知らなかった過去と繋がり 3

 僕は、どんな顔をしていただろう。涙ながらに僕を睨みつけていた梶さんは、掴んでいたシャツを悔し気にゆっくり放すと項垂れてしまった。そのまま泣き崩れてしまうんじゃないかと思えるほど、肩を落としてしまっている。僕はどんな言葉をかければいいのかもわからず、ただ時間が過ぎていくままに任せていた。


 下を向いたまま、梶さんは気持ちを抑え込むように何度か呼吸を繰り返す。そうやって時間をかけて心を落ち着かせると、ポツリポツリと話し出した。


「暑い夏だった……。田舎は虫が多くてあまり好きじゃなかったけど、毎年決まったように訪れる祖父母の家は好きだった。都会にはない木の滑らかさや畳の感触。どこまでが家の庭なのかわからないくらい自然に溢れた土地。柿の木があってね、渋柿だったんだけど。祖母がそれを干し柿にしていてね。子供の頃はあまり好きではなかったけれど、今なら美味しいって思える。実家で厳しく育てられていた私たちは、田舎へ行くと祖父母にたくさん甘やかされた」


 昔話のように話す梶さんの言葉を、聞き逃してはならないと僕は感じていた。彼女とあの日の出来事とが、きっと何かしらで関連しているはずだから。


 けれど、知りたいと思う好奇心よりも、知ってしまうことの不安が大きく幅をきかせているのも事実だった。


 今ならまだ止められる。すべて話を聞いてしまったら、もっと大きな不安に圧し潰されるかもしれない。想像が先走り、不安の渦に飲み込まれ。僕の心臓は、無駄に大きく音を立てて警戒する。けれど、頭の片隅では、今彼女の話を聞かなければいけない。これを逃したら、僕はこの先もずっと背を丸め、後悔し続け生きていくことになるだろうと感じていた。


 ペットボトルを握る手に力が入る。耳を塞ぎ、今にも逃げ出したい感情を必死に抑えつけた。


「その日、祖父ちゃんの農作業に付き合って兄は先に出かけてしまったの。今更あとを追う気にもならなくて、私は一人近所の山に出かけて行ったわ。高い木が太陽に向かって伸びていて、セミの声が耳鳴りみたいに次から次へと響いてた。都会には殆どない草や土を踏みしめる感触は、お気に入りの靴が汚れてしまうと倦厭しそうになるのになぜか心地よくて。でも、汗で張り付くTシャツには不快感を覚えずにいられなかった。そんな私の目の前を大きなモンキチョウが飛んで行ったの。住んでいる場所で小さな蝶を見かけることはあっても、あんなに大きくて綺麗な黄色の羽を持つ蝶なんて見たことがなかったから、慌てて追いかけたわ。どうにか捕まえて兄に自慢しようって、必死になってあとを追ったの。蝶は、まるで私を導くみたいにフワフワと木の間を縫っていった。その先で、一人の男の子に出会ったの。色白で手足が細くて、頼りないというのが最初の印象だった。あのくらいの時期は、女の子の方が成長は速いから、身長も私の方が高かったしね。子供の数がとても少ない田舎で、まさか自分と同じくらいの子に出会うなんて思わなかったから、すぐに興味を抱いたの。男の子は太い木の幹の根元に立ち尽くして、首を伸ばすようにして上を見上げてた。何を見ているのかと、そっと近寄ったら悔しそうに顔を歪めて泣きそうな顔をしてた。私は、さっきまで追いかけていた蝶のことなんてあっという間に忘れてしまって、元来持つ世話焼き心が抑えられず、どうしたのかと訊ねたの。突然現れた女の子に男の子は驚いたようだったけれど、私が同じような年齢だと理解するとすぐに心を開いて言葉を交わしてくれた。彼は、この木を登りたいけれど、うまくできないんだと悔しそうに零してた」


 そこまで聞いて、益々心臓の音は焦るように大きくなっていった。僕の中ではすでに彼女との繋がりが見えてきていた。


「私、やんちゃだったからね。木登りなんて、得意中の得意だったのよ。校庭ののぼり棒なんて、あっという間に天辺まで登っちゃうくらいだった。だから、教えてあげたの。木登りの仕方を、教えてあげたの。私が彼に、教えてしまったの……」


