思わぬ収穫 4
図書館は大きな公園の手前にあり、意外と大きく沢山の書物があった。図書カードを作成してもらい、文庫本を二冊借りた。それを持って公園に入る。どこかベンチでもあれば坐って読もうかとも思ったけれど、あまりにも緑や空気が気持ちよすぎて、散歩がてらそのまま歩き続けて行くと少し栄えた小さな通りに出た。レンガ敷きの道幅は、それほど広くない。
こんな所に洒落た通りがあるんだな。
小さなイタリアンの店にジーンズショップ。角には花屋があり、その先にはカフェや雑貨屋が見えた。
「コーヒーでも飲んでいくか」
本を読みながら寛いで、忙しい日常のストレスを払拭したい。
カフェに近づいていくと「SAKURA」と書かれた看板が掲げられていた。建物は木目を基調とした造りで、外壁は白くペンキで塗られている。二段ほど高くなった甲板を上がっていくと、さわやかなスカイブルーのドアがあり、少し女性的な雰囲気が強い店舗に感じた。男一人だとなんとなく入りづらいなぁと、向かい側にある雑貨屋を振り返った瞬間、僕の心臓は大きく跳ね上がった。
「梶、さん」
小さく漏らした声に反応するように、店先に居た彼女がカフェの前に佇む僕に視線を向けた。その数秒後、彼女の目は鋭くなる。睨みつけられるように見られた僕は、思わず怯んで半歩ほどあとずさってしまった。相変わらず、快く思われていないようだ。
「えっと、こんにちは」
知っているのに挨拶もしないとなれば、更に印象が悪くなるだろうと、梶さんの目に震えあがりながらも頭を下げたところでカフェのカウベルが鳴った。
「こんにちは。どうぞ」
背中までの柔らかそうな髪の毛を緩くウエーブにして一つに束ねた女性が、カフェのドアを開けて現れた。開襟の真っ白なシャツの首元には、華奢で細いネックレスが鎖骨の上を飾り、黒のカフェエプロンがその柔らかそうな雰囲気をシャキッと清潔感のあるものに見せていた。
カフェの店員さんに一度目を奪われつつも、再度雑貨屋の前にいる梶さんに視線を向ける。
「あ、早苗ちゃんも休憩?」
早苗ちゃん?
店員さんが親しげに呼ぶ声に両者のことを何度も行ったり来たりと見ていたら、梶さんが深く息を吐いてこちらに向かってきた。
「このタイミングには、不本意だけれど。休憩」
通り過ぎざまに低い声で言いながら、先にカフェのドアを潜っていく。僕はタジタジになりながらも、店員さんに出迎えられた手前引き返すこともできない。
「あれ? お知り合い?」
店員さんに訊かれて、苦い表情が浮かぶ。相当嫌われているだけの顔見知りです。という皮肉が心に浮かぶ。
案内された奥のテーブル席に着く。梶さんは、道路側に面したカウンター席に座った。その背中を見る。さっぱりとした白のスポーツブランドTシャツに、ロールアップしたチノパン。ローカットのスニーカーから覗く踝と細く締まった足首。いつものように、頭のてっぺんでキュッと結い上げたポニーテールが、何見てんのよ。とでも言うように揺れる。
見ていたことを咎められた気がして慌てて視線を外し、置かれていたメニューに手を伸ばす。
「早苗ちゃんのお知り合い?」
さっきドアを開けて迎え入れてくれた店員さんが、レモン水とおしぼりを手に現れ、同じことをそっと訊ねてきた。
「えっと、お隣さんです」
お知り合い、というほどの間柄でもなく。単に隣の部屋に住んでいるだけの者だと応えた。
「そう。お隣さんなの。早苗ちゃん、なんだか不機嫌そうよね。どうしたのかしら」
それは、僕も知りたいところなのです。
不思議そうに首を傾げながら、店員さんは本日のおススメランチとデザートメニューを説明してくれた。ランチまでには少し時間はあるものの、商店街を行ったり来たりしたせいか。幸代さんのところで芳しいパンの匂いをかいで食欲が湧いたせいか。それとも源太さんの綺麗な羊羹が美味しくて引き金になっているのか。なんにしろ、小腹が空いていた。せっかくなので、おススメと説明された中からボリュームのありそうなポークDONと書かれた、スタミナ丼らしきものを頼んだ。サイドメニューにサラダと飲み物がついてくる。別料金を足すとデザートもつくらしいが、甘いものはすでに羊羹で満たされているからやめた。
僕のところで注文を聞いたあと、店員さんはカウンター席に座る梶さんのところへも向かった。
「早苗ちゃん、今日は何にする?」
そうだ。さっきも早苗ちゃんと呼んでいた。梶さんの下の名前は、早苗というのか。初めて知った。
そう思ってから。初めてもなにも、挨拶の際に言葉を交わした程度の相手なのだから当然だろう。まるで以前からの知り合いみたいに梶さんのことを見ていた自分に気づき、僅かな羞恥心が掠める。
「オムライス大盛に、デザートを付けてください。チョコレートのロールケーキで」
「了解。飲み物は、いつものアイスティーでいいのかな」
訊かれた質問に、梶さんの首が縦に動いた。
あんなに細いのに、よく食べるんだな。
セクハラに値しそうな思考を慌てて払い除ける。その後、店員さんと二人で何やらこそこそと話したあと、梶さんがクスクスと笑った。ほんの少し斜に構えて座っていたから、緩んだ口元と頬が確認できた。その笑顔はとても愛らしくて好感の持てるものだったけれど。自分が快く思われていないせいか、もしかして僕の噂でもして笑っているのではないかと、ネガティブなことを考えてしまう。
