第6話 桃ちゃんのおうち

 翌日の休み時間、俺は絶望に打ちひしがれていた。


 終わったわ……。俺、終わったわ……。


 一時間目が終わり、クラスメイト達が談笑を楽しむ中、俺は一人机で絶望という名の漆黒の鎧を身に纏ってうな垂れていた。


「お兄ちゃん、どうしましたか?」


 が、そこでそんな声が頭上から聞こえたので頭を上げると、何やら俺を心配げに眺める桃ちゃんの姿があった。


「あぁ……桃ちゃんか……」


「な、なんだか今日は元気がないですね……。何か辛いことでもあったんですか?」


「ま、まあな……」


 俺が朝っぱらから絶望している理由。それは今朝のホームルームで榊七菜香女史が口にした言葉のせいだ。


「あ、昨日伝え忘れていたが、今年から定期テストに変更があった。今年からは本試験と追試で別々の試験を出すことになったから。本試験の内容を丸暗記しても無駄だからな。覚悟しておけよ」


 そう言って先生は何故か俺を見つめると、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべて教室を出て行ったのだ。


 これこそが俺が絶望している理由だ。


 去年までは最悪、補習を真面目に聞いて本試験の回答をそのまま暗記すれば留年することはなかったのだが、今年からは完全に追試も実力勝負だ。


 そして俺に実力なんてあるはずがないっ!!


 去年は補習を真面目に聞いていなかったから落ちただけ。本気になれば進級なんて余裕と考えていたけど、そんな甘い幻想は打ち砕かれた。


「お、俺……今年も留年するかもしれない……」


 と、悲壮感漂う表情で桃ちゃんに言うと、彼女はそこで先生の言葉を思い出したようで「あ、あぁ……なるほど……」と苦笑いを浮かべた。


「お、お兄ちゃん……そんなに勉強が苦手なんですか?」


「まあ留年するレベルにはな……」


「で、ですよね……」


 と、俺の言葉になんと言葉を返せばいいのかわからない模様だ。


 が、桃ちゃんはしばらく「困りましたね……」と頭を悩ませてから不意に何かを思いついたように目を見開いた。


「あの……私、お兄ちゃんに勉強教えましょうか?」


「え?」


「こんなことを自分で言うのも変ですが、私、勉強にはそれなりには自信があります。きっとお兄ちゃんの力になれると思います」


「ま、マジかっ!?」


 なんという朗報。俺の灰色の瞳にわずかではあるが光が戻る。


 桃ちゃんが勉強を教えてくれるなら、勉強嫌いは学年トップの自信がある俺でも少しは勉強をしようという気になれそうだ。


「わ、私、お兄ちゃんのためにがんばります」


「おう、よろしく頼むっ!!」


「と、ところで相談なのですが……」


「相談?」


 と、そこで桃ちゃんは何故か頬を朱色に染めると俺から顔を背けた。


「私、本気でお兄ちゃんが進級できるように頑張ります」


「お、おう。ありがとな……」


「ですからその……お勉強を教えた日には、ご褒美に……お、お兄ちゃんごっこがしたいです……」


「なっ……」


 お兄ちゃんごっこ……。


 それは昨日桃ちゃんと初めてした闇深い遊びである。血のつながりのない女の子を妹呼ばわりして頭をなでなでする罪深い遊び。


 別に法を犯しているわけでもないのに、とてつもない背徳感に襲われる禁じられた遊びである。


「いや、さすがにお兄ちゃんごっこは……」


「私とお兄ちゃんごっこをするのは嫌でしょうか?」


「いや……そういうわけではないけど……」


「私、お兄ちゃんを絶対に進級させてみせます。それとも私では力不足でしょうか? 私、お兄ちゃんのためならどんな努力も惜しみません。だから、少しだけでもお兄ちゃんの妹でいたいんです。お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」


 あー怖い怖い……。


 なんだかいつの間にか桃ちゃんの瞳から光彩がなくなり始めている。


 これが一回だけと、軽い気持ちでお兄ちゃんごっこに手を出してしまって抜け出せなくなった女の子の顔だ。


「わ、わかったよ……。勉強を教えてもらえるなら少しぐらいなら付き合うよ……」


 と、答えると直後、桃ちゃんの表情がぱっと明るくなった。


「私、嬉しいです。お兄ちゃん、二人で一緒に進級目指して頑張りましょうね」


「お、おう……」


「あ、あと、私がお兄ちゃんに勉強を教えることは二人だけの秘密にしておいてくださいね」


「いや、なんで……」


「なんでもです……」


 桃ちゃんはそう言うと「じゃあ放課後、楽しみにしていますね」と言い残して自分の席へと戻っていった。


 勉強を教えてくれるのは凄く嬉しい……。それなのに、喜びと同時に俺は何か得体のしれない不安に襲われた。



※ ※ ※



 というわけで一縷の不安を抱きながらも放課後を迎えた俺は、昼休みにさりげなく桃ちゃんに手渡された地図と待ち合わせ時間が書かれた紙を頼りに元に待ち合わせ場所へとやって来た。


