BOXER Magia

うずら@駄文書き

GDB丸目×初マイカーの社会人

「さあ、始めようか」

 そいつは呼びかけているような気がした。気性はちょっと荒そうだが、今自分が必要としていそうなものがそいつにはあった。今なら大丈夫、これが人生の転機になるのかもしれない。一縷の望みをかけ、キーを捻った…


 いつも思うことがあった。

 変わり映えもしない、アパートで寝て、食って、会社で仕事をするだけの生活をどうしたら自分は抜け出せるのだろうかと。

 仕事に満足はしている。収入はそこそこ、上司との関係は良好。安定そのものと言って良かった。家庭科の成績はいい方では無かったが1日三食は作れるし、ちょっと変わった飯に挑戦することもあった。タバコも吸わない、酒も飲まない。運動も軽くはする。健康的な生活だ。

 趣味はこれと言ってない。まあたまに映画を見るくらいなものかもだが、本当にそれだけ。だから、何か刺激になるようなものを求めていたのかもしれない。


 ジメジメとした6月のある土曜日。スーパーにでも行くか、と腰を上げて家を出る。大体1キロの道のりはいい運動になる。一人暮らしの上、あまり食べることもないから大荷物にもならない。だからちょっとした散歩でもあった。

 一人、黙々と道を歩く。考えているのは企画書のこと、週の献立のこと、まあこのくらいだ。結婚願望も大してない身分が考えるにはこれくらいで充分である。

 暫く歩いて中古車屋の前を通る。車は単なる移動手段としての認識であり、今のところ必要としているわけでもない。自動車免許は社会人一年目の時友人の勧めでマニュアルを取ったが、オートマティック全盛の今では大して必要性を感じない。仮に旅に出るとしても鉄道で移動して、あとはレンタカーとかだろう。

 それでも、ちょっと気になるな…と思った。一応貯金はあるし、親に言ったら多分ある程度援助してくれるだろうから新車もアリなのだが、これと言ってこだわりもない。だから安く、少しボロくても全然いい。そもそも日本は車を大事にする国だというからそうそう酷いものではないだろう。こんにちは、と声をかけてゲートを潜って敷地に入った。

 比較的幅広い車種、メーカーが揃っている中古車屋だった。軽自動車やセダン、ワゴンはもちろん8tトラックも数台。メーカーもど定番と呼べたトヨタ、ホンダ、日産、ダイハツの日本車だけでなくメルセデス・ベンツ、フォルクスワーゲンのような有名メーカーから全く聞いたことのないシトロエンとかいうメーカーの外車もあった。

 とりあえず軽から見ていく。大体6桁価格、稀に百何十万という価格のがある程度。正直善し悪しがわかる身ではないから分からなかったら販売員に聞こうくらいなつもりでいた。

 続いてミニバン、ワゴンが固められているコーナー。こっちは土曜日ということもあってか、子連れも多かった。こちらは割と7桁行っているものが多いがそれは装備品の問題だろう。あまり人を乗せることもないだろうからテレビがどうの7人乗りがどうのみたいなのは求めていない。そのままスルーしていった。

 セダン、クーペが置いてあるコーナーまでたどり着いた。

 今のところ、選ぶとしたら軽かこの辺の車だろう。少しじっくりと眺めていくことにする。

 価格層は割と広く、安いと70万、高くて400万近くのとあった。装備品は簡素なものも有ればかなりコテコテとついたものもある。走行距離は5000キロ程度の慣らしが終わったものから60000、70000キロと言ったかなり乗られたものまで。色々な情報があると本当によくわからない。こうなると最後は直感で選ぶことになるかもしれないな…

 そんな中、一台の黒い車が目に止まる。

 スバル インプレッサWRX STIの2001年製、カラーはミッドナイトブラックマイカ。価格148万で走行距離4.5万キロ。丸目ヘッドランプが特徴の型式としてはGDBと呼ばれる部類のものである。もちろん彼にとってそんなことは知ったこっちゃないのだが。

 スバルという名前は知っている。しかし特色がどうのという話は興味ないから知らない。多分、水平対向エンジンが、シンメトリカルAWDがどうだと言われてもさっぱり分からないだろう。彼にとって、まだ一メーカーとしての名前に過ぎない。

 それでも何か、そいつにはオーラを感じられた。他の車にはない力強さを。それが何なのか、彼はもっと近寄った。

「乗れよ」

 幻聴か、と最初考えた。まさか車が話すわけがない、そう思った。

「何か欲しいものがあるんじゃないのか?物だけでは補えないような、もっと刺激になる何かを」

 多分他には聞こえてない、これが聞こえるのは自分だけだ。しかしこいつは今の自分が欲しているものを知っている。いったい何なんだ…かれは右手に回り、ドアを開いた。

 ガチャ、とノブを引く。シートに滑り込んだ。ステアリング、シフトレバーに手をかけ、ABCペダルに足をかける。シフトレバーはちょっと怖くなるくらい手によくフィットした。横で握っても、上から握っても好感触。これはひょっとすると運命でなくとも一つの出会いではないだろうか…

