第8話 曲がった爪 002
驚異的な速度で伸縮する爪。
それが彼女の――『
いとも簡単に立花を貫いたことから、その強度も金属並みに上がっているのだろう。パッとしない異能のようにも見えるが、しかしこと殺人という観点だけで見れば、実に機能的でスマートだ。音もなく、素早く、遠距離から、致命的な一撃を与えられるのだから。
そんな人を殺すことのみに特化した爪が、俺を貫かんと伸ばされる。
もちろん、そんな暴力に対抗できる手段は、俺にはない。
俺の――人間の部分には。
「……!」
右腕が――どくんと脈動する。
未だに慣れないこの感覚は、獣が生まれることを示唆していた。
自分の体が内側から作り変えられる違和感。
右腕から異物が絞り出されるような悪寒。
叶凛土の内面と外面がぐちゃぐちゃに擦り潰される嘔吐感。
「……っ」
激痛。
耐えがたい痛みに襲われながら、俺の右腕――正確には肘から先の部分の皮膚が、溶け落ちる。
続いて、中から現れた筋肉も、硫酸に漬けたみたいにどろっと崩れ落ちた。
肘から先は、骨だけになり。
剥き出された俺の内側が、産声を上げながら軋んでいく。
その苦痛を帯びた
いたずらな神に施された、決して消えない刻印。
永遠に続いたかに思えた痛みが一瞬のものだったと気づいたのと同時に、辛うじて肉の残った肘の関節部分から白い糸状の物体が発現し、骨の周りに纏わりつく。
糸は集まり厚みを帯び、次第に異形を形作った。
獣の頭。
狼のような、虎のような――そんなこの世に存在する肉食獣に似た頭部ではあるが、しかしそのどれとも同じではない異質なもの。
目と耳に当たる部分は落ち窪み、にたりと開いた口の奥には、皮膚の純白さとは真逆の漆黒が広がっている。
生み出されたソレは、さながら空腹の獣ように鼻息荒く獲物を探す。
「……飯の時間だ。意地汚く食い散らかしやがれ」
『曲がった爪』の伸ばした鋭利な爪が、眼前にまで迫りくる。
俺は異形と化した右腕を、前に差し出した。
「『
ゴリッ。
そんな歯応えのある音を立てながら――俺の右腕が、『曲がった爪』の爪を食べる。
「なっ、なによ⁉」
彼女は慌てて爪を引っ込めた。
その表情からは、先程までの余裕と笑みは消えている。
「……なに、あなたもこっち側ってこと?」
彼女は俺の右腕を見ながら言う。
「あんたらみたいなのと一緒にすんなっつーの」
右腕が脈動する――もっと食わせろと鼻息を荒くする。
俺の意識とは別のもう一つの意識が、右肘の結合部を境に混濁している。
気を抜けば、その奔流に飲み込まれてしまいそうだ。
「……私の爪、結構固くしてたはずなんだけど、スナック菓子みたいに食べられちゃった」
思わぬ反撃を受けて一瞬取り乱していた女だったが、しばらく自身の右手を眺めると、やがて落ち着きを取り戻す。
そしてまた、笑う。
「これでも毎日手入れしてる自慢の爪なんだけどね。女の人の髪と爪は汚しちゃダメだって、小学校で習わなかった?」
「……義務教育にそんな教えはねえよ」
彼女は余裕そうに会話をする。そして実際、余裕なのだろう。
状況はほとんど変わっていない。
俺はこれから、恐らく伸びるであろう左手の爪も併せて、十本の刃物を躱しながら、あいつのところまで辿り着かなければならないのだから。そうしないと、攻撃が届かない。
そして残念なことに、俺の右腕ちゃんは食欲おおせいで大変よろしいのだけれど、本体である俺自身の身体能力には全く変化はないのだ。
「私、まだカワードは殺したことないの。あなた、私の初めてもらってくれる?」
状況が状況なら中々にそそるセリフだったが、しかし殺意を向けられながらでは興奮できない。
「……申し訳ないけど、あんた全然タイプじゃないわ」
「ふーん……ま、私もあなたのことタイプじゃないけどね」
言って。
『曲がった爪』は両手を構えて、左右併せて十本の刃物を発射する。
「……くっ!」
