知らなかった過去と繋がり 2

「健さんのところって。こんな時間にやってないでしょ」


 呆れる梶さんを見てもっともだと思ったけれど、マシロのことを考え一応商店会へ足を向けた。


 二人きりになってすぐ、僕の頭にはお礼を言いたいという気持ちが現れる。


「この前は、その。マシロのこと、ありがとう」


 頭を下げる僕を見て、梶さんが息を吐く。


「病院代。あとで請求するからね」

「もちろんです」


 当然ですと真剣な顔をする。


「で、マシロちゃんは元気なの?」

「うん。今日も元気に干し草を食べて、コロコロとあちこちにウンチをしてたよ」

「最後の情報は、要らないから」


 コロコロについて話すと、ちょっとだけ笑ってくれた。


 それにしても健さんのことを親しげに呼ぶということは、梶さんも商店街の人たちと仲がいいのかもしれないな。


「商店街には、よく行くの?」


 駅からの短い距離を、酔い覚ましのように並んで歩く。


「そうね。お店に行くときには通るし。幸代さんのところのパンもよく買うよ」


 やっぱり、幸代さんのところのパンは人気なんだな。部屋に置いてきたお礼のパンをあとで渡そう。


 歩調を合わせながら、梶さんの揺れるポニーテールをそっと見る。今日は、プイッときつく揺れることがなくて、僕は少し浮かれていた。いや、こうやって一緒に飲むことができ、並んで歩くことができている現実に相当浮かれていた。結城には、マジで感謝だ。


 商店街に入ると、案の定。健さんの店のシャッターは下りていた。モールを買うのはやはり明日だな。


「やっぱり閉まってるじゃん」


 呆れた息を吐いた梶さんが機嫌を損ねないようにと顔色を窺ったけれど、アルコールのおかげなのか頬がほんのり染まり表情は穏やかなままだ。


 少し行った先のおキクさんの店のある辺りで、背の高い脚立を使い提灯の取り替え作業をしている二人組が目に入った。昼間、健さんが話していた件だろう。


「ここの提灯は、カラフルで綺麗よね」


 梶さんは商店街の天井を見上げながら、ゆっくりとした足取りで作業をしている方へ向かって歩いていく。僕は、言われるままに提灯を眺めたあと、梶さんの顎のラインや、喉から鎖骨に流れる線の細さやうなじを見て。そっちのほうがよっぽど綺麗だと考えていた。お兄さんがあれだけのイケメンで、妹の梶さんも綺麗となると。ご両親は、どれほど顔の整った人たちなのだろう。僕も残念はつくけれど、結城にはイケメンだと言って貰えている。けれど、父親はごく普通の容姿で、母も整ってはいるが特別美人の部類というほどではない。いいところだけを貰ったのかもしれない。だとしたら親に感謝だ。


 取り替え作業をしている傍に近づいていくと、少し離れた場所に健さんが立っていることに気がついた。腰に手を当て、若い男性が作業しているのを見上げるようにして眺めている。近づいていくと、僕らに気づいた健さんが表情を緩めた。


「よぉっ。樹。なんだ、早苗とデートか」


 からかうようにして、梶さんをニタニタと見た。


「やめてよ、健さん」


 梶さんの表情が満更でもないように見えるのは気のせいか。


「なんだよ。別にいいじゃねぇか。樹も早苗の兄ちゃんに負けないくらい、イケメンなんだし」


 健さんは、梶さんのお兄さんのことも知っているようだ。しかし僕がお兄さんと同じくらいのイケメンだなんて、とんでもないよ。石川さんに叱られてしまう。


 健さんと話をしていると、作業をしている二人の声が聞こえてきた。


「違う、違うっ。そのコードを先に取り付けてからだって」


 脚立の下にいる青年が見上げたまま、少しイライラとしたような声音で作業をしているもう一人の青年に指示を出している。


「取り替え作業っていうのは、意外と手間のかかることなんだよ」


 腕を組んだ健さんは、訳知り顔でうんうんと頷いたあとに指をさす。


「あれ。俺んちの脚立。樹、何かあったら貸してやっから言えよ」

「はい」


 とは言ったものの、三メートルほどもある背の高い脚立を使うタイミングなどないと思う。


 僕と梶さんは遠くから見守る健さんから離れ、作業をしている青年たちへと更に近づいていった。どんな具合なのかと、取り付けのことなど少しもわからないというのに、下で脚立を支える青年と同じように提灯を見上げる。