 梶さんは、苦しそうに息を吐き出した。項垂れていた顔を上げると、まっすぐ前を見据える。まるであの日の出来事が目の前で起きているかのように、悔しそうで悲しげな表情をする。


 今の僕も同じような顔をしているんじゃないだろうか。あの時のあの瞬間に戻れるなら、僕は一輝のために助けを呼びに祖母ちゃんの家まで駆けて行ったかもしれない。落下して倒れた一輝に声をかけて、励ましてあげることだってできたかもしれない。一輝に登らせず、僕が登ることができたかもしれない。


「手足は木の棒みたいにすごく細いし、あまり筋力はなさそうだったから、うまく引っ掛けられる場所を探して登り方を教えたの。頭は良さそうだった。一度言ったことは忘れないし、理解力はあった。けど頭と体は別だから、なかなかうまく登れなくてね。その日から二日。私はその子に、猛特訓よ。泣きべそをかきながらも、彼は必死に登ろうと努力していた。悔し涙を目に浮かべて、汗だくになって、登ろうと必死になってた。二日目の陽が暮れる前に、あと少しで登れそうっていうところまできていたけれど、明日は兄ちゃんが来るからと特訓はその日で終了したの。自分は兄ちゃんみたいに運動が得意じゃないけれど、勉強の苦手な兄ちゃんが、今一生懸命に家で頑張っているから。僕も頑張ったっていうところを見せたいんだ。凄いなって、兄ちゃんに褒められたいんだって笑ってた」


 褒められたいと必死になり、頑なに真っすぐ前だけを見ていただろう表情が、ありありと想像できて。僕の胸の奥は熱を持ち、苦しくて、悔しくて、涙に声がもれそうになる。


「騒ぎを聞いたのは、翌日の夕方だった。子供には知らせない方がいいと思った大人が気を遣ったのね。けど、結局。田舎の繋がりは濃いから、私も兄も通夜に参列することになったの。それに一人残された子供が可哀相だから、私たち兄妹が無垢な感情で励ますように声をかけられればいいと考えたのかもしれない。けど子供だって、流石にあの場ではしゃぐなんて、できないよね。そこまで無邪気でなんていられないよ。特に私は……」


 梶さんは、そこで一旦、言葉を止める。ため込んだ感情を穢してはいけないとでも言うように、静かにゆっくりと息を吐き出してから再び口を開いた。


「遺影の彼は、兄ちゃんと呼んでいた兄弟のことを私に話していた時と同じように、とても明るい顔をして写ってた。祭壇そばにある家族席には、彼とまったく同じ顔をしていながら、今にも死んでしまうんじゃないかというくらいの蒼白で暗い顔をしている男の子が座ってた。きゅっと唇を結び、真っ青な顔をしているのに涙は少しも浮かんでいなくて、この場から切り離されてでもいるみたいに見えた。狂ったように泣き崩れる母親を抱えるようにして退席して行った父親の背中を追うこともなく。ただじっと椅子に座り、自分の膝の上にある拳を見続けてた。まるで一緒に遠くに行ってしまったような顔つきだった。それを見て、私は怖くなったの。逃げ出したくなったの。これ以上この場所に居られない。居たくない。怖くて、苦しくて。周囲にある迫るような黒い色たちに責められている気がして、息もできなくなるくらい苦しいものに飲み込まれるような恐怖を感じた。焼香もせず、突然走り去る私を母が追いかけてきたけれど、様子がおかしいことに気がついたのか、外にいた近所のおばさんに私を預けて葬儀場に戻って行ったわ。どのくらい時間が過ぎたのか解らない。泣き崩れた母親と、連れ出した父親が通夜の席に戻ったのかどうかも知らない。私は、噂好きのおばさんがぺちゃくちゃと会話している傍からそっと離れて庭の方へ向かったの。大きな木が生えてた。なんの木だろう。思い出せないけれど、とてもどっしりとしていたその木の根元に、ポツンと坐っている彼に気がついた。膝を抱えて、さっきと同じようにどこか意識は遠くにあるような、ぼんやりした生気のない表情をして木に体を預けるように座り込んでた。私は写真の彼にかけたように、その彼にも声をかけたの。そうしなくちゃいけないって、強く思ったから」