予想通りの攻撃だったが、それに対応できるかどうかは別問題だ。俺は右腕の獣を使って爪を捉えようと試みる。ブラックホールのように質量を無視した獣の口腔内は、奴の爪を飲み込み、食いちぎる。
だが、数本を取り逃してしまった。
「がっ!」
食いきれなかった爪は、当然のように俺の腹部を貫き。
全ての爪は、一瞬のうちにその長さを縮ませ、彼女の手元へと戻っていく。
「……!」
繰り出されるのは、圧倒的早さの連撃。
獣が食べた爪も、俺を貫いた爪も、狙いが逸れて空を裂いた爪も、全てが一瞬で伸びて、また縮む。
そしてまた伸びる。縮む。伸びる縮む。伸びる縮む伸びる縮む。伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む。伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む。伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む伸びる縮む。
「ぐっ……!」
これでは、絶え間なくマシンガンを撃たれているのと変わらない。
急所を右腕で守っているから何とか生きているが、躱しきれない爪が容赦なく皮膚を貫き肉を穿つ。
「ほらほらほらほら!」
完全にハイになってやがる。
あの女が何故人を殺すのか、そんなのは明白だった。快楽目的、それしかない。
だから嫌いなんだ、あいつらは。
カワードになった人間は頭のネジがどこか吹っ飛ぶ……元々犯罪者の素質がある奴が力に目覚めるのか、その前後関係はどうでもいい。事実として、カワードはそのほとんどが何かしらの犯罪に手を染め、往々にして人を殺のだ。
だから、嫌いだ。
大した信念もなく、確固たる決意もなく、果たすべき覚悟もなく、ただ己の欲求のために人を殺せるあいつらが――嫌いだ。
業を背負うことなく、人を殺すなんて。
卑怯者だ。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」
『曲がった爪』は叫ぶ。その声を聞けば、この時間でも善意の誰かが不審がって通報してくれるかもしれない。
だが、そんなラッキーパンチを待つ余裕は、残されていなかった。
「……っ!」
ズブリと。
弾丸の雨の如く押し寄せていた爪のうちの一本が、俺の首を貫く。
その急所を突く攻撃に一瞬怯んでしまった俺の隙を、彼女は逃さない。
頭部を。首元を。両肩を。左腕を。右脇腹と左胸部を。右大腿部と左膝を。
一斉に貫かれる。
「あははははははは!」
そんな女の高笑いが聞こえた気がしたが。
こうして。
叶凛土の命は、実にあっけなく奪われたようだ。
やっぱりと言うか、当然と言うか。
神様の奴隷になった俺は、碌な死に方はしなかった。
―――――――――――――――――
人間が到底許容することのできない痛みを感じ、刹那的に意識が戻る。
ゴリゴリと鼓膜にこびりつく嫌な音を立てながら、ソレは俺の下半身を喰い漁っていた。
霞む目を凝らせば、路地の奥にはどす黒い血溜まりが広がっている。
どうやらメインディッシュを食べ終え、今はデザートのお時間らしい。
絶望が釘となって、失意が鋸となって、悲観が斧となって、苦悶がナイフとなって――叶凛土の全てを、引き裂き蹂躙していく。
死をも食らう痛みが、永遠と続く。
こいつは頭の部分が特にお気に入りだから、中々とどめを刺して楽にしてくれない――好物は最後に残しておく趣味なのだろう。
俺はただ、自分の体が獣の体内へと収まっていく様を、見ているしかなかった。
俺の首から下を美味そうにたいらげたソレは、ついに頭部に舌を伸ばす。
生暖かい感触と氷みたいな悪寒にない交ぜにされながら、俺は目を閉じる暇もなく獣の口腔内にゴリッ。
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