 取り替え作業は、配線がうまくいかないのか難航していた。健さんの脚立でも微妙に高さが足りず、必死に腕を伸ばして作業に没頭している。そもそも高い位置にあるものに手を伸ばしながらの作業というのは、視界も限られるし、心臓よりも上にある腕がだるく疲れてくるので集中力も削がれてしまうものだ。あと少しというところで、うまくいかないのか、作業をしていた青年が大きな息を吐いて一旦腕をおろした。


「きっつう」


 手に交換する提灯提げたまま、だるくなった腕を揉んでいる。


「岸田、もういいよっ。かわれ。俺がやる」


 脚立を押さえていた下の青年が見かねたように声を出し、下りてくるように指示した時だった。


「うわっ!」という声とともに、足を滑らせた青年がドスッという鈍い音を立てて地面に落下した。


「岸田っ」


 下にいた青年は、落ちてきた岸田という青年の足が肩にあたり顔を顰めながらも声をかけている。


 あまりに一瞬のことで、僕は声も出ない。


「きっ、岸田っ! おい、岸田っ」


 足が当たった肩を押さえながら、苦痛に顔を歪めて倒れている岸田青年に向かって必死に声をかける。体をゆすり、声をかけ。叫ぶ。傍には、取り替えようとしていた提灯が、おもちゃのように転がっていた。


「無理に動かすなっ!」


 離れて見ていた健さんが駆け寄り、必死の形相で制した。そうしながらも、素早い状況判断で、携帯を取り出し救急車を呼ぶ。


 すぐ目の前で落下した岸田青年の姿に、僕の顔面は蒼白となっていた。ガタガタと足が震え、声すら出ない。隣には梶さんもいるけれど、どんな顔をして何を言っているのか全く分からない。周りの音が聞こえてこなくなってしまったんだ。キーンという嫌な耳鳴りがし出して、目の前で起きている状況が無声映画のようだ。苦痛に顔を歪める岸田青年。叫ぶように声をかけているもう一人の青年。健さんの素早い対応。この一瞬の間に目まぐるしい状況が起きているというのに、僕の耳には何一つ音が聞こえてこない。意識が遠のいていく。目の前で起きた事故に、あの日のことがフラッシュバックする。


「かずき。かずき……」


 自分の口からそう漏れていると気がついたのは、赤いランプが商店街を照らし、救急隊員が到着した時だった。サイレンに気がついた住民が、なにごとかと次から次に顔を出す。おキクさんや幸代さんの姿が見えたけれど、それ以外の人たちを認識する余裕はなかった。


「離れてくださいっ」


 担架をおろした作業員に大きく声をかけられハッとするも、足はコンクリートで固められたように動かすことができなかった。


 脚立から落ちた青年の顔に、一輝の顔が重なる。苦悶に歪んでいる表情が僕を責め立てる。


 助けて、兄ちゃん。助けて、痛いよ。


 あの日、一輝のその声を聞いたわけではない。なのに頭の中では何度も何度も一輝の声が木霊する。助けを乞う声の裏側で、自身の声はさらに僕を責める。


 何故、声をかけない。何故、助けようとしない。どうして見殺しにする。またあの時のように、何もせずにいるつもりか。


 頭の中で自分の声が反響するのに、周囲の音はぼんやりと遠い。胃液がせりあがる。さっきまで結城や石川さんと盛り上がって楽しんでいた居酒屋の料理やビールが込み上げてくる。


「ぐぼっ」


 蹲り嘔吐する僕の腕を引き、強引に立ち上がらせる人がいた。ハンカチを差し出され条件反射のように受け取り口元を拭う。


「こっち」


 見ると、僕の腕を引いたのは梶さんだった。後方に誘導し、離れた場所へと移動する。一緒に居られることに舞い上がっていた気持ちはもうどこにも見当たらず。梶さんが存在していたことさえ分からなくなっていた。