 ずっと忘れていた。あの日のことを思い出す辛さに、僕は記憶に蓋をし続けていたんだ。一輝がいなくなってしまったことを忘れるなんてできやしなかったけれど、葬儀のことやその後の暮らし。あの頃の記憶は全てぼんやりとしていて、辛い思い出について父や祖母に訊ねる勇気もなかった。病んだ母は、田舎の祖母のところで暮らすようになっていたし。あの大きな一軒家で父と二人だけの生活を送りながら、波風が立たないよう言葉少なに暮らしてきた。そうやって僕は、今までずっと現実から目を背けて生きてきたんだ。けれど、梶さんの話を聞き思い出した。あの時、確かに僕に向かって声をかけてくれた女の子がいた。猫のように瞳が大きくて、凛としているのに僕と同じようにつらそうな表情をしていたあの女の子は。


「梶さん、だったんだね」


 頭の上でキュッと結い上げたポニーテール。目力のある強気な表情。あの時から彼女は変わっていない。僕に話しかけてきた彼女は、どこか怒っていて、とても悲しげだった。


 あの日。母を連れて葬儀の場から退席した父たちに気づきもせず。ただ膝の上で握られていた拳を睨み続けながら一輝の顔を思い出し、何もできなかった自分を責め続けていた。


 木の上から一輝が落ちた時、どうして声をかけなかったのか。一輝は死んでしまったのに、何故自分は生きているのか。どうして誰も、僕が悪いと責めないのか。


 頭の中ではそれだけがグルグルと巡っていて、祖母がかけた声に気がついた時、僕の体は強く強く抱きしめられていた。祖母からは、家に漂う独特の香りや煮物の香り。そして、線香の香りがしていた。皴皴の祖母の手は、小さな僕を抱えるようにして奥の静かな畳の間へと導いた。


「いっちゃん。辛かったね。泣いてもいいんだよ」


 二人だけの六畳間の部屋で、祖母は僕を再び抱きしめた。けれど、泣いたのは僕じゃなく祖母の方だった。


 抱き締められながらわかっていたのは、祖母が流す涙も、母や父が流す涙も。ここへ来た黒い服の人たちみんなが流す涙も。全て自分のせいだということだった。


「あったかい牛乳を持ってくるからね」


 いつもは使わないような綺麗なハンカチで涙を抑えた祖母が、優しくも切ない表情を残し部屋を出て行った。部屋からは庭が見えた。大きなカツラの木がこちらを窺い見ているような気がして、裸足のまま庭に下りていった。


 昼間の熱をため込んだ地面はほんのり温かくて、ゴツゴツとした木の肌に寄り添い膝を抱えて座り込むと、預けた背中がチクチクと痛んだ。土は僕を受け入れ、木は拒絶しているような対局の感情を覚えたそのすぐあとだった。


「ねぇ」


 声はどこか異界の場所からかけられたように、耳を素通りしてしまいそうだった。


「ねぇ」


 もう一度聞こえた声は、さっきよりも弱々しいのに、どうしてか僕の意識を現実に引き戻す。


「手、貸して」


 自分と同じくらいの、ポニーテルをきつく結い上げた女の子が、座り込んでいる僕に向かって手を差し出していた。条件反射のように手を伸ばせばぎゅっと握られ、そのまま目の前にしゃがみこんできた。


「この手でね、何度も触れたよ。君のもう一人に。私、何度も触れたよ」


 震える声で話す女の子に驚いて、言葉もないまま彼女の大きな瞳を見続けた。


「忘れないでね。私のこの手の温かさは、君と彼の温かさと同じなんだから。君の中にあるあったかい温度と同じなんだから。だから、忘れないで」


 女の子は僕の手を握り、その手の上にもう片方の手も重ね、大丈夫というように目を見続けた。重ねられた手は小さくて細いのに、頼りがいがあって心強さを感じさせた。


 この手は一輝の手の温もりと同じ。


 さっきまで一粒だって出ることのなかった涙が、女の子の温もりを認識した瞬間に止めることができないほどに溢れ出した。嗚咽を漏らし、声を上げる僕に嫌がることもなく、女の子は手を握りずっとそばにいてくれた。可哀相だとみてくる大人の目とは違う。自分と同じ感情を持ち合わせているような気がした。女の子の言葉には、泣いてもいいんだって。声を上げて辛かったんだと言ってもいいんだって。そんな気持ちが伝わってきた。


