らんにんぐらいふ

ヒロイセカイ

らんにんぐらいふ

 先日発売したばかりのランニングシューズをオンラインサイトで購入したのが、一昨日の夜。

 昨夜、顔見知りの配達員によって自宅に届けられた。


 新しい箱を開け包装紙を開きシューズを取り出す。

 いつもトレーニングに使っているインナー付きの短パン、大きなドクロのデザインが気に入っているTシャツ、ランニングキャップ、口を覆うバフを身に着けて玄関に座りシューズの紐を締める。


 ドアを開け外気を感じると、20段ほどあるマンションの階段を下りて地面に足をつけた。

 その日の天候や気温、気分や体調で7キロから15キロ程度のコースの中から決めるが、今日走るコースは道路沿いを10キロほど走るコースだ。


 先日東京オリンピックパラリンピックが終わった。

 2013年9月に開催が決定して、チケットを購入したのが2019年6月。10月にはパラリンピックのチケットも入手できた。8年間、いや実際は2010年に2016年の招致を失敗した時からだから11年、東京での開催を待ち望んでいた。

 小学生のころ、オリンピックを初めてテレビで観た時にいつか日本で開催されないか、と願ったことを含めたら何十年と待っていたのかもしれない。


 しかし、昨年2020年3月30日に開催延期が決定。そして今年2021年7月8日にオリンピックの無観客が決定した。

 その後パラリンピックも無観客が決まった。連日テレビやインターネットライブで、ほとんどの競技を寝不足なく観れたのは北京大会以来だろうか。いや、「視聴競技数」でいえば、自宅で複数の競技を同時にインターネットライブで観戦できたから比べるまでもない。

 リアルではない中継での観戦も、終わってしまえば祭りの後のように焦燥感が残った。


 自国開催となったオリンピックの影響も少なくはないだろうが、テレワークで生じた運動不足や、人の集まるスポーツジムに行きたくない健康志向の人々が、街中でランニングをするようになったと強く感じる。走り方から走り慣れてる人、走るのはぎこちないが何かしらのスポーツを経験した体形の人、走り方だけでなくシャツやシューズのチョイスで運動慣れてしていないと一目でとわかる人など、様々な人を春以外にも夏の夜や冬の朝にも多く見かけるようになった。


 1キロほど走ると交差点で赤ん坊を背負った母親を見かける。

 すると、赤ん坊が足を振った際に靴が転げ落ちたが、赤ん坊の母親はスマートフォンに集中し気づく様子はない。

 私は落ちた赤ん坊の靴を拾い、主婦が驚かないように右側から話しかける。「靴落としましたよ」

 30代ほどの母親はハっと軽く驚いたような様子で顔を向けたが、すぐに何のことか気づいたらしく「ありがとうございます」と子供の靴を受け取った。


 母親に靴を渡し、すぐに走り始めると直線道路に差し掛かる。

 しばらく進むと、店からベビーカーを押す父親が出てきた。

 歩道のわずかな段差にベビーカーの前輪右側の車輪がはまり、ベビーカーが右に傾いた。

 私は通り過ぎる際にスピードを落として、ベビーカーのフードそっと手をおいた。

 ベビーカーを押す父親の「あ、ごめんなさい。ありがとうございます」という声を背中で聞き、そのまま走り続けた。


 2011年3月11日14時46分。その日たまたま自宅近くの路上にいた私は、道路上でふいに眩暈に襲われたと思った。

 しかし周囲をみると周りの人も不思議そうに立っている。揺れているのは自分自身ではなく地面だったのだ。

 これまで、外にいて地震に気づいたことはなかっただけに、電柱や信号、商店街の看板など不安定な人工物が揺らめいていたのを見た瞬間は衝撃だった。なにより驚いたのは、遠くに見える高層ビルの揺れがわかるほどだったことだ。