何をやらかして梶さんが怒っているのか解らないままだけれど、確実に僕に対して良い印象がないのは確かだ。おかげで、梶さんが他の誰かと笑みを交わし合うと、僕のやらかした何かについて噂されている気がしてならない。そもそも、梶さんの注文したものがオムライスの大盛にロールケーキという豪快さも、単によく食べる女性ではなく。僕がいるせいで苛立ちが募っての自棄食いかもしれないと、更なるマイナス感情に支配されていた。考えれば考えるほど、自らを貶める思考に心がずんと重くなっていく。
さっきまで小腹が空いていたはずなのに、自ら肩身の狭くなるような思考に囚われてしまったせいで空腹の影が薄れてしまった。そもそも生活に余裕などないのだから、丼なんて頼まず、大人しくコーヒーだけにすればよかったんだ。
ため息を吐き、さっき図書館で借りた文庫本を取り出した。ページを捲ってみたが、梶さんが自分のことをどれほど悪く思っているのかばかりが気になって少しも頭に入ってこない。読むのを諦め、こちらに背を向け坐っている梶さんを窺い見る。頬杖をついて外を眺める背は華奢で線の細さがよく分かる。Tシャツから伸びた二の腕は細いけれど、触れたら柔らかそうだ。うなじも綺麗で、空調に少しばかり揺れる後れ毛に目を奪われる。
「お待たせしました」
突然の声に、ビクリと体が反応してしまった。まるで、悪いことをしている瞬間を目撃された子供みたいだ。
「あら、ごめんなさい。驚かせてしまった?」
「あ、いえ」
ぼんやりと梶さんに目を奪われていたことに動揺を隠し切れずにいると、注文したポークDONが目の前に現れた。
「お好みでこのソースをかけ足してお召し上がりくださいね」
削がれたはずの食欲が丼の香りをかいだ瞬間に、再び威力を振るいだした。早速口にすると、豚肉は柔らかく口の中で溶けいくようで、味付けもめちゃくちゃうまい。かき込むように腹に収めていたら、あっという間に食べ終わってしまった。
「うまかった」
ぼそりと零した言葉をたまたま聞き拾ったのか、さっきの店員さんがニコリと僕に笑みを向けた。なんか、癒し系の微笑みだな。梶さんのシャキッと鋭くスッキリとした笑みとは対照的だ。いや、別に梶さんのことをディスっているわけじゃない。確かにここの店員さんの笑顔は癒し系だし、容姿もふわっとした柔らかさを醸し出している。けれど、それは客相手というものが建前にあるせいかもしれないじゃないか。梶さんだって、僕が変なことをしなかったら、もっと素敵な笑みを向けてくれていたかもしれない。いや、変なことってなんだよ。変なこともなにも、何をやらかしたかわかってもいないじゃないか。
誰に向かって必死に言い訳をしているのか。自分のこととなると、すぐにネガティブな思考になるのは性格上の問題だ。
暗澹たる思考に陥っていると、早々に食べ終わった梶さんが席を立って店を出て行った。窓越しに彼女の行方を追っていると、目の前にある雑貨屋の中へ消えていく。
「何か買うのかな?」
再び漏らした独り言に、通りすがりの店員さんが反応した。
「あそこ。早苗ちゃんのお店なのよ」
「えっ」
突然降ってわいた特大の情報に驚き、店員さんの顔を確認するように見るとコクリと頷く。ОLでも大学生でもなく、雑貨屋の店主だなんて。想像のはるか上をいっていた。どおりで、僕との生活時間が合わないはずだ。
会社勤めの人たちと違って、お店を経営しているとなれば週末に休むことなどないだろうし。営業時間も、サラリーマンよりは遅い時間に始まり、帰宅も遅くなるだろう。生活サイクルが全く違うのだから会うはずがないのだ。
それにしても、自分の店を持っているなんてすごいな。
店は輸入雑貨を扱っているようで、ヨーロッパ辺りの異国めいた雰囲気が醸し出されている。そこで初めて、店に掲げられている店名だろうものに目がいった。看板には「Uzdrowiony」と書かれていた。
「う、うず? なんだ、あれ。読めない」
英語ではない文字に首を傾げ、諦めてコーヒーを口にすると、あまりにうまくて驚いた。まじまじとコーヒーを眺めたところで、味の良しあしが見えるわけもないのだけれど、つい黒い水面を凝視したあと顔を上げると、レジにいる店員さんと目が合い再び柔らかな笑みを向けられる。そして、どうしてか首を前に出すようにして若干の会釈をする自分は、挙動不審のおかしなやつに見られている気がしてしまうのだ。
食事とコーヒーをゆっくりと堪能しカフェを出た。 リペアショップで靴底を直しに来ただけのつもりだったのに、よく分からない店名を掲げた雑貨屋で梶さんが働いていることを知った。ツンとした態度は相変わらずで、どう見積もっても僕の印象が変わっているわけもなく悪いままだ。けれど、得た情報の大きさに少し頬が緩む。カフェを出たあと梶さんの店を覗こうかとも思ったけれど、あの鋭い視線に怯えてそのままリペアショップへと戻ってきた。
「はい。綺麗に仕上がっていますよ」
「ありがとうございます」
受け取った革靴の踵はすっかり元のように戻り、月曜日からまた何キロも歩くだろう自分の足を支えてくれるのだろうとシミジミ眺めた。あと何十回こうして踵を直しにこのリペアショップに通うことになるのだろう。考えれば憂鬱にもなったが、梶さんの雑貨屋がその先にあると思うと、わずかながらに気持ちが上がっていく。ついでと言ってはなんだけれど、幸代さんの店に寄ってパンを買ったら、更に気持ちが上向いた。靴底を何度も直すことは憂鬱の種だけれど、幸代さんのところのパンは何度でも買って食べたい。
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