔵庫の残り物、食べてよね。それとちゃんと次の日の準備をしてから寝ること。お兄ちゃん、朝は弱いんだから」



「わかってるよ」



 我ながら、できた妹だ。


 両親が死に、こんな状況になってまで、兄の心配をしてくれている。


 俺は凛音のために、何ができる?



「……」



 眠りにつく前に諸々のあれこれをやらねばならぬとわかっていても、しかし体と精神の疲労には勝てない。妹の助言も聞かず、俺は布団へとダイブした。


 なにせ今日は一度死んで一人殺しているのだ。少しは大目に見てほしい。



「あ、ちょっとお兄ちゃん! もー!」



 凛音の怒る声が、心地よく耳に入ってくる。


 俺は睡魔に襲われるまま、深い眠りに落ちていった。



―――――――――――――――――



 ここは、夢の中か。


 一カ月前まで叶凛土と叶凛音、そして叶夫妻が住んでいた、懐かしの我が家。そのリビングで、食卓を囲っている。


 両親は金持ちの部類ではなかったが、一軒家を持ち、長男を大学まで入れ、何不自由ない暮らしを送らせてくれていた。まあ、そんな長男は妹と違って反抗期にグレたりもしたので、迷惑はかけまくっていたのだろうが。


 そんな父と母の顔が、どことなく若い。恐らく、この家での一番昔の記憶。丁度、妹の凛音が産まれる頃だろうか。自分に兄妹ができると知り、どこか浮足立っていたのを覚えている。



『凛土はお兄ちゃんになるんだから、きちんと部屋の片づけしなくちゃだめよ』



 母はよくそう言って掃除を促していた気がする。部屋の片づけについてはこの年になっても言われていた気がするが、その不都合な事実は伏せよう。



『妹……。名前は決まってるの?』



 当時小学校に入りたてだった俺は、妹が産まれるという事実を上手く消化できていなかった。ペットを飼う感覚というか、とにかく新しい家族ができる実感が全く沸いていなかったように思う。ただ、今までとは違う日常になるのだろうと、漠然とした期待感はあった。



『名前は凛音にしようと思うの。凛土はどう思う?』



 母に問われた時、正直自分と名前が似ていて嫌だなと思った。頭二つの音が被ってしまったら、アイデンティティが侵される……もちろんそこまでは思っていなかったが、何だかうっすら嫌な気持ちになったのは確かだ。



『リンネ……それじゃ、リンドと似てて、何かやだな』



 口に出していたらしい。我ながら生意気なガキだ。



『凛土がこんなにいい子に育ってくれたから、お兄ちゃんにあやかって同じ漢字を使おうと思うの。嫌かしら?』



 その発言がどこまで本当かは定かではないが、そう言われたら嫌な気はしない。俺は満更でもない顔で首を振る。我ながらちょろいガキだ。



『凛土、お兄ちゃんは妹を守ってあげなきゃいけないんだ。しっかり頼むよ』



 普段口数の少ない父は、そんな風なことを言っていた。カワードという異能が蔓延りだした世の中で、「守る」という言葉の持つ意味はかなり重要だ。父は恐らくそこまで考えてはいなかっただろうが、幼すぎた俺は額面通りにその言葉を受け取った気がする。



『わかった、俺がリンネを守るよ。約束する』



 夢から覚醒する気配がする。


 十五年前に父とした約束を、俺は今果たせているんだろうか。一度は破ってしまった身だ、二度目はないと固く決意する。


 さて、それじゃあそろそろ目を開けるとしよう。


 もう見ることのできない両親の顔に若干の名残惜しさはあれど……しかしまあ、親が死んでからありがたみがわかるというのは、俺も案外、俗っぽい。




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