 迅速な対応で岸田青年を担架に乗せた救急隊員は、健さんも一緒に車に乗せて走り出した。残されたもう一人の青年は、不安に顔を歪めながら立ち尽くしている。その後源太さんがやって来て「車を出すから来い」と青年を連れて行った。多分、救急車に乗った健さんと連絡を取りあって、運ばれていく病院へ向かうのだろう。


 岸田青年の家族は、どうしただろう。突然の知らせに生きた心地がしないはずだ。あの日の父と母を思えば、僕の胃液はまたポンプのように内容物を押し上げる。


「ごめん。うっ」


 吐しゃ物の上に涙を零しながら、蹲る僕の背中を梶さんが無言のままさする。


 提灯の取り替え作業は延期だろう。商店街の人たちが、脚立や道具を片付ける姿が視界の隅に入る。目の前で事故を目撃したというのに、僕はその様子を見ても何もできず、吐しゃ物と共にただ蹲ることしかできない。


「ここに居ても何もできないし、行こう」


 僕が落ち着いてきたのを見計らい、梶さんが促した。隣に立つ彼女の顔を見れば、あの日の一輝のようにとても蒼白だった。体温を失ったように真っ白な顔と紫色に近い唇。まるで気温の低い日に入った海やプールでの子供みたいだ。目の前で起きた事故に、彼女も動揺をしていたんだ。情けない僕は、そんな梶さんよりもずっと打ち震え、声をかけられてもなかなか足を動かすことができずにいた。


「行こう」


 再び声をかけられ、僕は彼女に手を引かれて足を前に出した。まるで幼い弟が姉と家路を辿る時のようだった。



 僕の情けない足取りに気を遣ってか、彼女の歩調はとてもゆっくりしたものだった。駅前を通り過ぎ、路地を行き。いつもの通りに出るひとつ前の角を彼女が曲がる。連れられている僕も曲がる。少し行くと、ベンチとトイレしかないとても小さな公園があった。


「知らなかった」


 呟く僕を殺風景な公園のベンチに座らせ、彼女は踵を返した。出てすぐのところに設置されている自販機で、ミネラルウォーターを購入して戻ると僕に手渡す。嘔吐したことで気持ちの悪くなった口内を、ミネラルウォーターでゆすぎ垣根の隅に吐き出した。


「少しは、落ち着いた」


 隣に腰かけた梶さんに訊ねられて表情を窺うと、彼女もさっきよりは蒼白さが緩和されていた。


 公園の夜は静かだった。少し出てきた風が申し訳程度に植えられた木々を揺らし、囁き声のような音を立てる。人通りのない公園前を通る人は誰もいなくて、ショートカットにもならない道路を車が通過することもない。


「迷惑かけて、ごめん」


 口の開いたペットボトルを握ったまま、隣の彼女見ることなく謝った。


「別に。今更この程度の迷惑なんて、迷惑のうちに入らないでしょ」


 サバサバとした物言いは、さっきの出来事を重く捉えないようにしようという気づかいが窺えた。


「梶さんは、平気?」


 自分のことばかりに囚われていたけれど、彼女の様子を思えばショックを受けていないはずがない。


「平気、とは言い難いかな」


 彼女は、自分のスニーカーを見るようにして下を向いた。


「そうだよね。だって、人が目の前で」


 そこまで口にしただけで、気持ちの悪さが蘇り表情が歪む。一輝の時のように、立ち尽くすことしかできなかったさっきの自分が、情けなくてどうしようもない。反面。仕方ないんだと、諦めて逃げ出そうとしてしまう感情のジレンマに圧しつぶされそうにもなっていた。


 あの日から、僕は何も変わっていない。一輝の時間を止めたのに、のうのうと今の今まで長い時間を費やしてきた。さっきの出来事に遭遇して、自分が今まで生きてきた時間の薄情さがありありとわかった。僕という人間は、何一つ変わっていない。後悔だの、たらればだの。あれこれ考えたところで、価値のない人生を送っていることに変わりはないんだ。中学の時、あんな風にからかわれたのだって、僕そのものの人生がどうしようもないものだったからだ。あのクラスメイトがイラついたのも、仕方のないことだったんだ。