 2日前の3月9日11時45分、私は新宿のとある高層ビルの上層階にいたのだが、突如起こった地震の大きさに驚いたが、あれが前兆だったとのかと不意に脳裏をよぎった。


 公園外周のコースを走る。

 複数の親子連れが、大きな遊具の滑り台を滑ったり、ウンテイで遊んでいる。


 スクランブル交差点に差し掛かると、対面側のコーナー途中でエンストを起こした車が止まっていた。

 車に詳しい方ではないが、自分でも古い型なのがわかるほど四角いボディラインをしていた。クラシックカーなのだろう。運転手は右側のドアを開け外に出ると片手でハンドルを握ったまま押し始めた。

 クラシックカーのある対面側の道路は自分が走るコースとは逆なので、向こうに行ったら信号を待ってから戻ることになるが、他に手伝う人もいないようだったので、対面側の信号が変わると同時に車の方へ走った。

 車のリヤスポイラーに手をかけ一言「押しますよ」と運転手に伝えた。

 運転手は驚いた様子で後ろを振り返り「すいません」と言った。


 車を数メートル進ませると、コーナー付近を離れたため、運転手が振り返り「ありがとうございます」と言った。

 私は片手で軽く手を振り、横断歩道の手前で信号が変わるのを待ちながら、クラシックカーのエンジンがかかるのを見届けた。

 信号が変わる前にクラシックカーは動き出し、視界から遠ざかっていった。


 2001年9月11日22時、当時働き出して間もない頃。自宅に帰ってテレビをつけると、アメリカで大きなタワービルが燃えていた。

 タワービルの火事というだけでも大きな事故だが、テレビアナウンサーの声で火事ではなく飛行機の追突だと知り、リモコンを握ったまま立ち尽くし、テレビから目を離せなかった。

 2機目の追突はリアルタイムで見た。異国の映像にも関わらず、とても恐怖を感じた。


 まもなく10キロコースが終わる。左腕のGPSウォッチがキロごとのタイムを知らせているが、今日はいつもよりだいぶゆっくりなペースになっていた。心拍数も150台が表示されている。


 最後の横断歩道だ。信号は青だったが、私が渡り始めたと同時に点滅し始めた。

 今日は見知らぬランナーに後ろから追い抜かれることもなかったな、とか、帰ったら何を食べよう、とか考えながら横断歩道に入った。


 それはまるでスローモーションのように時がすすんだ。

 視界の外からすっと割り込んだ影。黒いワゴン車。


 肺に空気が急速に吸い込まれる感覚になる。


 ケーキのロウソクの火を消すくらい、息をかけたら届くような距離でワゴン車が目の前を通り過ぎて行った。


 頭皮から足のつま先に生えた産毛まで、全身の毛穴の水分が一瞬で蒸発したような感覚。


 通り過ぎた黒いワゴン車は、そのままのスピードを緩めることなく直進していった。


 信号が変わり、周囲の人たちは何事もなかったように横断歩道を渡って行った。


 私も何事もなかったように、自宅までの残り数分を走り出す。



 3年前、友人と約束していたランニングを、前日に断ったあの日。

 それが友人と連絡を交わした最後の日となった。


 約束をしていた前日のあの日まで、雲のない晴天が何日も続いていた。前日の夜、彼から「ネットで調べたら翌日雨かもしれない」とメールアプリで伝えられるまで、天気など気にも留めていなかった。これまでの経験から、10月といっても土砂降りの中で走るのは体に堪えると思い、約束を断ってしまった。


 結局、あの日は昼頃まで雨は降らなかったので、約束の10時に公園に集合していたら、あまり影響はなかっただろう。


 予定が空いた友人は、午前中雨が降りそうもなかったので、一人で近所をランニングすることにしたが、その途中、80代の男性が運転する車に轢かれて死んだ。

 あの日、約束していた公園で一緒に走っていてれば彼の運命、人生が違ったものになっていたのだろうか。

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