 どれくらい経っただろう。女の子のことを呼んでいるだろう女性の声が何度か聞こえてきて、彼女も僕も気にし始めた。


「君、呼ばれてる」

「うん。ねぇ、君の名前、訊いてもいい?」

「いつき」

「いつき。忘れないで。君のその手は、かず君の手の温かさだからね」

「さなえー」


 再び呼ばれた女の子は、すっくと立ちあがるとポニーテールを揺らしてその場をあとにした。


 あの日の僕を救ってくれたあの手を、あの温もりを。僕はどうして今の今まで忘れていたのだろう。同じ感情を抱え、僕に一輝の温もりを教えてくれた女の子のことを忘れてしまっていたなんて。


「手、貸して」


 梶さんがあの時と同じようにして僕の手を取る。


「大丈夫。ちゃんとあったかい。君の手は、ちゃんとあったかい」


 ただそれだけのことだった。だけど僕の涙腺は崩壊するしかなくて、止めることなどできるはずもなくて、子供のように再び情けない姿を彼女にさらした。


 涙を流し続ける僕に呆れることなく、彼女はあの時の一輝の温もりをもう一度伝えようと手を握る。しっかりと力強く。そこにはとてつもない優しさがあって、暫くの間僕は彼女の温もりを感じ続けていた。


 涙が落ち着いたころ、今思うとね、と再び梶さんが口を開いた。


「あの時。君の手を握ったあの時。きっと私自身が温もりを欲しがっていたんだと思う。彼と同じ顔をした君が、同じように冷たくなっていたらどうしようって、きっと不安だったんだと思う。君は大丈夫。ちゃんと温かい。ちゃんと生きていて目の前にいるんだって。自分が安心したかったんだと思う」


 不安な気持ちは同じだった。言葉だけじゃなく、心が壊れてしまわないよう触れあいたかったんだ。


「君のせいじゃない。そうやって、今までずっと言われ続けてきたんでしょ?」


 訊ねるようにして僕の目をのぞき込む彼女の瞳はまだ悲しげだ。


「私ね、あの日のことを祖母にだけは話したことがあるの。君の兄弟との二日間。彼に木登りを教えてしまった二日間のことを。だから、私も同じ。私のせいじゃないって、祖母に何度も何度も諭された。何度も……」


 僕はゆっくりと頷いた。


 彼女もずっと後悔し続けていたんだ。僕と同じように、あの時ああしなければよかったと、同じ感情を抱き続けていたんだ。けれど梶さんと僕の違いは明らかで。彼女は僕と違い、その現実から目を逸らし、俯き、逃げ出したりしなかったということだ。


 後悔を抱えながらも、前を向いて生きてきた。見た目は強気に見える彼女だけれど、そうなろうと努力し、前に進んできたのだろう。安穏と日々を超えて、後悔の渦に飲み込まれては暗幕の内側に隠れて生きてきた僕とは大違いだ。


 一粒の雫が梶さんの頬を濡らす。手の温かさを感じながら、僕はあの日のようにまた彼女に救われていた。忘れていた温もりを思い出させてもらい。今まで俯かずに来た彼女の生きざまを見せつけられた気がした。


 僕たちは、こんなにも悲しい現実で繋がっていた。一輝を喪ってから十年以上も経って、漸く知ることができたんだ。


 商店街であれだけの騒ぎがあっても、少し離れてしまえば町はとても静かだった。梶さんの過去を知った僕と。あの日のことを僕に伝えた梶さんは、その静かな夜の中、無言でそれぞれの部屋へと帰った。


 部屋に戻ると、待ちくたびれてしまった結城は僕のベッドを占領し爆睡していた。マシロがケージの中で元気に動き回っていた。


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