 そして、手渡された地図に書かれていたのは……。


「ここって……」


 地図に示された場所は住宅街の一角で、そこには『稲峰』と桃ちゃんの名字が書かれている。


 その偶然とは思えない一致に、何とも言えない胸騒ぎを感じていると一軒家の扉が開く。


「あ、お兄ちゃん」


 やっぱり……。


 やっぱりそこは桃ちゃんの自宅だったようで、扉から桃ちゃんがひょっこりと顔を出すと何やらご機嫌そうに笑みを浮かべていた。


「もしかして勉強ってここでするのか?」


「ええ、そうですが……何か問題でもありますか?」


「いや、別に問題はないけど……桃ちゃんはいいのか?」


「何がですか?」


「いや家に男子生徒を入れるのって、やっぱり女の子は怖いだろ?」


 さすがに出会ったばかりの男を家に上げるのはまずいんじゃないのか?


「知らない人を上げるのは怖いですが……お兄ちゃんはお兄ちゃんですし」


 いや、全然理由になってないですよ。


「それにお兄ちゃんは美羽ちゃんのお兄ちゃんですし、さすがに変なことはしないのは知っていますので」


「ま、まあ、桃ちゃんが良いのならいいけど……」


「とりあえず上がってください」


 そう言って桃ちゃんは家から出てくると門まで歩いてきた。


 と、そこで俺は彼女が私服姿であることに気がつく。


 多分、うちに私服姿で遊びに来たことは何度かあるのだろうけど、その時はまだ知り合いではなかったし正直記憶に残っていない。


 それにしても私服と制服では結構印象が変わるものだ。


 桃ちゃんは黒のミニスカのワンピースを身に着けて、首にはこれまた黒いチョーカーを巻いていた。ワンピースはシルエットがはっきりしており、彼女は小柄な体とは対照的に胸元は大きく膨らんでいる。


 不覚にもそんな彼女の姿に見惚れていると桃ちゃんは「おにいちゃん?」と首を傾げた。


「え? な、なんでもない……」


 と言って自宅へと招き入れる桃ちゃんについていく。そして、桃ちゃんは家に入るや否や体を反転させて俺を見上げると「お、お兄ちゃん……お帰りなさい」と少し恥ずかしそうに口にした。


「お、おかえりなさい?」


「お兄ちゃん、家に帰ってきたときはおかえりなさいじゃなくて、ただいまですよ?」


 あ、もしかしてもうお兄ちゃんごっこ始まってる感じっすか?


 桃ちゃんはなんとしても俺にただいまと言わせたいようで、頬を赤くしたままじっと待っている。


 これは言うしかないようだ……。


「た、ただいま……」


 つ、罪深い……。お兄ちゃんごっこはどうしてこんなにも罪深い気持ちになるのだ……。


 が、俺がただいまと言ったことで桃ちゃんは満足してくれたようで、靴を脱ぐと俺の前にスリッパを出してくれた。


「私の部屋は二階にあります……」


 と、桃ちゃんに先導されながら階段を上がっていく。


少し急な階段の桃ちゃんの5段ほど後ろを登っていると、ちょうど俺の目線の先で桃ちゃんのスカートがゆらゆらと揺れるのが見える。


 桃ちゃんは少し恥ずかしそうにスカートを手で押さえながら登っていく。


 そして、


「ここです」


 と、桃ちゃんは階段を登り終えたところで、すぐ目の前のドアを指さした。ドアには丁寧に『モモ』と書かれたハート形の表札までついている。


 彼女がドアを開けると、視界に桃ちゃんの自室が広がった。


 なんというか……いかにも女の子という感じの部屋だった……。


 室内は薄ピンク色で統一されており、ベッドのカバーもカーテンもさらには机に置かれたティッシュカバーも薄ピンク色である。


 美羽の部屋とはえらい違いだな……。と、俺は軽くカルチャーショックを覚えながらも部屋に入った。が、部屋に入るや否や桃ちゃんは「私、紅茶を淹れてきますね。お兄ちゃんはゆっくりしていてください」と言って早々に部屋を出て行ってしまう。


 いや、ゆっくりしてって言われてもな……。


 そのあまりにも俺の部屋とは違う雰囲気に俺はなんとも落ちつかない。


 床に座ればいいものの、俺にはそんな勇気もなくそわそわしながら彼女の部屋を見渡す。


 と、そこでふと本棚が目に入った。特に意味はないのだが、かといって落ち着かないので本棚へと歩み寄るとそこに並べられた本をぼーっと眺める。


 さすがは桃ちゃん。本棚には少女漫画の背表紙がずらっと並んでいる。


『今日 お兄ちゃんとデートします』


『生徒会長の義妹になりました』


『我が家の王子様が今夜も寝かせてくれない』


『妹活っ!!』


『大嫌いな男子がお兄ちゃんになった』


 OH……NO……。


 俺は思わず床に崩れ落ちた。


 そして妙に納得もする。


 なるほど桃ちゃんをおかしくさせてしまった元凶はこいつららしい。


 もしかたら俺はとんでもないところに迷い込んでしまったかもしれない……。

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