 車から出てあらためて黒いそいつを見る。丸い目で見つめるその顔はこれから何かが始まるのではないかという期待を感じさせた。

 折角なので販売員に話を聞くことにしてみるか。

「すいません、この車…」


 それからあの車について販売員とのやりとりをしてその日は終わった。初のマイカーであり何も知識がないが大丈夫だろうかと聞いたが特に心配はいらないそうだ。軽い説明を受けたりすることに中古車屋には暫く通うことになるだろう。

 また家族に言ったら、反対されることなくあっさりOKが出た。まがりなりにも社会人であるからかもしれないが、難色を示されるのではないかと考えていただけに意外だった。


 一通りの購入とそれに付随する手続きが終わったのが7月も終わりに近づくころ。晴れて、あのインプレッサは自分の所有物となった。自身初のマイカーだ。

 納車当日。午前10時に件の中古車屋に行くと綺麗に磨き上げられたそれがあった。

「どうもこんにちは。

 こちらが車両の取り扱い説明書、それと車検証、保険証などなどになります。お確かめください」

 そうしてどっさりと手渡された。これで本当に自分のものとなる…

 外に出て、車まで近寄る。販売員とはここでお別れだ。どうぞ大事にお乗りくださいね、そう声をかけられた。

 ドアを開けて、シートに滑り込む。

「さあ、始めようか」

 これが人生の大きな転機になるのか分からない。それでもあまり変わり映えしない、自分の日々を変えてくれることは間違いない。

 一縷の望みを込めてキーを鍵穴に挿し込み、捻る。

「キュルルルルルルルルドゴォゴゴゴゴゴゴ…」

 セルの音が暫く響いた後にフラット4、総排気量1994ccにターボ・チャージャーで280馬力を叩き出すEJ20エンジンが鼓動を始める。自分の手で今から動かすのだという実感がひしひしと湧いてくる。

 販売員に礼を伝えて、敷地を出る。車両間隔は初めて乗るとは言え、教習車が同じサイズだったためすぐ慣れた。

 4000回転まで回してクラッチを踏み込み、シフトレバーを倒す。2速に繋がった。続いて3速へ。なんと気持ちいいものだろう。教習車のマニュアルミッションはこんな楽しいものではなかった。寧ろ億劫に感じられるほど。だから、マニュアル車に乗る人間って何が楽しいんだろう?と思っていたが、その疑念が吹き飛ばされる気持ちだった。

 ちょっと追い越しもしてみようと思った。別に必要というわけでもなかったが、なんか試したくなったのだ。状況を確認したのちウインカーを出し、右の車線に移る。この動きも実にスムーズ。ステアリングの操作にしっかりとボディが応えてくれる。

 そしてアクセルを踏み込み加速。5000回転まで回る。もう少しで6000に行きそうだと思った時には2台も追い越してしまっていた。後方確認して元の車線に戻る。

 とてもこのまま家に帰るのはもったいないように感じられる。幸い財布も持っていて、ある程度中身もある。ちょっと遠い、複合施設の方まで出て普段のスーパーでは手に入らない食材でも買って、ついでに飯も済ませようか。

 適当な転回可の交差点でUターン、そのまま複合施設のある街に向けて走り出す。距離としては10キロあるかないかくらい、所要時間としては30分もないだろう。

 国道に入る。ここなら充分踏み込めるだろう。制限速度60キロの道を流れに乗り80キロほどで流す。途中交差点での分岐も通るが、ステアリングに対しての反応が良い。やはり走ってて楽しい、街乗りには充分すぎるスペックだろうなと思われた。

 そうして走ること暫く、その施設に着いた。初めて来るが大変賑やかだ。今までこうしたところに行くことは滅多になかったが、これからは月一ペースで来ることになるかもしれない。

 まずは食材…と、一階のコーナーに降りる。そうするとどうだ、普段目にしない食品の数々。割高というわけでもなく、近所のスーパーとは値段も変わりない。それだけでなくバリエーションも多彩だ。骨つきハムやら、多種多様なソーセージ、ホースラディッシュなどとても手にしたことがなかった。どれもこれも…と思ってしまうが次回の楽しみにしておこう、と思ってひとまず野菜を買った。

 他の店も見て回った。服なんかも色々とあり見ていて飽きない。なるほど、都心の人間はいっつもこんなとこで買い物しているんだな…

 腹が減っていたのでフードコートでうどんを啜る。外食だって滅多にしなかったから、こんなにも旨いものなのかと驚かされる。

 駐車場に戻り車に乗り込む。こんなにも楽しく過ごしたことは社会人人生初めての出来事ではないだろうか。ホクホク気分で出庫、帰路に就く。

 帰り道、ステアリングを握りながら考える。こうして車で走ることって楽しく思えるんだな、と。それはこのインプレッサの性能に起因する何かがあるのかもしれない。今度はもっと遠くにいってみようか。泊まりがけで行ってみようか。考えは膨らんでいくのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る