 だって僕は一輝を……。


「……また、人を見殺しにした」


 俯いていても、呟いた僕の顔を梶さんが見ているのが解った。見殺しなんて言葉を聞いて、驚いているのだろう。過去に僕が殺人を犯した人物なんだと思い、怯えているかもしれない。けれど、言い訳なんて一つも浮かばないし。寧ろ、そうだと思ってくれて構わない。


 全てに投げやりな感情が纏いつく。今のこの状況も、のうのうと生きてきた自分にも。周囲に優しくされたことに、つけあがるように笑い続けてきたことも。


 一輝を助けもしなかったのに、笑って生きてきた自分を嘲笑いたい。


「なんで僕じゃなかったんだ。どうせなら、あの時一緒に死ねばよかったんだ。人を殺しておいて生き続けようなんて、所詮おかしな話だったんだ」


 口をついて出た言葉は、心の中にずっと抱え込んできた感情だった。


 あの日、僕を責める人は誰もいなかった。父さんも母さんも祖母ちゃんも。近所の噂好きな人だって、寧ろかわいそうな目に合ってしまったと涙ながらに僕を慰めた。そんな周囲の状況に落ち込んだように過ごしながらも、僕はずっと胡坐をかき続けてきたんだ。


 しょうがないじゃないか。あんなの、助けられるはずがないじゃないか。僕が悪いんじゃない。僕のせいじゃない。


 懺悔の気持ちを抱えながらも、何とか正当性を盾にして、責任逃れをし続けてきた。


 誰も責めないのなら、僕が悪いわけじゃない。僕のせいじゃない。僕が殺したんじゃない。


 頭の中で蠢く訳の分からない軟体動物が、ナメクジのように這いずり回り、悪くないという感情を気持ちの悪い滑りを含んで体中に塗り込んでいく。


 本当はそんなこと思いたくもないのに。僕だったらよかったのに。どうして僕が登らなかったんだ。どうしてすぐに止めなかったんだ。


 後悔ばかりで気が変になりそうになって。でも、それよりも早く母の精神が病んで、僕は平気なふりをして、元気なふりをして、家族を笑顔にしなくちゃって、泣いてちゃダメなんだって。そうやって生きるしかできなかった。


 放心したように項垂れる僕に向かって、梶さんが静かに息を吐く。


「それ。今までずっと、そう思って生きてきたの?」


 さっきまで感傷的で、気遣いを見せるように静かだった梶さんの声音が鋭利なものに変わった。今話したことで、スイッチが入ったみたいだ。切り裂くような言葉に、僕ははっとして隣の彼女を見た。きっと、情けない言葉を口にする僕に嫌気がさしてしまったか。もしくは、あまりの不甲斐なさに以前のように怒っているはずだ。


 けれど、僕が目にした梶さんは、口元を震わせて瞳一杯に涙をため込み、今にも零れだすその雫を必死に堪えているとても悲しい表情をしていた。


「かじ、さん」


 予想外の反応に戸惑い、どんな言葉をかけていいのか浮かばず、僕はただ彼女の名前を途切れるように呟くしかできなかった。


「ずっとそうやって。あの頃からそうやって」


 大粒の涙が梶さんのズボンの上に黒い染みを作った。零れてしまった雫を払い除けるようにして頬を拭った梶さんは、僕の着ているシャツを鷲掴みにして睨みつけてくる。


「誰もあんたを責めなかったし、誰もあなたのせいだなんて思っていない。どうしてそれを解ってあげないの。あなたがそう思わなかったら、周りの人はもっと傷つくのよ。違うっ?」


 吐き捨てるような言葉に、岸田青年の落下事故との繋がりが見つけられない反面。過去の出来事には符合していく。


「梶さん。どうして」


 何をどう訊ねたらいいのか。あの日の出来事と、彼女がどう関係しているのか。何か訊くべきなのに、混乱した頭は言葉を口から出すことを拒絶してでもいるみたいだった。


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